内におられるキリスト、栄光の希望

ペンテコステ礼拝
メッセージ 「内におられるキリスト、栄光の希望」ヨハネ会チーム
聖書 コロサイの信徒への手紙1章26-29節

1:26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
1:28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
1:29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

今日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)、初代教会誕生の日。4月の終わりに持たれ全国青年大会に参加した青年たちによってメッセージが語られ、祝福された礼拝になりました。今週はペンテコステの恵みを感謝します。

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御名御璽



「わたしの名によって父に願うものは何でもあたえられるように」。
イエスの名によって祈る祈りは、イエスの祈りとなります。王の名と王の印について、エステル記には興味深い言葉があります。クセルクセス王は、自分の指輪(王の印)をモルデカイに与えて、エステルとモルデカイに言いました。「お前たちはよいと思うことをユダヤ人のために王の名によって書き記し、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文章は、取り消すことができない。」同じように、私たちがイエスの名を呼んで、「イエス・キリストの御名によってお祈りします」と印を押す時、それは私の祈りではなく、イエスの祈りとなるのです。
ところが、私たちはそれを知らないで勝手なことを願い、何も叶えられないと嘆くことが多いのです。「願うものは何でも与えられる」と言っているのに、なぜ?。・・・次第に神に失望し、祈りが遠ざかってしまうこともあるかも知れません。イエスは、弟子たちから「わたしたちにも祈りを教えてください」と乞われ、大切な「主の祈り」を教えられた後、真夜中に「友よ、パンを貸してください」としつように願う人の話しをされ、次のように言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。ですから、私たちもイエスの名によって、祈り求め続けましょう。次の日曜日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)、先ほどのイエスの言葉の最後は、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」ということでした。期待し、求め続け、天の門をたたき続けましょう。
学生の頃に聞いたエステル記のメッセージで「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」という言葉を教えていただいたことがありました。御名とは王の名、御璽とは王の印という意味です。王の名を持って書き、王の指輪をもって印された書はだれも取り消すことができないと言うことです。それが王妃エステル、キリストの花嫁に与えられました。これを人々の幸せのために、エルサレムの平和のために使わせていただきましょう。

次の日曜日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)の礼拝です。

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内におられるキリスト、栄光の希望

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コロサイの信徒への手紙1章から。

1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

先週に続き、青年大会の報告集会となるペンテコステの礼拝に備え、リバイバルメッセージの後半をみんなで音読し味わいました。あなた語る人、わたし聞く人、と言うのではなく、みんな語る人。ペンテコステは、そんな激しく天の門をたたく、一体感のある集会になります。

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この時のためにこそ



「お父さん、・・・お父さんが牧師になってあの教会に行ったのは、この時のためだったと私は思うよ。」
東日本大震災の直後、ある牧師は娘さんからこんなメールを受け取り腹をくくったと証ししていました。
「これが私の人生だ。これが私の舞台。やるだけやろう」と。

みなさんは旧約聖書に登場するエステルの物語をご存知でしょうか。聖書は66巻からなりますが、女性の名前が付けられている書が2つあります。ルツ記とエステル記です。どちらも短い書物ですが、神の選びとその目的について深い内容を含んでいます。
エステルの物語。時は紀元前480年頃(キュロス王の勅令によりバビロンからエルサレムに帰還した人々によって第二神殿が建てられていく時代)。舞台はエルサレムから1500キロも離れたペルシア帝国の首都スサ。時の王クセルクセスは、帝国の栄華を誇示するため、インドからアフリカに至るまで、127州すべての支配者を集め、180日に及ぶ宴会を開きました。その席で、酔った王は王妃ワシュティの美しさを見せるために彼女を呼び出しました。歴史家たちは、王妃は王冠以外の何も身に着けずに出てくるように命じられたと言っています。それを断った王妃は位を剥奪され、王宮から追放されてしまいました。
それから2年、新しい王妃を選ぶためにミス・ペルシア・コンテストが開かれ、若きエステルが王妃として選ばれます。幼い時に両親を失った孤児であるエステルは、いとこのモルデカイに引き取られて育てられました。そんな彼女にとって、これはシンデレラストーリーです。
クセルクセス王の次に帝国で権威を持っていたのが、首相のハマンです。彼は権威と力を愛し、ペルシア帝国のすべての住民が自分の前にひざまずくことを求めました。しかし、皆がひざまずく中で、あのモルデカイだけが彼を拝みませんでした。理由を問われたモルデカイは、自分は神を信じるユダヤ人であって、神以外の何ものをも拝まないと答えます。そこで怒り狂ったハマンは、王をだまし、ペルシア帝国中のユダヤ人を根絶する法律を作り執行します。歴史家によれば、当時、ペルシア帝国全土にユダヤ人が1500万人いたと言います。ヒトラーによるホロコーストが600万人ですから、倍以上のユダヤ人の命が死の危険にさらされたことになります。
モルデカイは、ユダヤ人撲滅の命令が出された時に、すでに王妃であったエステルにそれを知らせ、王に頼んでその法律を取り消してもらうようにと進言しました。しかし、王妃とは言え、王に呼ばれていないのに、王の庭に入ることは許されていませんでした。もし、許しなくそこに入るなら、王妃であっても死を免れません。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合のみ、その者は死を免れます。
若きエステルは、スサにいるすべてのユダヤ人に三日間の断食を願い、三日後、決死の覚悟で王の庭に立ちます。エステルは神の御心に従わずに生き延びることよりも、神の御心に従って死ぬことを選んだのです。王は王の庭に、ロイヤルドレスを身に着け、背筋をピンと伸ばし、使命に燃えて立つエステルを見て驚きます。王は手にしていた金の笏をエステルに向かって伸ばし、彼女はそれに触れました。
聡明なエステルは王とハマンを呼んで二晩に渡って宴を催します。二日目、エステルは、「私の命と私の民族の命をお助けください」と王に訴え、自分がユダヤ人であること、ユダヤ人絶滅の命令を出したのがハマンであることを王に告げました。こうして、ユダヤ人絶滅計画がギリギリのところで食い止められたのです。このユダヤ人救済を記念して祝われるのがエステル記を起源とするプリムの祭りです。

ところで、エステル記には、エステルの名前が56回も、そしてモルデカイの名前が、それ上回る61回も出て来ますが、一度も出て来ない名前があります。それは神です。エステル記には、「神」という文字が一度も出て来ません。これはエステル記を聖書の正典として認めるか否かという時にも問題になりましたが、たとえ神という文字が無くても、エステル記ほど、歴史を動かし、支配しておられる神の指が現されている書は他にないという結論に達しました。
もし神がおられるのなら、どうしてこのような事が起こるのか、答えが見えなくて苦しんでいる人がいるなら、エステル記は、私たちの人生のハッピーエンドを知っている目に見えない神がいることを私たちに伝えます。
あの絶体絶命の危機の中、モルデカイはエステルに伝えました。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と。
それに対するエステルの答えです。「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。(これは単なる願掛けではなく、決死の祈りです。)わたしも女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、わたしは王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

選びの目的の第一は、枝として実を豊かに結び、その実がいつまでも残ることです。私たちが結ぶべき実には、いくつもの意味がありますが、渡辺和子先生の言葉によれば、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めることでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすること」です。エステルは、自分の幸せだけではなく、人々の幸せのために、「この時のためにこそ」という神の選びと神の時に身を委ねたのです。私たちも誰かの幸せのために、神の選びと神の時に身を委ねようではありませんか。

今日は長くなりましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今週も大切なことを大切に。

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続・選ばれてここに立つ

母の日の礼拝
礼拝メッセージ 「続・選ばれてここに立つ」
聖書 ヨハネによる福音書15章16-17節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(123)

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

エステル記
4:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
4:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

8:8 お前たちはよいと思うことをユダヤ人のために王の名によって書き記し、王の指輪で印を押すがよい。王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない。

今日は母の日、世界中の母と呼ばれる存在に「ありがとう」を伝えましょう。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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これが私の舞台だ。



神の選びは不思議です。パウロは言います。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と。
私たちは、この神の永遠の愛による選びがよくわかっていません。キリストが語られた「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、詳訳聖書では「私があなたたちを選んだ<植えた>のである」と訳していました。Bloom where God has planted you.(神が植えられたところで咲きなさい)です。カトリックのシスター渡辺和子先生は、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めるのでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と言っています。神の選びに感謝し、置かれた場所、植えられた場所で、豊かな実を結ばせていただければ感謝です。
東日本大震災から7年が過ぎましたが、以前福島のいわき市にある教会に行かせていただいた時に、すぐそばにある一つの教会を紹介されました。福島第一原発の最も近くに建っていた教会で、避難して来られ、新しい会堂を建てられたということでした。その教会の佐藤彰先生は、たくさんの本を書いておられるので、私も知っていました。『選ばれてここに立つ』という本は、震災から一年後に語られた先生のメッセージをまとめたものです。

いつ頃からか、教会の人に、「私たちは選ばれたんだ」と言うようになりました。なんで福島第一聖書バプテスト教会という名前なのか。なぜ後からやって来た原発が地名で呼ばれずに「福井島第一原子力発電所」なのか。(開拓者の)ホレチェック宣教師はどこに教会を作ってもいいとは考えなかったはずです。・・・この土地を「選んだ」のです。まさかその後震災に遭うとは思っていなかったとしても。それは「選ばれた」ということなのです。
韓国の牧師が電話をしてきて言いました。「なぜおにぎり一個のために何時間も日本人は並ぶことができるの?なぜ喧嘩にならないの、暴動にならないの?ありえないよ。これほどの震災に耐えうる文化を育んだのが日本人なんだね。神は日本人を選ばれたんだね。・・・」それを聞いて私も、あらためてうちの教会は選ばれたんだなと思いました。
・・・教会に赴任して30年。心血を注いで建て上げてきた教会が一夜にして失われたのです。人生は悲しいものだなと思いました。・・・教会は一巻の終わり。終結宣言をするのだと思い、本当にボロボロの敗残兵のように打ちのめされていたのです。が、うちの娘が、あの緊張の最中メールを寄こして来たんです。「お父さん、私毎日泣いています。ほんとうは飛んでいきたいけどお腹に赤ちゃんがいるから、私の分まであの人とこの人を励まして来て。お父さんが牧師になってあの教会に行ったのは、この時のためだったと私は思うよ。
・・・涙がボロボロと流れました。「親を泣かせやがって」「親に説教しやがって」・・・だけど本当だ。私の誕生日は3月11日です。「よし、二度と言うまい。口が裂けても言うまい、なんでこんな目に遭うんだとは。これが私の人生だ。これが私の舞台だ。やるだけやろう」と決めたのです。

神の選びによって、私たちはそれぞれの場所に植えられました。キング牧師が語ったように、そこで与えられた仕事を、「ミケランジェロが名画を描いたときのように、ベートーベンが名曲を作曲したときのように、シェークスピアがすばらしい詩を書いたときのように」、誇りを持って、忠実に果たそうではありませんか。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」


今日は西宮にあるアンネのバラの教会を訪問し、教会のウェブサイト制作の打ち合わせと写真撮影をさせていただきました。訪問中、満開のバラを見に来られる方が後を絶ちませんでした。

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内におられるキリスト、栄光の希望

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コロサイの信徒への手紙1章から。

1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

今日はキリストの昇天日、ペンテコステに向かって祈りを積みました。
青年大会の報告集会となるペンテコステの礼拝に備え、リバイバルメッセージの前半を音読し味わいました。
もう一度、私たちの内側で火花を散らすような神との出会いが与えられますように。

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キング牧師の言葉



「I have a dream(私には夢がある)」と、人種差別のない社会を訴えたキング牧師が暗殺されて、先月の4日で50年が経ち、全米で追悼行事が行われた様子が新聞やニュースでも紹介されていました。キング牧師の夢は実現したでしょうか。現実は、今の大統領の分断を煽るような言動により、夢の実現は遠のいているように見えます。私たちは、私たちの小さな一歩から、彼の夢を実現させたいと願います。私の好きなキング牧師の言葉があります。キング牧師が暗殺される半年ほど前に、フィラデルフィアで中学生に話したという言葉です。

「もしあなたが道路を掃除する仕事に召されたのなら、
ミケランジェロが名画を描いたときのように、
ベートーベンが名曲を作曲したときのように、
シェークスピアがすばらしい詩を書いたときのように、
道路掃除をしなさい。
その仕事があまりにもすばらしいので、
天と地に住むすべての者たちが立ち止まってこう叫ぶようにしなさい。
『ここに自分の仕事を忠実に成し遂げるすばらしい道路掃除夫がいる。』」

今日一日、私たちも自分に与えられた仕事を、誇りを持って、忠実に果たせますように。
今週も大切なことを大切に。

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選ばれてここに立つ

5月のオープン礼拝
メッセージ 「選ばれてここに立つ」
聖書 ヨハネによる福音書15章11-17節
ヨハネによる福音書シリーズ(122)

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

詳訳聖書
15:16 あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ<任命した、植えた>のである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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小さな一歩から



私たちはキリストのように生きるということを願っていますが、それはどういうことなのでしょう。イエスの言葉によれば、「わたしがあなたがたを愛したように」生きるということです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちもキリストの愛によって互いに愛し合うこと、これがキリストのように生きるということです。
『聖母の騎士』というカトリックの雑誌に、一人の弁護士の方が「現代の菩薩」という寄稿をしている記事を読みました。その方は熱心な仏教徒ですが、「現代の菩薩」の例として三人のクリスチャンを紹介し、「以上に述べた現代の菩薩たちは、すべてクリスチャンであって、仏教徒ではなかったことを私は恥ずかしいと思っている」とその文章を結んでおられました。
三浦綾子さんも同じ三人のことを『小さな一歩から』というエッセイ集の中で取り上げて、次のようなことを記しています。
アウシュビッツ収容所で、一人の囚人の代わりに、自らの命を捧げて死んだコルベ神父の名を知らぬ者は、まずないであろう。洞爺丸台風と呼ばれる台風が、1954年北海道を襲った時、二人の宣教師が、見も知らぬ日本の若い男女のために救命袋を譲って、嵐の海に命を果てた。これは私の小説「氷点」の中にも書かれている実話である。また、1912年、北海道塩狩峠において、長野政雄は突如暴走した客車の乗客を救うために、線路に身を投じて貴い命を散らした。これも、私の小説「塩狩峠」に詳しく書かれている。
この三つの事件は、すべてキリスト者の犠牲の死を伝えるものである。これらの話を聞いて、感動しない者はいない。しかし、深く心を打たれながらも、「とてもわたしには真似ができない。自分たちとは別な世界に住む人だからできたことだ」という言葉をしばしば聞く。
ある時、この言葉について私は姉と話し合ったことがあった。姉は言った。「わたしも真似はできない」と。むろん、私も同じことを思った。が、その時、姉はまた言った。「わたしたちは、なかなか命は捧げられないけれど、小さなものなら、捧げられるのではないかしら」。なるほどと私は思った。小さな犠牲なら、私たちも捧げられるかも知れない。例えば、自分の庭に咲く一番美しいバラを、病んでいる人のために切って捧げることはできないか。そう思った時、捧げようと思えば、もっともっと捧げ得ることに私は気づいた。つまり、どんなに忙しくても、一日に十分の時間を誰かのために割くことはできないかと思ったのだ。電話でもいい、葉書でもいい、その人のために祈るだけでもいい。要は小さな一歩から始め得るのではなかろうか、と。
キリストのように生きるため、そんな小さな一歩から私たちも始めよう。

次の日曜日は、5月のオープン礼拝です。アンネのバラも咲いています。ぜひお出かけください。

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