結び目を解くキリスト

礼拝メッセージ 「結び目を解くキリスト」
聖書 ヨハネによる福音書12の44〜50
ヨハネによる福音書シリーズ(96)

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

今日はホロコースト記念館の研修旅行に参加されたMさんの報告を聞かせていただきました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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ハクソー・リッジ



今年度、アカデミー賞2部門を受賞したメル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」という映画が、日本でも公開されています。第2次世界大戦末期、激戦となった沖縄のハクソー・リッジの戦いで、戦場の常識を覆した一人のクリスチャンがいたという実話です。主人公はデズモンド・ドスは、志願して軍隊に身を投じますが、少年時代にある出来事を通して心に刻まれた「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉を、強い信念を持って貫き、武器を取らず、負傷兵を助ける衛生兵として戦地に赴きます。
ハクソー・リッジ(のこぎりの崖)とは、日本の司令部があった首里から北に3キロ、150メートルにも及ぶ断崖絶壁の「前田高地」と呼ばれる場所に米軍が付けた名前です。1945年5月、ハクソー・リッジで激しい攻防がくり広げられました。日本軍の決死の総攻撃を受け、多くの死傷者を出した米軍は退却を余儀なくされますが、デズモンド・ドスは、銃弾が飛びかう中、そこに倒れている負傷兵を助けるため戦地を走り続けます。
彼は断崖絶壁から、一人ずつ抱きかかえるようにして負傷兵を下に降ろし、一人が終わるとまた一人を、敵味方の区別なく、なんと一晩のうちに、75人の命を救ったというのです。彼は、何度も口ずさむように言います。「Please Lord, help me get one more. Help me get one more(どうぞ主よ、私にもう一人助けさせてください。あと一人救わせてください)」と。
最後は、自分も手榴弾を受けて重傷を負い、スナイパーに腕を撃ち抜かれながら、ついに75人の命を救ったデズモンド・ドス。彼は自分が英雄にされることを望まず、2006年に87歳で亡くなるまで、物語が作品化されることを拒否しますが、10年を経て、彼の物語が公にされました。
神は、私たちがこの地上での戦いに疲れ果て、傷つき倒れ、置き去りにされているのをご覧になって、どうしてもあの一人を救い助けたいと、この世界に飛び込んで来られ、私たちのところまで走って来られました。
イエスは叫んで、こう言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たのである。」

梅雨も明け、こどもたちは夏休みに。
夏休みも大切なことを大切に。

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少女よ、起きなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マルコによる福音書5章から。

5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

恵那の集会の報告のあと、今週も夏のメッセージに取り組みました。

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叫び



ヨハネ福音書は、13章から舞台を最後の晩餐の席に移しますが、その前に、これまでに記してきたことを12章の最後にまとめます。まず、ヨハネは自分の言葉で、これまでを振り返り、結局、ユダヤ人はイエスの行われたしるし見ても信じることができなかったということを、イザヤの預言を引用しながら述べた後、次に44節から、イエスの言葉として、これまでを振り返っています。
「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、どこで、誰に向かって語られているかは記されていません。ですから『叫んだ』というのは、イエスが主張してきた事柄、福音の内容について、くり返し語り続けて来たこと、今もその声が響いているという意味です。ここに記されていることは、今までどこかで語られて来たことでした。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。」さらに、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」これまでくり返し主張して来られた、この後もくり返し語られる父と子の一体性ということです。
そして、46節、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」闇と光というテーマも、ヨハネが好んで用いてきたイエスのメッセージです。その叫びが聞こえてきます。「言(キリスト)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」
イエスの叫びは続きます。47節以下、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者(不信仰に留まる者)に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」この後、その理由が語られていますが、救いと裁き、命と死の境界線は、イエスが語られる神の言葉を聞いて信じるか、信じないかだということです。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と。

今週も大切なことを大切に。

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世を救うために来た

礼拝メッセージ 「救うために来た」
聖書 ヨハネによる福音書12の44〜50
ヨハネによる福音書シリーズ(95)

12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな




イザヤは旧約最大の預言者、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰です。旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言しています。ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見た」と言っている、イザヤ書6章でイザヤは何を見たのでしょうか。その日、イザヤは高く天にある御座に座しておられる主の栄光を見ました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤが死にました。彼が統治した半世紀、国は非常に栄えていただけに、彼の死は国家を不安に陥れました。その年のことです。イザヤが引き寄せられるように神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされていました。そして彼は天使の賛美を聞いたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」と。ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、様々な神の性質が述べられていますが、3度くり返して使われるのは「聖」だけです。神は愛、愛、愛とはどこにも書かれていません。神は義、義、義とも、神は恵み、恵み、恵みとも書かれていません。しかし、旧新約聖書に1度ずつ(新約は黙示録の4章に)、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と連呼する礼拝の光景が描かれています。
その栄光の目の当たりにしたイザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中住む者」と。「災いだ」、英語では、Woe is me(私は災いだ)です。前のページを見ると、5章には「災いだ」と5回もくり返されていますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。「災いの原因はあなただ」と言っていたイザヤが、神の清さに触れられた時、思わずその口から漏らしたのが、「私こそ災いであった」という言葉だったのです。
イエスと共に漁に出、二層の舟が魚でいっぱいになるのを見せられたシモンは言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。偉大な使徒パウロも、晩年、神の栄光を知れば知るほど、こう言わざるを得ませんでした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです」と。
これは単なるネガティヴ広告ではありません。自分をおとしめるだけで終わらないのです。神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清めてくださったのです。祭壇とは、いけにえがささげられる場所、すなわちキリストの十字架を表す場所です。「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたのあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。まさに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、・・・イエスについて語ったのである」ということです。そして、そのとき、彼は主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と懇願される主の御声を。
この夏、これまで越えられなかった信仰の一線を乗り越えて、私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

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少女よ、起きなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マルコによる福音書の5章から。

5:35 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

今年の夏は、この御言葉に取り組むことになります。
信仰の一線を乗り越えて行くのに、ふさわしいメッセージです。

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信仰の一線



中学生のプロ棋士、藤井聡太四段が時の人になっていますが、
将棋好きという先生からこんな話しを聞きました。
あの中田重治先生の言葉だそうです。

「歩も死線を越えれば金になる。」

「歩」は前に一つずつしか進めない駒ですが、敵陣に入ると「金」なります。
「歩」の成金(と金)というのは、普通の「金」よりも価値があって、
勝敗を左右することさえあるというわけです。
私たちが、たとえ「歩」のように地味な存在であっても、
あるラインを越えると「金」になれるとすれば、それは大きな励ましです。
この夏、今まで越えられなかった信仰の一線を越え、自分を越えるなら、
敵陣ではなく、神の御心の中に入って行き、
私たちも神に用いられる存在としていただけるのです。

今週も大切なことを大切に。
今日は岐阜で祈り会です。

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イザヤは、イエスを見た

礼拝メッセージ 「イザヤは、イエスを見た」
聖書 ヨハネによる福音書12の36−43、イザヤ書6の1−8
ヨハネによる福音書シリーズ(94)

12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
12:40 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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福音には、神の義が



1517年10月31日、ビッテンベルグの城門に95カ条の提題という、神学的な問いかけがルターによってなされました。彼は、まさかその日が宗教改革記念日になるとは考えてもいなかったでしょう。宗教改革のきっかけになった御言葉がありました。詩編31編1節の言葉です。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(口語訳)。これが、宗教改革の歴史の中で、ルターの「一点突破」と呼ばれる御言葉です。(新共同訳では「恵みの御業によってわたしを助けてください」と訳されていますが、それにも意味があります。)神の義とは、神の正義、清さであって、私たち罪人と神を隔てるものであり、その義のゆえに、私たちは裁かれ、罰せられるのですから、罪ある者にとって神の義は恐ろしいものだったのです。
ルターは、神の義が私たちを裁くのではなく、「助ける」と書かれていることに違和感を感じますが、ついにルターの研究の中心となる、ローマの信徒への手紙1章17節に目が開かれ、福音の理解は一点突破から全面展開していきます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」彼はこの途轍もない発見を、「修道院の塔の小部屋において得た」と言ったことから、これを「塔の体験」と呼びます。
そうです。イエス・キリストが、一粒の麦となり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという、この福音の中に神の義は現されました。聖書は言います。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである。」
私たちは罪人でしたが、神の目から見て正しい者、義人にしていただきました。ルターの言葉です。「キリストは十字架の上で、自分ではないもの(罪人)になられた。それは、私たちが自分ではないもの(義人)となるためであった。」
イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と。ヨハネはイエスの言葉に説明を加えます。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」ギリシア人の来訪から始まった一連の記事でしたが、ここに彼らへの答えがありました。「すべての人を」、詳訳聖書では「ユダヤ人はもちろん、異邦人も、私のところに引き寄せよう」と訳されています。イエスが十字架に上げられるとき、すべての人が十字架のもとに引き寄せられ、神の愛を体験するようになるのです。この福音にこそ、神の義は示されたのです。

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