神の小屋

礼拝メッセージ 「神の小屋」
聖書 ヨハネによる福音書14の25−31
ヨハネによる福音書シリーズ(113)

14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

三位一体論



古代を代表する神学者にアウグスティヌスを描いた一枚の絵があります。17世紀のイタリヤ・バロックを代表するジョバンニ・グエルチーノが描いた「三位一体について瞑想する聖アウグスティヌス」です。北アフリカのヒッポで司教をしていたアウグスティヌスが砂浜で書き物をしていました。彼のそばに一人の幼子が立っていて、幼子の可愛い手が砂浜に掘られた小さな穴を指しています。
絵の解説によると、三位一体について瞑想し、何とか『三位一体論』を書き上げようとしていたアウグスティヌスでしたが、余りにも奥深く、神秘に包まれた三位一体について、考えれば考えるほど分からなくなり、途方に暮れていたというのです。ふと気が付くと、一人の男の子が砂浜に穴を掘り、海の水を一生懸命その穴に注ぎ入れていました。
「ねえ坊や、何をしているんだい。」「この海の水を全部このお池に入れるの。」「坊や、それは無理だよ。この大きな海の水を、その小さなお池に全部入れることは出来ないよ。」そう話していると、男の子の姿がキリストに変わり、「あなたがしていることも同じことなのだよ」と言われたというのです。
彼は長い歳月をかけて、ついに『三位一体論』を書き上げるのですが、「私はこの書を議論によらず、祈りをもって閉じたい」と、最後の章全体を祈りで閉じています。「わが主なる神よ、私が一つなる希望よ、私に耳を傾けてください。私が疲れ果てて、あなたを問い求めるのに倦むことなく、常に熱心に、あなたの聖顔を問い求めることが出来ますように。おお、あなたよ、私にあなたを問い求める力をお与えください。あなたは私があなたを見いだすことができるように創造されました。私があなたをいよいよ深く豊かに見いだすようにと言う希望をお与えくださいました。あなたの御前にこそ、わが力、そしてわが弱さがあるのです。・・・ある賢者が『集会書』という名で呼ばれている自分の書物であなたについて語りましたとき、『私は多くのことを語るが彼のところに到達しない。私たちの言説の全体的な完成は彼御自身である」と言っています。それゆえ、私たちがあなたの御許に到達しますとき、『私たちが語り、しかも到達しない」ような『多くのこと』は止むでしょう。あなたは一つに留まり、すべてのうちにすべてとなられるでしょう。私たちは終わることなく、一つにいますあなたを讃えつつ、一つのことを語るでありましょう。そしてあなたにおいて私たちは一つとされるでしょう。主なる一つなる神よ、三位一体なる神よ、この書において私が語りましたすべてのものはあなたに由来することをあなたに属する人々が確認しますように。」

次は2月最後の礼拝、もうすぐ3月です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

小さな始まり

今週も祈祷会を大切に。祈祷会で開かれた御言葉をシェアします。
ゼカリヤ書4章から。

4:10 誰が初めのささやかな日をさげすむのか。
リビングバイブル「小さな始まりを軽んじてはならない。」

今日は四旬節と言うことで『十字架の黙想』を味わった後、ゼカリヤ書の短い御言葉から、宣教と祈りについてのお勧めをいただきました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

無事之名馬



平昌で開催中の冬季オリンピック、日本人選手の活躍に沸いている。
昨日の中日春秋にはフィギュアスケートの羽生結弦選手の話題で興味深かった。

<無事之(これ)名馬>。作家で競馬を愛した菊池寛が世に広めたと聞く。けがをしない丈夫な馬こそが名馬。馬主でもあった菊池としては自分の馬が心配でとにかく無事でいてほしいという願いもあったようである。<無事之名馬>には当てはまらぬ、おそるべき「名馬」、「名選手」を見る思いである。羽生結弦選手。平昌五輪の男子フィギュアスケートで金メダルに輝いた。五輪二連覇は六十六年ぶりの快挙という。お見事というほかない。優美な演技やこれまでに手にした数々の栄光とは対照的に「無事」とはいえぬ、「有事」がまとわりつく選手である。けがやアクシデント。2014年には、他の選手と激突している。けがをした姿を覚えている人もいるだろう。病気もあった。幼いころは、ぜんそくに悩まされていたとも聞く。五輪が近づいていた昨年11月には練習中に転倒し、右足を損傷した。あの場面に悲鳴を上げ、五輪出場を危ぶんだ人もいたはずだ。練習を再開したのは1月。氷上から2ヶ月間離れざるを得なかった。身の不運を嘆き、ふさぎ込んでも、不思議ではない状況であろう。その「有事」に打ち勝って、もぎとった金メダルは「金」以上に輝き光るだろう。「有事」の名選手は演技後、けがをした自分の右足に「感謝」と語っていた。こちらとしては、その右足を支えた不屈の心にも驚嘆し、感謝する。

無事であることに越したことはありませんが、たとえ有事でも「これ名馬」、私たちもそんなクリスチャンになりたいものです。パウロ曰く、「賞を得るように走りなさい。」(汽灰螢鵐9の24)「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ12の1−2)

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

神は私のうちに、私は神のうちに

礼拝メッセージ 「神は私のうちに、私は神のうちに」
聖書 ヨハネによる福音書14の21−24
ヨハネによる福音書シリーズ(112)

14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ふさわしい助け手



「別の弁護者」をギリシア語では「アロス・パラクレートス」と言います。「アロス」という言葉について、別は別でも同質のものというと意味があると説明をしましたが、「パラクレートス」という言葉について少し解説しておきたいと思います。この言葉は二つの言葉から出来ています。「パラ」は傍らに、側に、近くに(内側に)という意味です。「クレートス(カレオー)」とは呼ぶという意味から、もう少し積極的に訳せば呼び覚ますと言っても良いかも知れません。
ところで、みなさんは創世記でどのようにアダムとエバが造られたかを覚えているでしょうか。創世記の1章、2章にそのことが書かれています。1章の26節、「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」神は唯一なのに、「我々」とはどういうことでしょう。これは三位一体なる神の「内なる語らい」です。三位一体の神が、相談して、熟慮して、神にかたどって人を創造されたというのは驚きです。そして2章にはこう書かれています。まず18節、「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者(彼にふさわしい助け手)を造ろう。』」さらに21節、「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばらの骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」エバの誕生です。
聖書注解者マシュー・ヘンリーは次のように解説しています。「神様は、女を男の頭から造らず、男の足からも造らず、男のサイド(横)であるあばら骨から女を創造されました。よって女性は男性の上に立つわけでも、下に立つわけでもなく、男性の横に立つもの、平等な存在として造られた」と。
天地創造の業、一つ一つを「神はこれを見て、良しとされた」と書かれていますが、一つだけ「良くない」と言われたことがありました。それは人が独りでいることです。そこで彼にふさわしい助け手が与えられました。これは結婚の制度の起源ではありますが、この言葉を下敷きにして、ヨハネ福音書14章のイエスの言葉を理解するなら、助け主である聖霊の派遣の原型と言えるかも知れません。興味深いのは、ここで使われている「あばら骨」という言葉です。ヘブライ語では「ツェラア」と言いますが、その意味は「横、傍ら、側」ということで、ギリシア語の「パラ」と同じような意味になります。聖霊なる神は、あなたの側に呼ばれた、あなたにふさわしい助け手、あばら骨のように、あなたの鼓動を感じ、あなたの心が感じられるほどの近さで、あなたを助けてくださるお方なのです。「聖霊、来てください」と祈りましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

うめきの祈り

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。ローマの信徒への手紙8章から。

8:26 同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

今週も『あかしびと』の中からお勧めさせていただきました。
「祈る霊父の姿」は感動の証しです。祈りの足りない私たちですが、もっとリアルに、御霊の助けをいただき、祈りの器に変えていただきたいと思います。そう言えば、あの1984年の2月13日も、祈る霊父の姿がありました。あのうめきの祈りによって、私も新たにしていただきました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

始末に困る者



明治150年と呼ばれる今年、NHKの大河ドラマは明治維新の立役者である西郷隆盛が主役の「西郷どん」です。ところで、大槻牧師が書かれた『言泉集』の中にも西郷さんの言葉が紹介されているのをご存知ですか。『西郷南州翁遺訓』という西郷さんの教えをまとめた本に出て来る言葉です。
「地位も名誉も財産もいらぬという者は、始末に困る者である。しかし、この始末に困る者でなくては、大事を共にすることはできない。」この言葉が『言泉集』の12巻と15巻に出てきますので、どんなメッセージの中で引用されているのか興味のある方は、ぜひ『言泉集』を読んでください。
ところで、「維新」とは、中国最古の詩、詩経の一節で、日本では水戸藩士、藤田東湖が藩の改革を断行するにあたり、この言葉を引用したと言われています。「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」。「維新」と書いて、「これ新たなり」です。
イエス・キリストは宣教の初めに「神の国は近づいた」と語りましたが、今こそ、神の国の実現という神の大事のために、神は地位も名誉も財産もいらぬと言う始末に困る者を必要とされています。無私の愛(アハバット・ヒナム)を持って、本気で世界を変えようという愛の狂人が求められているのです。私たちは今、聖霊による愛の維新を必要としています。愛によって、これ新たなり。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

愛の維新

礼拝メッセージ 「愛の維新(これ新たなり)」
聖書 ヨハネによる福音書14章15-21節
ヨハネによる福音書シリーズ(111)

14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

ゼファニア書
3:17 お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

別は別でも



16節の短い1節の中にも三位一体を見ることができます。イエスは言われました。「わたしは父にお願いしよう。」ここで使われている「願う」という言葉は、祈るという言葉ですが、普通、祈ると言うとき、それは下位の者が上位の者に対して願う行為なので、ギリシア語では「アイテオウ」という動詞が使われます。しかし、ここでは「エロウタオウ」という動詞が使われます。これは同じ位にいる者が願うという意味です。日本語の聖書ではわかりませんが、父なる神と子なる神、イエス・キリストは同じ位にいるということが、イエスの言葉遣いから明らかにされています。
すると父なる神はイエスの願いに答えてくださいます。イエスの掟を守ることができるようになるために、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」のです。「別の弁護者」、つまり聖霊なる神のことです。ギリシア語では「アロス・パラクレートス」と言います。この言葉はバラエティに富んだ言葉で、詳訳聖書では7つの訳で紹介されています。「父は・・・もうひとりの慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉を与えられる」と。イエスの掟を守り、それを実行するために、このような助け手が私たちのもとに、私たちの内側に遣わされるという約束が与えられているとは、なんと有り難いことでしょうか。もう少しだけ言葉の説明をします。アロス・パラクレートスの「アロス」とは「別の」「もうひとりの」という意味ですが、別は別でも同質のもの、つまりイエスと寸分違わないお方という意味を持っています。子なる神と聖霊なる神は全く同じ。なぜなら、このお方はイエスと同じように、私たちを助け、慰め、励ましてくださるからです。いかがでしょうか。ここには「三位一体」とは書かれていませんが、明らかに三位一体の神が描かれているではありませんか。そこでもう一度お尋ねします。「神は唯一ですか?」アーメン。ここがスタートです。「父なる神は神ですか?」アーメン。「イエス・キリストは神ですか?」アーメン。「聖霊は神ですか?」アーメン。

今日から平昌で冬季オリンピックです。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2018 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me