起ちて歩め

礼拝メッセージ 「起ちて歩め」(健康感謝の日を覚えて)
聖書 ヨハネによる福音書14の11-14
ヨハネによる福音書シリーズ(109)

14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(詳訳:「私は有る」という者のすべてによってたよって願う事は、私がそれをしてあげよう。)

使徒言行録(新契約聖書・永井訳)
3:6 イエス・キリストの名に於いて起ちて歩め。

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告白



十字架の前夜、イエスがいなくなってしまうということが語られると、動揺する弟子たちが次々に発言します。まず「どこへ行かれるのですか」と言うトマスの咄嗟の問いかけが、イエスの口から偉大な啓示を引き出しました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことはできない。」イエスが語っていると、今度はフィリポという弟子が尋ねます。「主よ、わたしに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と。「御父をお示しください」、言葉を換えれば、「神を見たい」との願いは、聖書が教える人間の根源的、究極的渇望です。
詩編42編は、そんな人の心にある神への渇きを歌った代表作です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」この後、詩人は「お前の神はどこにいる」と訴える人々の声を聞きながら、神に見捨てられたような現実の中で、次のように叫びます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
まるで一人の人のうちに二人の人がいるようです。うなだれている自分に語りかけているのは誰でしょうか。「神を待ち望め」と言っているのは誰でしょうか。それは彼自身です。ほんとうの自分が叫び出して、どんな逆境にも振り回されず、「神を待ち望め」と言っているのです。現実には思い悩みます。窮地に追い込まれればうなだれて心が乱れます。でもその時に、ほんとうの自分が目覚めて、神を慕い求め始めるのです。
古典的キリスト教文学の名作『告白』を著した聖アウグスティヌスもその本の冒頭にこう記しています。「神よ、御身は御身のために私たちをつくられました。私たちの心は、御身の中に安らうまでは、安らうことがありません。」
イエスの弟子フィリポの叫びも同じです。「わたしたちに御父を(神を)お示しください。そうすれば満足できます。」詳訳聖書は、「それが私たちの願いのすべてです」と訳します。神を見たい。それが私たち人間のうちにある真実な渇きなのです。
そこでイエスは言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と。イエス・キリストこそ、人間を神に導く唯一の道であり、絶対不変の真理、真実の神、永遠の命です。ヨハネが福音書のはじめに記していたとおりです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである。」イエス・キリストこそ、父のふところにいる独り子の神、この方が神を目に見えるように示されました。キリストは父のふところにいるので、私たちをまちがいなくそこに導くことができるのです。

聖イエス会では、11月23日の勤労感謝の日を「健康感謝の日」と定め、その前後の日曜日に「健康感謝礼拝」を行っています。名古屋教会では次の日曜日がその礼拝になります。この一年、健康な時も、病気の時も、守られ支えられてきたことに感謝しましょう。

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収穫の主に

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マタイによる福音書の9章から。

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

今日は『あかしびと』の記事を少し紹介した後、最近読んだ祈りの本から短く御言葉を学びました。
38節の「送ってくださるように」と訳されている「エクバロー」というギリシア語は、他の箇所では力づくで「追い出す」とも訳されている強制力のある言葉です。これは今の時代に、「教えと宣教と癒し」というキリストの業を続ける働き手を輩出させてくださいという祈りであると共に、祈っている人自身が背中を押され、押し出されるような力強い祈りなのです。アンドリュー・マーレーは、この言葉から「宣教地に遣わされる宣教師の人数は、働き手を祈り求める祈り手の数で決まる」と言い、「御体なる教会は、大宣教命令が実現するまで、団結してマタイ9章38節を毎日祈るべきだ」と教えたそうです。収穫の主に祈ります。「収穫のために働き手を送ってください。私をその人にしてください」と。

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その道の者たち



『道ありき』『この土の器をも』『光あるうちに』と言えば、作家三浦綾子さんの自伝小説三部作です。この作品も、日本人にとっては、たいへん優れた信仰のガイドブックではないかと思っています。
第一部となる『道ありき』は、「私はこの中で、自分の心の歴史を書いてみたいと思う」という一文で始まります。それは昭和21年、日本が戦争に敗れたばかりの時でした。17歳の時から軍国主義の教師として小学校の教壇に立ってきた堀田綾子さんは敗戦によって、これまで生徒に教えてきたことをすべて塗り替えなければならない、虚しい日々を送っていました。虚無感を抱きつつ、やがて結婚を決意しますが、結納が届いたその日に貧血で倒れ、間もなく肺結核を患い、13年にも及ぶ長く辛い闘病生活を強いられることになります。虚無に陥り自殺まで図った彼女が、生きる希望を取り戻すに至ったまでの道、『道ありき』では三浦光世さんと結婚するまでのことが書かれていますが、そんな綾子さんの青春の物語です。
この本の扉の所に記されているのが、ヨハネによる福音書14章6節、「我は道なり、真理なり、生命なり」という言葉です。これはイエス・キリストが語られた言葉ですが、まさに「道ありき」です。ところで、「道」という言葉を辞典で調べると、実に多くの意味があることがわかります。特に日本ではその精神性が重視され、生きることと深く関係付けられています。松尾芭蕉の「おくの細道」は有名です。京都の銀閣寺の近くには「哲学の道」というのもあります。花の道「華道」と言い、お茶の道を「茶道」、剣の道を「剣道」、柔の道を「柔道」と呼びます。一つの物事を通じて生き様や真理を追究し、それを体現することや自己の精神の修練を行うことを道と呼ぶわけです。興味深いことですが、聖書を見るとクリスチャンがクリスチャンと呼ばれる前、「その道の者たち」と呼ばれていたことがわかります。そこで、信仰の道を求めることを「求道」と言います。ですから、私たちは求道者です。これはキリスト教初心者の呼称ではなく、聖書を学び、信仰の道を尋ね求めるすべての人の呼称です。今週も信仰の道を尋ね求めようではありませんか。

今週も大切なことを大切に。

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われ神に出会う

11月のオープン礼拝
礼拝メッセージ 「われ神に出会う」
聖書 ヨハネによる福音書14の6-10、ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(108)

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。
42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。

今週も礼拝の恵みに感謝。
こどもたちの健やかな成長を共に祈り、礼拝後には秋の召天者記念礼拝も持たれました。

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神の悲愛の息吹き



ある祈りの本から。

祈りと聖霊には深い関係があります。
聖霊。ギリシア語ではプニューマ。「風」とも「息」とも訳すことのできる味わい深い言葉です。
井上洋治神父は、「聖霊」を「神の悲愛の息吹き」と訳しました。
神が、悲しむまでも愛をもって、わたしたちに息吹を注いでくださっている、それが聖霊だというのです。
何というイメージ豊かな言葉でしょう。祈りの声を出すために息を吸い込むそのとき、わたしたちは神の息を吸い込んでいるのです。そして、祈りの声を出すそのとき、神の息と自分の息をひとつにしながら吐き出しているのです。
カトリック教会の伝統のなかには、一日のあいだ、幾度も同じ祈りの言葉を繰り返しながら生活する知恵があるそうです。「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」という短い祈りです(主よ、あわれみを、キリストよ、あわれみを、という意味です。)吸う息で「キリエ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。そして再び吸う息で「クリステ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。この伝統的な祈りは「キリエ」と呼ばれています。・・・
祈りは、手を組み、目を閉じ、頭を垂れて、という決まった姿勢で祈らなければならないものではありません。目を開いたまま、道を歩きながら、仕事をしながら、あるいは、満員電車のなかでも台所でも、祈ることはできます。そこにも「神の悲愛の息吹き」「神から来る風」が吹いているからです。

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からし種一粒ほどの信仰

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マタイによる福音書の17章から。

17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。
はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、
この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、
そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

からし種一粒ほどの信仰とはあるかないかわからないようなもの。
自分が信じたから奇跡が起こると言うよりも、
自分には何もないから、神に期待し、ゆだねますという心。
「ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。
わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。」

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11月のオープン礼拝



次の日曜日は11月のオープン礼拝です。
教会行事のために今月は第2日曜日になっています。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
11月のテーマは、「神さまに会いたい」。
読書の秋、聖書を読んでみませんか。
そして礼拝デビューしてみませんか。ご来会をお待ちしております。
こども祝福式、礼拝後、墓前にて秋の召天者記念礼拝あり。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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むなしい器



秋の教区聖会の感動が礼拝堂に残っています。神の子の声が響き、いのちにあふれました聖会でした。
聖会の備えに用いられた「三無一体」の勧めと「むなしい器」というルターの祈りがあります。
いずれも自分が神の前にどのような存在であるかを問いかけ、その向こうにある神の恵みを求めています。

ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。
わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。
わたしの信仰は弱いのです。どうか、強くしてください。
わたしの愛は冷え切っています。
わたしをあたため、わたしを熱し、
わたしの愛が隣人に届くようにしてください。
わたしには強く堅固な信仰が欠けています。
ときとして、わたしは疑い、
あなたをひたむきに信頼することができません。
ああ、主よ、どうか助けてください。
わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。
わたしはあなたのうちに、わたしがもつ宝のすべてを置いています。
わたしは貧しく、あなたは富んでおられ、
貧しい者に対して恵み深くあられる方。
わたしは罪人であり、あなたは正しく、
わたしは罪にまみれ、あなたのうちには義が満ちあふれています。
ですからわたしはあなたとともにいたいのです。
わたしはあなたからいただくばかり、
あなたに差し上げるものはなにひとつありません。アーメン

宗教改革500年、改革者の祈りに心を合わせます。
今週も大切なことを大切に。

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神の子の声を聞く時

秋の教区聖会
礼拝メッセージ 「神の子の声を聞く時」伊藤嘉男牧師
聖書 ヨハネによる福音書5の1-9、21、25

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(彼らは、水が動くのを待っていた。
5:4 それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。)
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:21 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
5:25 死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

午後は集会は宮本博文牧師によって、ヨハネ福音書の11章から、「ラザロ、出て来なさい」とのメッセージが語られました。
今週は聖会の豊かな恵みに感謝。

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