園丁だと思って



イースターの朝、空の墓の前で泣いていたマグダラのマリアの前によみがえられたイエスが現れ、話しかけます。
それがイエスだとは分からず、園丁だと思って、話し込むマリアの姿をヨハネは伝えています。
この場面を多くの画家が描いていますが、よく見るとイエスがスコップやくわなど、農具を手に持っている絵が多いのに最近気がつきます。レンブラントの作品は麦わら帽子までかぶっていて、まさに園丁です。
ある説教家が、復活の主は私たちの人生に美しい実をみのらせる園丁のように臨み、私たちがエデンの園で失ったものを、復活の朝、園の墓で取り戻してくださったと語っています。私たちの人生という園に、このお方をお迎えしましょう。

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わたしに従いなさい

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。ヨハネによる福音書15章と21章から。

21:15 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
21:17 「わたしの羊を飼いなさい。」
21:19 「わたしに従いなさい。」

今日は春の音楽礼拝の恵みをわかちあった後、あかしびとの記事を2つほどシェアし、最後に、開校70周年記念のロゴス神学院セミナーで取り組まれるメッセージ、「わたしに従いなさい」から学びました。

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罪状書きの裏側



昨日の春の音楽礼拝には100名を越える方が集われました。
新聞折り込みチラシやインターネットを御覧になって、足を運んでくださった方も多くありました。
三宅さんご夫妻は、数年前から全国の小さな教会を巡り、コンサートを開いてくださっています。
土曜日に志摩の教会でコンサートをしていただいた続きに、名古屋にも来ていただきました。
ご主人のチェンバロ制作秘話の後、奥様の演奏が始まりました。
前半は「フランス風序曲」から、後半は「マタイ受難曲」からの演奏でしたが、
「マタイ受難曲」の後、短く十字架のメッセージを語らせていただきました。

ある絵描きが、イエスが十字架で息を引き取られた瞬間の絵を書きました。
キャンバスの中心には、十字架に掲げられた罪状書きが置かれています。
絵描きは、展覧会に訪れた人に話しかけました。
「この絵にはある秘密が隠されています。おわかりになりますか?」
すると誰もが立ち止まり、その絵をしばらくじっと眺めてくれたそうです。
そして言いました。「わかりませんね。何が隠されているのですか。」
「では、教えましょう。
この罪状書きの裏側にもう一枚の罪状書きが隠されているのです。
それは私とあなたの罪状書きなのです。
でも、この方の名が私とあなたの罪状書きの上に打ちつけられたのです。
だから、もう私とあなたの罪とは赦されました。」
これこそ十字架の隠された秘密です。ご存知でしたか?
三浦綾子さんはこう言っています。
「それにつけても、私は十字架がありがたい。
イエスさまが十字架におかかりになったありがたさが身にしみる。
天下晴れて、神さまの前に祈ることのできる幸いがうれしくてならい」と。

礼拝が終わると、何人かの方が「マタイ受難曲と十字架のメッセージがつながって、その意味がよくわかった」と声をかけてくださいました。礼拝堂に響くチェンバロの音色を通して、十字架の真実に気がついた人たちです。

今週も大切なことを大切に。

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十字架がありがたい

春の音楽礼拝(クラッシック・コンサート)
チェンバロ制作秘話
ショートメッセージ「十字架がありがたい」
聖書 マタイによる福音書27の37

27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

春の陽気に包まれ、昨日は志摩の教会で、今日は名古屋教会で幸いな音楽礼拝が持たれ、大入りでした。
名古屋でのプログラムは、バッハの「マタイ受難曲」を演奏していただきました。
簡単な解説と映像をプロジェクターで映しながら、演奏していただきましたが、心にしみました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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重い扉の奥に



チャールズ・コルソンは、ウォーターゲート事件で収監され、後に「獄中の使徒」と呼ばれた人物ですが、彼が2人のクリスチャンに監督権が委任された、ブラジルのサンパウロにある刑務所を訪問したときのことを次のように記しています。
そこはヒューメータと呼ばれ、彼らの計画はその刑務所をキリスト教の原理に基づいて運営していくことでした。ヒューメータを訪問したとき、服役者たちは微笑んで私を迎えてくれました。特に鍵の束を下げて門を開けてくれた元殺人犯が最も印象に残っています。
行く場所ごとに私は平安に包まれている人々に出会い、住居環境は清潔で、壁には詩編と箴言の御言葉が飾られていました。ヒューメータ刑務所は驚くほどの記録を持っています。ブラジルやアメリカの再犯率が75パーセントであるのに対して、ヒューメータの再犯率はわずか4パーセントに過ぎなかったということです。このようなことが可能なのでしょうか。
過去には拷問室として使っていた牢獄を見たとき、私はその答えを見つけました。案内人は、今、そこには一人の囚人が収容されていると言いました。長いコンクリートの廊下の終わりにある部屋に着いて、彼は私に訊きました。「本当に入ってみたいですか。」「もちろんです。私は世界のあちこちの牢獄を見て回って来た者です」と答えました。
彼はずしりと重い牢の扉をゆっくりと開け、私はその牢獄に閉じこめられている囚人を見ました。その囚人とは、ヒューメータの服役者たちが美くし彫刻した十字架のキリストだったのです。
今日もその重い扉の奥に、絶望のとなりに、この方がおられます。「私の名前は希望です。」

明日は午後1時30分から志摩市にあるテベリヤ教会で、明後日は午前11時から名古屋教会で、チェンバロ奏者の三宅眞理子さんをお迎えしての春の音楽礼拝(クラッシック・コンサート)が持たれます。ぜひお出かけください。

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キリストに一致する切り札

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書6章から。

6:48 わたしは命のパンである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。

先週の祈祷会から、春の音楽礼拝で演奏していただく「マタイ受難曲」の予習をしています。
今日は49曲と68曲を聞いていただきました。バッハの聖書解釈、理解の深さに感動します。
マタイ受難曲を学んだ後、今日は『あかしびと21』201号の「巻頭のことば」から、御言葉を学びました。

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春の音楽礼拝



次の日曜日(4月23日)は、春の音楽礼拝です。
チェンバロ奏者の三宅眞理子さんをお迎えしてのクラッシック・コンサートです。
美しい古楽器の音色をお楽しみください。

バッハ作曲
プレリュード
フランス風序曲より
マタイ受難曲より
主よ、人の望みの喜びよ

三宅さんは数年前からご主人が制作されたチェンバロを持って、全国の小さな教会を巡ってコンサートを開いておられます。
ご主人のチェンバロ制作秘話も感動のです。聖歌隊の合唱、聖書からのショートメッセージ。
春の一日、教会堂に響く古楽器の調べに耳を傾けてください。
ご来会をお待ちしております。

4月23日(日)午前11時スタート 入場無料

弥富公園東・丘の上の教会です。
お子さま連れも歓迎します。
駐車場はありますが、駐められない場合は弥富通り沿いのコインパーキングをご利用ください。

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私の名前は希望です



漫画「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんの詩集から。

絶望のとなりにだれかがそっと腰かけた。
絶望はとなりのひとに聞いた。
「あなたはいったい誰ですか。」
となりのひとはほほえんだ。
「私の名前は希望です。」

イースターにふさわしいメッセージではないでしょうか。
ヨハネが記すイースターの夜の記事があります。その夜、弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、絶望の中に座り込んでいました。するとそこへイエスが来てその真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。イエスは手と脇の傷を弟子たちにお見せになりました。弟子たちは、主を見て喜びました。詳訳聖書は、その喜びを「弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた」と訳し、欣喜雀躍する弟子たちの姿を生き生きと描いています。復活であり、命であるキリストとの出会いこそ、私たちの喜びと希望の源なのです。

次の日曜日は、春の音楽礼拝。チェンバロ奏者の三宅眞理子さんをお迎えし、古楽器の美しい音色を教会堂に響かせていただきます。土曜日は志摩にある小さな教会でも演奏をしてくださることになっています。ぜひお出かけください。
今週も大切なことを大切に。

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絶望のとなり

イースター礼拝(春の召天者記念礼拝)
礼拝メッセージ 「絶望のとなり」
聖書 ヨハネによる福音書20の19〜23ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(番外編)

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

イースター、おめでとうございます。
今週も礼拝の恵みに感謝。 

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なぜ?



マリアがナルドの香油をイエスに注いだ時、マタイの記事によれば、弟子たちが彼女の行為を「なぜ、こんな無駄なことをするのか」と叱責していますが、イエスは、マリアがした以上のことを、これからしようとしていました。イエスはその命までも、弟子たちのために、そして私たちのために注ぎ尽くし、使い果たそうとしておられたのです。それは無駄なことだったのでしょうか。いいえ無駄ではありませんでした。
もう一つの「なぜ」があります。ヨハネは、ここであのイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を300デナリオンで売って」と言った言葉を記録しています。彼は、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたとも書かれています。彼の「なぜ」は、やがてイエスを銀貨30枚で売ってしまう、怖ろしい「なぜ」です。「なぜ」という問いかけは、動機を探る時に大切ですが、「なぜ」と言いながら冷静に計算を始めてしまうと、できなくなることが多くなるのではないでしょうか。そして、いつの間にか、大切な香りを失ってしまうのです。
人生にはいつでもできることと、たった一回しかできないことがあるのです。マリアは、やがて私たちのためにその命を惜しみなく献げ尽くしてくださるイエスを思い、イエスに葬りの備えとしてこの油を注いだのです。その時の状況をヨハネは「家は香油の香りでいっぱいになった」と美しく表現しています。計算高い私たちは、時に人と比較したり、過去と比較したりしながら、最小限にキリストと教会に献げるにはどうしたらよいかと間違ったことを考えます。しかし、そんなクリスチャンには、そんな教会には香りがありません。
先日、教区の先生方の集まりが持たれました。神学院の開校70年と言うことで、先生方と献身の証しを分かち合いましたが、今年暦年50年を迎えられたN先生が最後に、「皆さんにお願いがあります」と前置きされて、「どうぞ福音の香りを失わないでください」とおっしゃいました。いろいろな意味があると思いますが、キリストのために献げ尽くした人にしか醸し出せない福音の香りを大切にしたいと思いました。「いとも良きものをイエスに献げよ。熱き汝が心、若き力を。」

次の日曜日はイースター礼拝です。ぜひお出かけください。

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