ラザロ、出て来なさい



「ラザロ、出て来なさい。」英語の聖書では、「Lazarus, Come Forth!」と訳されていますが、Forth というのは「の前へ(先へ)」という意味です。原文のギリシア語では、「エクソゥ(外へ)」という言葉が用いられています。
ラザロにとって、墓場は彼の終着駅だったのでしょうか。死んだらそれで終わりだったのでしょうか。いいえ、まだその先がありました。あの日、ラザロの名を呼び、「外に出て来なさい」と彼を呼ばれたイエスは、今日も私たちを呼んでおられるのです。「ラザロ、罪と不信仰の暗闇から出て来なさい。悲しみと絶望の淵から出て来なさい。古い自分自身から出て来なさい」と。
私たちは日頃から、さまざまな音や人の言葉に囲まれて生きています。人の言葉に傷つけられ、暴言や陰口に苦しんでいる人はいないでしょうか。でも一番よく聞く声は、意外に自分の声です。「ちぇっ」と舌打ちする時、誰かに言っているつもりで、実は自分に向かって、「やっぱりだめだ、どうせできやしない、もうおしまいだ」と言っているのです。そんな声に、やる気も自信も失い、一歩も前に、先に進めなくなっている人がいれば、その人こそラザロです。今年、どんな声よりもイエスの声を大きく聞きましょう。その声を何度も聞きましょう。イエスは「『彼らを信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」
「もう見ないでください。臭いますから」と言っているあなたが本当のあなたではありません。私たちは一人一人が、神にとって「この世で一番の奇跡」なのです。「わが目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「わが愛する者、美しいひと。」それが本当のあなたなのです。その本当のあなたに向かって、イエスは叫んでおられます。「ラザロ、出て来なさい。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。・・・マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
今年、ラザロの物語が、あなたと私の物語となりますように。

次の日曜日は、教区合同の新年聖会です。御言葉を待ち望みます。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

永遠の命に生きる希望



元旦礼拝から、今年の御名にちなんで、ヨハネ福音書の11章、ラザロの復活の奇跡を改めて学んでいます。先週は旧約聖書を引用して、この奇跡の背景に聖書が示す福音、氷をとかすドラマが語られているというメッセージをお伝えしました。昨日の礼拝では最初に、これまでのメッセージを踏まえて、「偉大な生涯の物語」から、ラザロの復活のシーンをダイジェストで見ていただきました。
聖書の記述通りではありませんが、ラザロの死を悼む人々、イエスの涙と息遣い、墓の前での祈り、ラザロを呼び出される声、墓から出て来たラザロ、それを見た人々の驚きと興奮、その喜びを告げる人々。
印象的なのはラザロの墓が、そびえ立つ大きな岩山の一部になっていることです。私には、あの岩山が、まるで難攻不落の死の王国を象徴しているように思えました。
誰も死を避けることはできません。しかし、多くの場合、人はできるだけ死を避けようとします。ホテル、マンション、駐車場、もちろん病院には、死を想起させる4号室や4階がないところがあります。苦しみに通じる9という数字も避ける場合があるようです。それらは忌み数と呼ばれ不吉な数字とされています。迷信と言いながら、その影響は小さくありません。しかし、真実の神であり、永遠の命であるイエス・キリストの出現は、人類の歴史、死の問題に根本的な変化をもたらしました。イエス・キリストの出現までは、人間にとって死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊を意味していましたが、キリストの出現は、人類に永遠の命と復活の希望をもたらしたのです。
聖書はこう言っています。ローマの信徒への手紙5章、「一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んできたように、死はすべての人に及んだのです。・・・しかし、神の恵みの賜物は罪とは比較になりません。・・・罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
蛇に睨まれた蛙のように、死の前に為す術もなく立ち尽くし、いつか死に呑み込まれていく私たちのために、イエス・キリストは十字架の死によって死を滅ぼし、私たちにも永遠の命に生きる希望を与えてくださったのです。
今年、あの渇ききったネゲブ砂漠に、死の世界に、命の川の流れを導き、氾濫させるかのように、主が私たちを罪と不信仰、そして死の力から解き放ち、よみがえらせてくださいますように。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」「それは荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れるからである。」「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」

今日は京都での聖会です。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

音が聞こえた



福音とは、幸福の音と書きますが、聖書の中で最初に「音」という言葉が使われるのはどこだか知っていますか。それは創世記の3章です。クリスマスに学んだ「原福音」と呼ばれる箇所ですが、人類の罪の始まりが描かれる記事の中に、すでにいくつもの神の愛を見い出すことができます。そこに聖書で最初の「音(sound)」が出て来るのです。3章8節、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」それは、罪を犯し、神の顔を避けて園の木の間に隠れていたアダムとエバを探し、園の中を歩まれる神の足音でした。それはどんな足音だったのでしょう。神学的には、彼らが犯した罪が神と人との間を分断しました。しかし、この足音から感じられる神の思いはこうです。「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」これは彼らを裁くためではく、彼らを取り戻すための神の招きです。神は罪のど真ん中にいる彼らに近づくことを否まれなかったのです。これこそ福音の初めです。
雅歌や創世記の記事を背景に、ラザロの復活の物語を読むのは、読み込み過ぎでしょうか。それでも、「ラザロ、出て来なさい」と墓に向かって叫ばれたイエスの声が、私にはこう聞こえるのです。「あなたはどこにいるのか。」「あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。」「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」
いつか死に呑み込まれていく私たちのため、死に向かって憤り、涙を流しながら、立ち向かって行かれたイエスこそ、やがて十字架の死によって死を滅ぼし、私たちに永遠の命を与え、私たちの目から涙をぬぐってくださるお方なのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」
今年、死の世界であるネゲブに川の流れを導き、命を氾濫させるかのように、罪や不信仰、死の力に縛られ、捕らえられている私たちを、主が解き放ち、復活させてくださるでしょう。神の足音が聞こえて来ます。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

氷をとかすドラマ



旧約聖書、雅歌2章10節以下を新改訳聖書で紹介します。

2:10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。
「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
2:11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
2:12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。

聖イエス会讃美歌152番「見よ冬過ぎ去り」はこの御言葉を歌っています。冬が過ぎ、春が来るように、歌の季節がやって来るというのは、今年の標語、詩編126編にも通じるテーマだと思います。涙の種蒔きに続く、喜びの歌と収穫。厳しい冬の寒さに続く、百花繚乱の歌の季節。新共同訳の「小鳥の歌うたうとき」というのも良い訳です。
さて、歴史上最も多くの人に見られた映画の一つは、あの「Sound of Music」だそうです。ジュリー・アンドリュースが演じる実在の修道女とトラップ一家との愛を描いたこの不朽の名作ですが、この映画について徹底解説した書物に、長く愛される映画(ストーリー)には一つの法則があるということが書かれていて興味深く読みました。その法則とは「氷をとかすドラマ」ということです。
大ヒットしたディズニーの「アナと雪の女王」は、まさに真実な愛によって氷がとける物語です。日本にゴスペルブームを呼んだ「天使にラブソングを」もそうです。「Sound of Music」も氷のような心のトラップ大佐とその厳しい規律に縛られていた子どもたちの心を、修道女マリアが歌の力によって、その氷をとかしていく物語です。
では、どうしてこのようなストーリーが愛されるのでしょうか。それはきっと、だれもがとかしてほしい何かを持っているからではないでしょうか。
雅歌の花嫁も、閉ざされた心を持っていましたが、彼女を愛する花婿は、彼女の愛を呼び覚まそうと、「山々を飛び越え、丘々の上をはねて」、かもしかや若い鹿のように、彼女のところにやって来ました。そして語りかけるのです。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た」と。氷をとかすドラマ、これこそ福音の神髄です。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ネゲブに川の流れを導くかのように



新年の御名と標語を心からあがめます。今年の御名はヨハネによる福音書11章25節、「我は復活なり命なり」です。今年、この命と希望にあふれる御名(神の種)を、まず私たちの心という畑に、涙と共に蒔き続け、自らの内にキリストの死と復活を体験し、キリストの命にあふれる者とならせていただきましょう。その人だけが、「復活の喜びを告げる、新しい歌」を歌いながら、大いなる収穫に与ることができるからです。
今年の標語、詩編126編が私たちの日々の祈りとなりますように。

126:1 主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、
わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが、
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう。
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために
大きな業を成し遂げてください。
わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブ(荒野と砂漠に、死の世界に、いのちの)川の流れを導くかのように、
わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は、
喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
お言葉通り、成りますように。

4節に「ネゲブに川の流れを導くかのように」とありましたが、ネゲブとは、イスラエルの南部に広がる砂漠地帯のことです。イスラエル建国の父ベングリオンは、まるで預言者のように「ネゲブに花を咲かせよう」「この地を緑の園にしよう」と語り、そこにキブツを作りました。ネゲブには、ワジと呼ばれる水無川、涸れ川があり、雨期になると突然そこに川が流れるのです。今年、ネゲブに川の流れを導くかのように、主が私を含め、罪や不信仰、死の力に縛られ、捕らえられている者を解き放ち、復活させてください。さあ、「わたしたちのために大きな業を成し遂げてください」と祈りましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

デボーションのすすめ



教会ではデボーションガイドを使って聖書通読することを勧めています。
デボーションガイドは、読み始めたその日から3年で、旧約聖書を1回、新約聖書を2回読むことができる聖書通読の友です。デボーションガイドの初めに、デボーションガイドの使い方「デボーションのすすめ」という短い文章を書かせていただいていますが、新年号にはこんな文章を載せました。

聖書を深く理解し、聖書を生きる人となるために、みなさんの手に次の6つのことを覚えさせてください。小指が「聞く」、薬指が「読む」、中指が「学ぶ」、人差し指が「覚える」、親指が「黙想する」、そして手のひらが「適用する」です。クリスチャンであれば、しばしば御言葉を聞く機会はありますが、それだけでは十分でありません。もう一歩進んで、毎日聖書を読む習慣を身に付けましょう。さらに、御言葉を学び、覚え、黙想し、日々の生活の中に適用することによって、御言葉をつかむことができるようになり、だれでも聖書を生きる人となれるのです。

そこで、名古屋教会では、今年デボーションガイド用のジャーナル(日誌)を作り、御言葉やデボーションの恵み、日々の感謝を書き留めることに挑戦し始めています。聖イエス会のメンバーで、まだデボーションガイドを使っていない方はぜひお求めください。新しい年、ご夫婦で、ご家族で、友だちやグループ、教会ぐるみでいろいろ工夫しながら挑戦していただきたいです。

あなたが聖書を閉ざすなら、神は口を閉ざされます。
あなたが聖書を開くなら、神は口を開いて語られます。

さあ、今年も毎日聖書を開いて、神の声を聞きましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

敬天愛人



今年は、明治150年と呼ばれ、NHKの大河ドラマでも維新の立役者・西郷隆盛の生涯を描く「西郷どん」が放送されましたが、大槻牧師が書かれた『言泉集』の中にも西郷の言葉が引用されています。『西郷南州翁遺訓』という西郷の教えをまとめた本に出て来る言葉で、剣の達人と言われた山岡鉄舟のことを評した言葉です。「地位も名誉も財産もいらぬという者は、始末に困る者である。しかし、この始末に困る者でなくては、大事を共にすることはできない。」『言泉集』の12巻と15巻に出てきますので、どんなメッセージの中で引用されているのか興味のある方は、ぜひ『言泉集』を読んでください。
ところで、西郷隆盛の座右の銘と言えば「敬天愛人」ですが、この言葉は18世紀の清王朝、康熙(コウキ)帝がキリスト教認定の言葉として使ったのが起源とされ、その後、明治時代の啓蒙思想家・中村正直がキリスト教精神を要約した言葉として用い、親交のあった西郷に伝わったようです。すでに、漢訳(中国語)聖書を読んでいた西郷は、「敬天愛人」との言葉を通して、自らが信奉していた陽明学を超えた真理が、キリスト教にあると悟ったのです。
内村鑑三は名著『代表的日本人』の中でこう記しています。「敬天愛人の言葉には、キリスト教で言うところの律法と預言者の思想が込められており、私としては、西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い。」「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は守るべききわめて恵み豊かなものとして理解されていたようだ」と。新しい時代を切り拓いた維新の志士が、聖書を通して、心の維新を体験していたことを忘れないようにしたいと思います。
「西郷どん」の最終話のナレーションで、西郷に従った人の言葉が紹介されました。「一日西郷に接すれば一日の愛が生じ、三日接すれば三日の愛が生じる。親愛の情は日々募り、もはや去ることは出来ない。ただ、ただ生死を共にしたいのだ。」キリストに接した人もまた同じです。明日から始まる新しい年が、新しい時代を切り拓くために、涙と共に種を蒔き、喜びの歌と共に刈り入れる年となりますように。まず心の維新を求めましょう。

元旦礼拝は明日1月1日(火祝)午前10時半から。
新年の祝福を共の祈りましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

平和の歌「きよしこの夜」



1818年のことです。クリスマスを一週間後に控えたオーストリアの小さな田舎の教会では、遅くまで明かりが点いていました。その教会の26歳になる若い神父モールは、眠ることができませんでした。一週間後に聖誕礼拝をささげ、演劇発表会もしなければならないのに、たった一つのオルガンが壊れてしまったのです。オルガンを直そうとあれこれ調べてみましたが、田舎で修理することは難しく、新しく買えるような状況でもありませんでした。夜更けにモール神父は神に切に祈り、窓の外を眺めました。実に静かな夜でした。彼は美しい街の景色に感動を受けて、一つの詩を書きました。次の日の朝、彼は詩を持って教会のオルガン演奏者であり、学校の先生であるグルーバーを訪ねます。「先生、詩を一つ書いてみました。この詩で作曲してください。聖誕礼拝の時、ギターで演奏したらどうでしょうか。」・・・クリスマスの日、田舎の小さな教会ではモール神父の詩に、グルーバーが曲を付けた新しい歌がギターで演奏されました。これが「きよしこの夜」の初演となったのです。
今ではクリスマス・ソングの定番となったこの歌も、その年に小さな田舎の教会のオルガンが壊れていなかったら作られることはありませんでした。今年もいろんなことがありました。壊れたオルガンのように、どうにもならない現実や思いもあるかも知れません。でも、きっとそこから新しい歌が生まれてくるでしょう。今年のクリスマスも・・・。
ところで、モール神父が書いた「きよしこの夜」の歌詞には6節まであったことを知っていますか?
今では3節までしか歌われないクリスマスの名曲の4節以下には、平和への願いが綴られています。その歌詞はナポレオン戦争後の混乱した時代、飢えと貧しさに絶望し悩まされていた人々の心を癒すものでした。今の時代も同じです。きよしこの夜を新しい平和の歌として歌いたいものです。


きよしこの夜 神の御子は
憎み争う 人の心に
ともしたもう 平和の灯を

きよしこの夜 御子主イエスは
すべての人を 兄弟と呼び
迎えたもう 腕をひろげ

きよしこの夜 父なる神は
むかしも今 変わらぬ愛を
注ぎたもう 世の人に


昨日のクリスマス礼拝と今晩のイブ礼拝で、奥山正夫先生の訳による「きよしこの夜」の4節から6節を賛美しました。
「きよしこの夜」が生まれて200年目の夜に感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

見つめること



最近読んだ古い古い『二つの客間』という説教集に「星を見つめて」という素敵な文章がありました。

東方の博士を救い主に導いた星、・・・その星がどんな星であったのか、今の私たちにはわかりませんが、はっきり言えることは、その星が、東方の博士だけではなく、その地方の人には誰にでも見えたということです。
・・・リンゴはニュートンが見つめる前から地面に落ちていました。ペニシリン用の青カビ(世界初の抗生物質)は、日本の鰹節にも付いていて、フレミングがそれを見つけて薬にする前から日本にもありました。大切なことは、見つめることです。主イエスのご降誕、クリスマスの神秘は、これを真剣に見つめる人にだけ、その意味がわかるのです。

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」ヨハネと共に、今日も見つめ続けましょう。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

次の日曜日はクリスマス礼拝。聖歌隊によるキャンドルサービスを中心に、クリスマスを祝います。
午前11時スタート。ぜひお出かけください。入場無料。
駐車場あり(満車の場合は近くのコインパーキングをご利用ください)。
お子さま連れも歓迎します。
礼拝に続いて、祝賀会(軽食)あり。最後までお楽しみください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

女の子孫



旧新約聖書は66巻、1189章から成りますが、罪が存在しない章がどれくらいあるかご存知でしょうか。罪を見いだすことのできない章は、聖書の一番最初、創世記の1章と2章、そして聖書の一番最後、ヨハネの黙示録の21章と22章、たった4章だけです。聖なる書であるはずの聖書ですが、実は人間の罪にまみれた、とことんまで罪について描いた書なのです。この事実は、罪の問題の解決なくして、人は絶対に幸せになれないことを私たちに教えています。ですから、聖書は贖罪について、いささかもぶれることなく、「キリストは私たちのために生まれ、私たちの罪を背負われた」というもう事実を一貫して語り続けるのです。愛である神は、人類の救いのために人となる必要があり、十字架の上で私たちのために死ぬ必要があったのです。
神が女の子孫から生まれることについては、創世記の3章、罪の始まりの章において、すでに預言されています。創世記3章は、人類の罪の始まりを克明に描いた聖書中最も暗い章ですが、すでに神の愛が散りばめられている福音の始まりでもあります。特に15節は、原福音とも呼ばれる聖書中最初のメシア預言として知られています。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」「女の子孫」とは、処女マリアから生まれるキリストのことです。「子孫」という言葉は本来「種」という意味で(文語訳聖書では「苗裔(ビョウエイ)」と書いて「すえ」と読ませていました)、通常男性に用いられる言葉で、「女の種」では意味をなさないのですが、女のみによる子孫、つまり処女から生まれるメシアとの意味になります。
イザヤのあの有名な預言もこの言葉を根拠としていました。イザヤ書7章14節、「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」使徒パウロも言っています。ガラテヤ4章4節、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子とするためでした」と。
この創世記3章から始まり、旧約聖書の至るところで語られたメシア預言のすべてを受けて、ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。10章5節以下、「キリストは世に来られたとき、次のように言われたのです。『あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、私は言いました。「ご覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。」』」
人類救済という神の願いを実現するために、キリストはこの世界に来られたのです。これがクリスマスの真実です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me