諸人登山



私たちの神は、遠くて近い神です。イザヤ書にこう書かれています。「57:15 わたしは高く聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住む。」「高く」、英語の「High」は、地上から「遠く」という使い方もします。一方で、「共に」という言葉を、ある英語の聖書では「Nigh」「近く」と訳していました。私たちの神は、「遠く」聖なる所にいます神であると同時に、心砕けて、へりくだる者の「近く」におられる神なのです。エフェソ2章17節にはこう記されています、「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました」と。
海外でも有名な葛飾北斎の「富嶽三十六景」。富嶽とは富士山の別名で、どれも美しい36景ですが、実は裏富士と呼ばれる十景を含め全46作あることが知られています。江戸時代の風景画浮世絵師であった北斎は、ゴッホなど西洋の画家にも影響を与え、リヴィエールは本作に触発され「エッフェル塔三十六景」を描いたほどです。最も有名な「神奈川沖浪裏」は、相模湾の高波の裏に見る富士山を描いたものです。
富嶽三十六景は、どの絵にも富士山が描かれているのですが、どこを探しても富士山が見あたらない絵が一つあります。「諸人登山」という一枚です。富士を遠くに探しても見つからないのは、これが富士登山の絵だからです。この岩だらけの地面こそが富士山なのです。富士山が、あまりにも大きく、そして近くてその存在に気づけないのです。
私たちの信仰もよく似ているのではないでしょうか。神があまりに大きく、近すぎて見えないのです。試練の高波の向うに神を見ることも大切ですが、自らの足もとに神を発見し、その神と共に、高い山に上る人は何と幸いでしょう。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」
今日、私たちの足もとに、富士山よりも大いなる神の山、イエス・キリストがおられます。「わたしは遠く聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者の近くに住む。」「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」だから今、私たちの足を洗っていただきましょう。まだ全部が分からなくても、素直な心になり、洗っていただきましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

全身清いのだ



ペトロが「手も頭も」と言ったことに対する、イエスの答えです。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだ・・・。」一見自然な文脈に思えますが、実は「足だけ洗えば」という一句が、新約聖書の重要な写本には抜けていて、初代の教父たちも、この言葉について何の言及もしていないことから、原本にはなかったのではないかとも言われています。実際、キリストの洗足は、罪の全き清めの象徴であって、後日、何かを付け足さなければならないようなものではないはずです。
エフェソの信徒への手紙には、何と記されていたでしょう。5章26節以下、「キリストがそうなさったのは、言葉の伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 ・・・栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」また、ヘブライ人への手紙10章10節にはこう記されています。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。」一度だけで十分でした。足りないものは何もなかったのです。
ところが、相当古い写本から、「足だけ洗えば」という一句が挿入されるようになります。沐浴後は足だけ洗うのが当時の習慣であったということもあるようですが、霊的なことを言えば、救われた後に犯す罪の問題が、この一句を必要としたようです。当時の指導者たちは、聖霊を受けた後に犯す罪を、「足の裏につく塵」と呼んでいます。ですから、私たちの弱さのゆえに、罪をくり返すことはありますが、だからと言って罪の原因、原罪を清めるキリストの全き救いそのものが不完全ということにはならないのです。「一度だけ(Once and for all)」とは、けりを付けるという意味です。 一度だけで十分でした。「既に体を洗った者は、全身清いのだ。あなたがたは清いのだ。」
ヨハネはこれらのことを踏まえて、晩年、彼の手紙の中で次のように勧めました。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださります」と。ヨハネの手紙一1章9節、この聖書箇所の覚え方は「119」です。キリストの救いは完全無欠です。でも日々足の裏につく塵は「119」まで。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

神の身分と僕の身分



イエス・キリストこそ、すべての支配者、王の王です。しかし同時に、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗われた僕です。ヨハネによれば、イエスは「御自分の時が来たことを悟り、・・・父(なる神)がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」、この洗足という、本来奴隷のなすべき仕事をなされました。そこには何と大きなギャップがあることでしょうか。このギャップこそ、キリストの特徴です。
フィリピの信徒への手紙にはこう記されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・僕の身分になり・・・」。
詳訳聖書は味わい深いです。「2:6 〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、2:7 かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ、人間のさまになられました〈人間としてお生まれになりました〉。2:8 彼は、人間の姿でお現れになったのち、〔さらになお〕ご自身を低くして〈へりくだって〉、死に至るまで、しかも〔あの〕十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました。」
最後の言葉は、ヨハネ福音書13章1節にも通じます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(とことん、最後まで)愛し抜かれた。」これが神のなされたことです。神は、そこまでしても、あなたの足を洗い、あなたとかかわりを持ちたかったのです。
この場面での、ペトロの発言や態度は、彼の性格をよく表しています。彼の席が13番目だったとしたら、足を洗ってもらったのも最後だったでしょう。どれくらい待たされたでしょうか。ようやく自分の番が回ってきたとき、彼はずっと我慢していた思いをいっきに吐き出しました。彼は、どうしてあなたが私の足を洗うのかと抵抗したり、私の足は洗わないでいいと拒絶したり、洗わないと関係がなくなると言われると、手も頭も洗ってほしいと要求したり、とにかく極端です。しかし、9節を最後に、彼が何も言わなくなるのは、彼がここで未だ見ぬ我と出会ったからではないでしょうか。
そんな彼がしなければならなかったことは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。だから今は何も言わないで、あなたの足を洗わせなさい」と言われるイエスの前に、汚れたままの足を素直に差し出すことだけでした。

「The Servant(しもべ)」という題が付けられている絵があります。この人はビジネスマンでしょうか。立派な革の椅子に座っています。彼は頭を抱えていますが、取引に失敗したのでしょうか。それとも家庭に問題があるのでしょうか。きっと誰の人生にも、こんな風に頭を抱えこんでしまうようなことがあるのだと思います。しかし、その時こそ、私たちの足もとにイエス・キリストがいてくださるのです。この方こそ、未見の我ならぬ、未見の神です。世界の王の王である方が僕の手ぬぐいを腰に巻き、あなたの足を洗うために、ひざまずいておられます。

今日は「山の日」、名前が好きです。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

未見の我



渡辺和子先生の「面倒だから、しよう」に、相田みつをさんの詩が紹介されていました。

トマトがね、トマトのままでいれば、ほんものなんだよ、
トマトをメロンに見せようとするから、偽物になるんだよ。
みんなそれぞれにほんものなのに、骨を折って偽物になりたがる。

渡辺和子先生の文章です。
若い人はよく“自分探し”という言葉を使いますが、自分というものは、押し入れを開ければ見つかるようなものではありません。自分探しとは、私は一体どういう人間なのだろうと言うことを絶えず模索することです。失敗をしたら、その失敗をしっかりと受けとめ、成功をしたら、私にもこんないいところがあるのかと今まで気付かなかった自分に気付くこと。・・・

未見の我という言葉があります。私たちは、自分自身を全部知っているわけではありません。いろいろな人との出会いやさまざまな経験を通じて「未だ見ざる我」に気付きながら、パーソナリティを自分らしく作っていくことが、大事なのです。

先生らしい文章に心が和みます。
私たちも聖書が教えてくれる「未見の我」、ほんとうの自分と出会えますように。

昨日は礼拝後に、福井県の高浜に移動、子どもたちのミニキャンプを持ちました。
台風の予報もあったので、到着後、すぐに海水浴へ。楽しい時間を過ごすことができました。
今日は朝からあいにくの雨模様でしたが、大槻筆子先生の足跡を辿り、早めに名古屋に戻って来ました。
高浜に導いてくださった主に感謝。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

とことんまで愛された



ヨハネ福音書だけではわからない、洗足の真実があります。ルカによれば、最後の晩餐の席上、弟子たちがあることで議論を始めています。その議論とは、「だれがいちばん偉いのか」ということです。『日本人に贈る聖書ものがたり』で、この場面が席順を決める話しから始まっているのは、とても自然で、納得させられる描写です。
そういうことなら、「だれがいちばん偉いのか」という議論が始まったというのも、うなずけます。そこでイエスは十字架を前に、大切な教えを語られました。ルカによる福音書22章26節以下、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕をする者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」もしヨハネ福音書につなげるなら、そう言ってから、イエスは食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めたのかもしれません。
ヨハネは、ここで「イエスは、・・・御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と前置きしていますが、「この上なく愛し抜かれた」という部分を他の訳と比較してみましょう。口語訳は「彼らを最後まで愛し通された。」詳訳聖書は新共同訳と口語訳を合わせた訳で「彼らを最後まで〈この上なく〉愛された。」新改訳聖書は「その愛を残るところなく示された。」リビングバイブルも同様に「愛を余すところなく示されました。」フランシスコ会訳は「限りない愛をお示しになった。」文語訳は「極みまで之を愛し給へり。」岩波訳も「極みまで愛した。」
ギリシア語では「テロス」という言葉が使われていますが、時間的は「最後まで」、程度においては「極限まで、徹底的に」という意味で、ヨハネ福音書13章の場合は、その両方の意味を含んでいると考えられます。十字架の前夜、キリストの愛は最高潮に達していたということです。しかし、もう一歩進んで考えるなら、神の愛は十字架で終わったのではなく、今も続いているということではないでしょうか。私たちが御国に行くその日まで、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるその日まで、最後まで、愛してくださるのです。
ちなみに、新約聖書に40回、テロスという言葉が使われますが、一番最後に使われるのは、ヨハネの黙示録22章13節、今年の御名の聖書箇所です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。」私たちのしんがりとなってくださる神は、弟子たちの汚れた足を洗うことによって、とことんまで愛される愛を示されたのです。この愛を私たちもとことん信じて祈り続けます。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架」と。

次の日曜日は8月のオープン礼拝です。暑い時期ですが、ぜひお出かけください。

comments(1)  |  trackbacks(0)

edit  top

勇気



今月18日に、105歳で亡くなられた聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明先生の葬儀が先週の土曜日に営まれたと報じられていました。先生が訳されたバーナード・ウェーバー著の「勇気」という児童書があります。いろいろな勇気があることを教えてくれる素敵な本です。

・いきなり、補助輪なしでつっぱしるのも勇気。
・探偵小説の犯人を知りたくても、最後のページを見たりはしないのも勇気。
・しゃべらないと約束したとっておきの秘密を漏らさないのも勇気。
・真っ暗にして眠るのも勇気。
・髪をばっさり切ってもらうのも勇気。
・壊されても、またやり直すのも勇気。

政治家の失態や国会でのお粗末な答弁が連日報じられ、誰もが呆れていると思います。もう少しだけみんなに勇気があったら、こんなニュースはなくなるでしょうか。本当のことを話すのも勇気。「ごめんなさい」と謝るのも勇気。クリスチャンとしては、人が嫌がる仕事を率先してするのも勇気。辛い思いをしている人に寄り添い、一緒に祈るのも勇気。何よりも、キリストを伝えるのも勇気ということではないでしょうか。
礼拝で学んでいる『ヨハネによる福音書』のシリーズも13章に入ります。ヨハネ福音書は構造的に、12章までと13章からの2つに分けることができますが、12章の終わりのところで、前半部分を要約するようなイエスの叫びを聞き、13章は「さて、過越祭の前のことである」と仕切り直すかのような前置きで始まります。ヨハネ福音書は、12章で、キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたことが記され、続いて「一粒の麦」の譬えが語られました。すでにキリストの最後の一週間、受難週に入っているわけですが、ヨハネは他の福音書のように、その週の出来事については触れずに、13章では十字架の前夜、あの最後の晩餐の席まで話しをスキップさせます。つまり、ここではもうキリストの最後の24時間に突入しているのです。ヨハネは、ここに、最後の晩餐の席でなされた信じられない出来事をまるでビデオで収めるかのように事細かに記録しました。僕となって弟子たちの足を洗うイエスの姿です。これもキリストの勇気でした。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

アニー マアミン



昨日の礼拝で、ホロコースト記念館のポーランド、イスラエル研修旅行に参加されたMさんから報告を聞きました。行く先々で疲労感を覚え、嫌悪感や虚しさを感じ、言葉を失うばかりであったと率直に語りながら、その暗い現実に光を投げかけたコルチャック先生、シンドラー、コルベ神父の足跡を辿ったこと、そこで受けた印章を中心に報告してくださり、感謝でした。
また、ホロコーストの地で、多くのユダヤ人と出会い、共に「アニーマアミン」というメシア(救世主)待望の歌を歌ったという報告は感動でした。『あかしびと』の最新号に、その「アニーマアミン」という歌のことが紹介されていますが、この伝統的なユダヤ教の祈りに、メロディーが付けられて最初に歌われたのは、ホロコーストのただ中においてだったそうです。収容所に向かうぎゅうぎゅう詰めの列車の中で、どんなことがあっても信仰を持ち続けることができるようにと、一人のラビが「アニーマアミン」を歌い始め、それが生存者によって歌い継がれてきました。その歌を、ホロコーストの地で、クリスチャンの私たちとイスラエルの人々が声を合わせて歌うとは、何という不思議でしょう。そもそもキリスト教とユダヤ教は、誰がメシアなのかということで絶えず言い争ってきましたが、もうメシアが誰であるかを論じるのをやめて、メシアの来臨を共に祈ろう、メシアがおいでになれば、すべてがわかるからということです。

アニーマアミン(わたしは信じる)
わたしはメシアがおいでになることを 全き信仰をもって信じます。
たとえ彼が遅くなられても それでもなおわたしは信じます。
わたしは毎日 彼が来られるのを待ち続けます。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

叫び



ヨハネ福音書は、13章から舞台を最後の晩餐の席に移しますが、その前に、これまでに記してきたことを12章の最後にまとめます。まず、ヨハネは自分の言葉で、これまでを振り返り、結局、ユダヤ人はイエスの行われたしるし見ても信じることができなかったということを、イザヤの預言を引用しながら述べた後、次に44節から、イエスの言葉として、これまでを振り返っています。
「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、どこで、誰に向かって語られているかは記されていません。ですから『叫んだ』というのは、イエスが主張してきた事柄、福音の内容について、くり返し語り続けて来たこと、今もその声が響いているという意味です。ここに記されていることは、今までどこかで語られて来たことでした。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。」さらに、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」これまでくり返し主張して来られた、この後もくり返し語られる父と子の一体性ということです。
そして、46節、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」闇と光というテーマも、ヨハネが好んで用いてきたイエスのメッセージです。その叫びが聞こえてきます。「言(キリスト)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」
イエスの叫びは続きます。47節以下、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者(不信仰に留まる者)に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」この後、その理由が語られていますが、救いと裁き、命と死の境界線は、イエスが語られる神の言葉を聞いて信じるか、信じないかだということです。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな




イザヤは旧約最大の預言者、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰です。旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言しています。ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見た」と言っている、イザヤ書6章でイザヤは何を見たのでしょうか。その日、イザヤは高く天にある御座に座しておられる主の栄光を見ました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤが死にました。彼が統治した半世紀、国は非常に栄えていただけに、彼の死は国家を不安に陥れました。その年のことです。イザヤが引き寄せられるように神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされていました。そして彼は天使の賛美を聞いたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」と。ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、様々な神の性質が述べられていますが、3度くり返して使われるのは「聖」だけです。神は愛、愛、愛とはどこにも書かれていません。神は義、義、義とも、神は恵み、恵み、恵みとも書かれていません。しかし、旧新約聖書に1度ずつ(新約は黙示録の4章に)、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と連呼する礼拝の光景が描かれています。
その栄光の目の当たりにしたイザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中住む者」と。「災いだ」、英語では、Woe is me(私は災いだ)です。前のページを見ると、5章には「災いだ」と5回もくり返されていますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。「災いの原因はあなただ」と言っていたイザヤが、神の清さに触れられた時、思わずその口から漏らしたのが、「私こそ災いであった」という言葉だったのです。
イエスと共に漁に出、二層の舟が魚でいっぱいになるのを見せられたシモンは言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。偉大な使徒パウロも、晩年、神の栄光を知れば知るほど、こう言わざるを得ませんでした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです」と。
これは単なるネガティヴ広告ではありません。自分をおとしめるだけで終わらないのです。神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清めてくださったのです。祭壇とは、いけにえがささげられる場所、すなわちキリストの十字架を表す場所です。「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたのあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。まさに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、・・・イエスについて語ったのである」ということです。そして、そのとき、彼は主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と懇願される主の御声を。
この夏、これまで越えられなかった信仰の一線を乗り越えて、私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

信仰の一線



中学生のプロ棋士、藤井聡太四段が時の人になっていますが、
将棋好きという先生からこんな話しを聞きました。
あの中田重治先生の言葉だそうです。

「歩も死線を越えれば金になる。」

「歩」は前に一つずつしか進めない駒ですが、敵陣に入ると「金」なります。
「歩」の成金(と金)というのは、普通の「金」よりも価値があって、
勝敗を左右することさえあるというわけです。
私たちが、たとえ「歩」のように地味な存在であっても、
あるラインを越えると「金」になれるとすれば、それは大きな励ましです。
この夏、今まで越えられなかった信仰の一線を越え、自分を越えるなら、
敵陣ではなく、神の御心の中に入って行き、
私たちも神に用いられる存在としていただけるのです。

今週も大切なことを大切に。
今日は岐阜で祈り会です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me