自分たちの突き刺した者を見る



イエスが十字架に付けられたのは過越祭の特別な安息日に入る準備の日でしたが、過越祭の安息日に、十字架に付けられた囚人の遺体を残したままにしておけなかったユダヤ人の指導者たちは、囚人の足を折ってから死体を取り降ろすようにピラトに願い出ました。ピラトがそれを承諾したので、兵士たちは、息の残っていた二人の囚人の足を折りましたが、イエスの足は折りませんでした。しかし、兵士の一人が、足を折る代わりに、槍でイエスのわき腹を突き刺すと、裂かれたイエスの御傷から、血と水とが流れ出たのです。それを証言するヨハネの意図は、それが聖書に書かれていることの成就であったという点にありました。「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」
「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」という言葉は旧約聖書ゼカリヤ書12章10節の引用ですが、ヨハネは黙示録の1章でも、この言葉に言及しています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは」と。
ゼカリヤ書12章には、終末におけるイスラエルの霊的回復のプロセスが示されており、終末の預言の中でも最も大切な箇所です。終わりの日に、エルサレム問題が、世界最終戦争の導火線となり、国々がエルサレムを攻撃します。その時、エルサレムを持ち上げようとする者は皆、致命傷を受けると教えられているように、神の特別な介入によって、イスラエルは奇跡的に救われるのです。そして、イスラエルの霊的回復が始まります。12章10節、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」真理の御霊である聖霊が注がれる時、何が起こるのでしょう。「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」十字架の前夜、イエスが語っておられたように、聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにし、彼らを十字架に付けられたキリストのもとに導くのです。かくして、ゼカリヤの預言は13章に続くのです。「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。」裂かれたイエスの御傷は、罪と汚れを清める一つの泉となりました。

聖イエス会では11月23日を健康感謝の日と定め、神の恵みに感謝します。

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間を隔てている壁



昨日の礼拝、司会をしたH神学生が、先日参加した教会音楽部セミナーの恵みを証しした後、聖歌隊が「イェルシャライム・シェル・ザハヴ(黄金のエルサレム)」を歌いました。聖イエス会でこのイスラエルの歌がヘブライ語で歌われるようになったのはいつからかわかりませんが、1970年の3月に、神戸にあるシナゴグ(ユダヤ教の会堂)の献堂式祝賀会に、大槻先生と聖歌隊が招待され、そこで「イェルシャライム・シェル・ザハブ」を歌ったという記録が残っています。来年で50年になりますが、その頃からずっと歌い継がれている曲です。
今年はベルリンの壁が壊されて30年という話題がニュースになっていましたが、50年前の集会の後、大槻先生が「ユダヤ教とキリスト教との出会い」という意義深いメッセージを語っておられます。異邦人のクリスチャンが歌うヘブライ語の歌にユダヤ教徒が熱狂した様子は、ユダヤ教とキリスト教の断絶の壁を打ち破ったという内容です。メッセージはエフェソの信徒への手紙の言葉で終わります。「かつては遠く離れていたあなたがたが、今は、キリスト・イエスの血を通して近いものとされたのです。なぜなら、彼(キリスト)は私たちの平和、私たちの一致と調和のきずなであるからです。彼はユダヤ人と異邦人の両者を一つにして、私たちの間を隔てる壁である敵意を取りこわし撤去されたのです。そしてまた、ご自身の十字架によって一つのからだに統一されたものとしてユダヤ人と異邦人との双方を神に和解させようと意図されたのです。彼(キリスト)はその十字架によって相互間の不和を滅ぼされ、反目を終結させられたのです。」

今週も大切なことを大切に。

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その骨を折ってはならない



「彼の骨は一つも砕かれない」との御言葉は、詩編34編21節からの引用です。「主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、おられることはない」(新改訳2017)。この詩編はダビデによるものですが、神が義人をお見捨てになることはないという確信が歌われています。確かにイエスは、人類の罪を背負い、呪われた者となり、父なる神から見捨てられるという経験を味わわれましたが、それによって、イエスの義が明らかにされました。父なる神の御心を実現するために、イエスは自分を無にして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでお従いになられたからです。
「彼の骨は一つも砕かれない」との言葉は、もう一つのことを私たちに思い起こせます。出エジプト記の12章です。そこには最初の過越のことが詳しく記されていますが、主の過越において、家々で屠られる小羊については、「その骨を折ってはらない」と命じられています。
ヨハネ福音書の冒頭で、メシアの先駆者である洗礼者ヨハネがイエスを何と言って紹介したか覚えていますか。ヨハネはイエスを指さしてこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。そして今、その骨が折られなかったという事実によって、イエスこそ過越の小羊、世の罪を取り除く神の小羊であることが証明しているのです。
あの夜、屠られた傷のない小羊とは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの犠牲(供え物)として死なれるイエス・キリストを指していたのです。聖書はこう言っています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活(罪の奴隷)から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

明日は志摩にあるテベリヤ教会の礼拝を豊田教会が担当してくださいます。
日曜日は尾道市向島にある立花教会でチェンバロコンサートが持たれます。

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ゴルゴタの丘で



ヨハネはイエスの最後の瞬間を十字架の言葉と共に証言しました。イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて(十字架を枕する所とされて)、その霊を父なる神に返されたのです。この後、他の福音書では、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来事を記すのですが、十字架のもとにたたずむヨハネは、カルバリー山上での出来事を更に詳しく伝えています。
その日は「準備の日」であったと記されていますが、それは安息日の準備の日という意味で、ユダヤ教では金曜日のことです。特にその翌日は過越祭の特別な安息日(大いなる安息日)でした。
ローマ法では、死刑囚の埋葬は禁止されていました。しかし、その日、ユダヤ人には、一刻も早く死体を十字架から取り降ろしたい事情がありました。ユダヤの律法では、日没を越えて囚人の死体をさらしておくことを許していなかったからです(申命記21:22-23)。ましてや、大いなる安息日が来ようとしているのですから、なおさらのことです。
イエスを十字架に渡したユダヤ人の指導者たちは、囚人の足(具体的にはすね)を折ってから死体を取り降ろすようにピラトに願い出たところ、ピラトはそれを承諾しました。すねを折るのは、死の時間を早めるためです。十字架に付けられた罪人は、長い時間をかけて最後は窒息して死にます。すねを折ると、体の支えがなくなり、呼吸ができなくなって死を早めました。
兵士たちは、息の残っていた二人の囚人のすねを折りましたが、イエスのすねは折りませんでした。イエスがすでに息をしていなかったからです。しかし、兵士の一人が、すねを折る代わりに、槍でイエスのわき腹を刺しました。すると、すぐ裂かれたイエスの御傷から、血と水とが流れ出るのをヨハネは目撃しました。
ヨハネが見た血と水にはどのような意味があるのでしょう。ある学者は、医学的な説明を試みています。兵士が、槍で死体のわき腹を突き刺した理由は、イエスの死を確認するためでした。その人物がまだ死んでいないなら、槍を刺した時に水と血が分かれて出てくることはないのだそうです。その学説によると、極度の精神的身体的苦痛のために心臓が張り裂けると、心臓を取り巻いている心膜に血液が流れ込み、透明な血清のそうと深い赤みを帯びた血の層が分離し、時には2リットル程の水と血が溜まるのだそうです。
そのような状況で、兵士がイエスのわき腹を槍で刺した時、ただちに血と水が流れ出たという報告は、2つのことを証言していることになります。1つは、イエスは確かに死んでおられたという事実。もう1つは、イエスが極度の精神的身体的苦痛を味わわれたという事実です。この医学的な解説が理にかなったものであるかはともかくとして、イエスのご受難について、深く考えるきっかけを私たちに提供していることは確かです。主の苦しみを覚えましょう。しかし、それ以上に、ヨハネが私たちに指し示していることがあります。それは、聖書に書かれていることの成就と言うことです。

今週も大切なことを大切に。

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枕する所



イエスは十字架の上で神の御心をすべて成し遂げられました。ヨハネは、このイエスの言葉を受けて、言葉を続けます。「イエスは・・・『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ここでヨハネはとても注意深く、「頭を垂れて」と記しています。十字架の上で息を引き取ると、首をガクンと落とすような場面を想像される方もいると思います。しかし、この「垂れる」という言葉は、そういう意味の言葉ではありません。この言葉は、ギリシア語で「クリノー」と言いますが、マタイによる福音書9章では「枕する所」と訳されています。「イエスは言われた。『狐は穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子は枕する所もない』」と言うのが「クリノー」、「頭を垂れて」と同じ言葉です。
もともとは「傾ける」とか「横たえる」という意味ですが、イエスは十字架上で、実際に前か後ろか、左か右かはわかりませんが、頭を垂れたのでしょう。でもヨハネは、まるでイエスが首を後ろに静かに寝かせるように、十字架を枕にして、静かに息を引き取られたと私たちに伝えているのです。
宗教改革者マルチン・ルターがこう言いました。「キリストは何も持たずに来た。借りた家畜小屋でお生まれになり、借りた小舟の上で神の国を語り、借りたロバの子に乗り、借りた部屋で最後の食事をし、借りた墓に葬られた」と。そんなキリストがこの地上で唯一、これだけは自分のものだと主張されたものがあったとすれば、それはキリストが最後にその頭を横たえられた場所ではなかったのでしょうか。キリストはそこで私たちの罪の終わりとなり、救いの始まりとなってくださったのです。
ヨハネは十字架のもとにたたずみ、その愛のただ中で叫びます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。・・・ここに愛がある」と。

さわやかな秋晴れが続いています。

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聴くドラマ聖書



10月31日と言えば、巷ではすっかりハロウィーンですが、教会では、あのマルチン・ルターが1517年にヴィッテンベルク城教会の扉に95カ条の提言(公開質問状)を貼り出した歴史が動いた日、世に言う「宗教改革記念日」です。中世において、聖書と言えばラテン語訳の聖書を指していた時代に、ルターは聖書をドイツ語に訳し、だれでも自分の言葉で読むことができるようにしたのです。ですから、宗教改革とは、当時の腐敗した教会へのプロテスタント(抗議)ではなく、聖書を読む運動、聖書に帰る運動であったということです。
読書の秋、しっかりと聖書を読んでいただきたいと思います。とは言え、活字離れが進み、なかなか本の売れない時代に、ぜひ皆さんに紹介したいものがあります。それが「聴くドラマ聖書」というアプリです。無料でスマホやタブレットにダウンロードして聖書を聴くことができます。聖書66巻がドラマ仕立てで朗読され、テレビなどでお馴染みの俳優さんが聖書を朗読しています。
コミュニティで聖書を聴くというバイブルクラブというプログラムもあって、日本中に聖書を広めようというすばらしい働きです。1年半の準備を経て、アメリカ、韓国に続き、日本でもこの秋、ついにリリースされました。
この壮大なプロジェクトは、一人のビジネスマンの挫折から始まったということが冊子に書かれていました。ウォールストリートで活躍していたビル・ファンが事業に失敗しました。葛藤の中、牧師の息子であった彼は、自分のルーツとも言える聖書のオーディオブックに手を伸ばして聴きます。すると落胆していた心に、聖書の言葉が沁みました。再び立ち上がる勇気を得た彼は、一つのビジョンを持ちます。聖書の言葉を聴くことによって、生きる力を得る聖書アプリを作る文化財団を立ち上げること。それを特に社会から疎外されている人に届けること。彼は、G&M(Grace and Mercy )Foundation、恵みと憐れみ財団を設立し、このアプリを完成させたのです。
財団の小冊子に細かい文字でこんなことが書いてあります。日本人の毎日の平均通勤時間は往復で79分。ドラマ聖書は全体で150時間、9000分。毎日通勤中に聴くと、100日程度で旧新約聖書をすべて聴くことができます。通勤通学の電車や車の中で、家事をしながら、ジョギングやウォーキングのあいまに、聖書に親しみ、聖書から神の声を聴く、これは新しい宗教改革なのかも知れません。ぜひお試しください。

今週も大切なことを大切に。

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永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音



昨日の聖会で、マルコによる福音書からメッセージが語られました。
パピアスという歴史家(教父)は、マルコによる福音書について、こう書き残しています。「ペテロの通訳者であったマルコは、かつてキリストが言われ、行われたことについて回想したことのすべてを正確に記述した」と。つまりマルコの福音書は、ペテロの説教を記録したものだというのです。いくつかの特徴を挙げてみます。
マルコ福音書はとても簡潔です。ウェストコットは「実物からの写し」と言い、ブルースは「写実主義的」と言っているように、飾り立てずにありのままのイエスを描いています。
マルコ福音書は、その主張するところもシンプルです。1章1節、「神の子イエス・キリストの福音」が強調されると同時に、人々の畏れと驚きがくり返し描かれています。
マルコ福音書は、目撃者でなければ書けない、細かなで生き生きした描写が多く見られます。
マルコ福音書の文体は、磨かれたものではなく、子どものようです。とにかく「また」という接続詞を使って物語が進められていきます。そして「すぐに」という言葉がくりかえし使われ、休む間もなく、神と人々への奉仕のために明け暮れる僕なるイエスの姿が描かれています。別名「行動する福音書」と呼ばれる所以です。文法的には歴史的現在形を好んで用いており、過去の出来事を現在の時制で伝えようとするのもこの福音書の特色です。
そんな福音書の最後が昨日の聖会で開かれました。「婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。」

今週も大切なことを大切に。

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成し遂げられた



「成し遂げられた」、これはキリストが十字架の上で語られた7つの言葉の第6番目の言葉です。口語訳聖書は「すべてが終わった」、新改訳聖書や詳訳聖書は「完了した」、リビングバイブルは「すべて成し遂げた」と訳していますが、文語の『十字架の黙想』に親しんでいる方は、ラゲ訳の「成り終われリ」という響きが好きだという人もいるかも知れません。ギリシャ語では「テテレスタイ」という言葉が使われていますが、もともとは「支払い済み」「完済」という意味であり、そこから解決した、決着がついたという意味で用いられることから、成すべきことを最後までやり遂げた者だけが言うことのできる勝利の宣言と言うことができます。悪意の人は、この言葉を「万事休す」と訳し、イエスは事を成し遂げられなかった、これは敗北宣言だと言いますが、この言葉には敗北の意味は全く含まれていません。
イエスが成し遂げられたこと、もう神殿で小羊が献げられる必要がなくなったということです。別の言い方をすれば、律法の完成です。マタイ5章17節、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」これが父の御心を行うということでもありました。
神殿でささげるいけにえは、人間の罪を解決するために与えられた神の律法であり、礼拝の中心でした。ヘブライ人への手紙9章12節にはこう書かれています。キリストは「御自身の血によって、ただ一度(Once For All)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」もう人間の罪のために、動物の血が犠牲として流される必要がなくなりました。
ですから、イエスはこう叫ばれたことになります。「聖書の巻物に私について書いてあることは、すべて成就した。モーセの時代から今日に至るまで、何世紀にもわたって、献げられてきた動物の犠牲は、手付けに過ぎなかったが、神の小羊である私の死によって、贖いは完了したのだ」と。
『キリストの最期』という本を書いたジェームズ・ストーカーによれば、「イエスが『完了した』と言われた時、全人類に向かって、『見よ、私は、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた』と言っておられるのである」ということなのです。「成し遂げられた。」この言葉がある限り、「主の名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

10月最後の礼拝は、西宮にあるアンネのバラの教会から坂本誠治牧師をお招きしての信徒聖会です。

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白鳥の歌



昨日の中日春秋から。
白鳥は死の間際に最も美しい声で鳴く。西洋で古代から語り継がれる「白鳥の歌」の伝説である。辞世や絶筆、生前最後の言葉の例えとして、文芸などの世界で使われてきた。論語の中にも似た一節がある。「鳥のまさに死なんとする、その鳴くや哀し。ひとのまさに死なんとする、その言や善し」。死に臨んだときに口にする言葉は、純粋で真実に満ちている。
この後、台風19号で犠牲になられた方の話題が続きます。私たちはヨハネによる福音書から十字架の言葉を学んでいますが、キリストが死に臨んだときに口にされた、純粋で真実に満ちた言葉。それもまた「白鳥の歌」なのです。

今週も大切なことを大切に。

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渇きは終わった



イエスは、人類が自らの罪の罰として当然受けなければならなかった裁きを、代わりに十字架の上でお受けになりました。イエスが十字架上で経験された苦しみは、肉体の苦しみ以上に、また人々から受ける辱め以上に、人間の罪がもたらす悲惨な現実としての裁きである父なる神との断絶でした。それはあのぶどうの木の譬えにあるように、枝が樹から切り離され、いのちの源を断たれて枯れ木となるという、霊的な死、霊的な渇きでもありました。神との断絶を経験し、まさに地獄において味わわれた渇きだったのです。
ルカによる福音書16章に出てくる「金持ちとラザロ」の譬えを覚えていますか。生前、毎日贅沢に暮らしていた金持ちと、彼の家の門前でおこぼれを恵んでもらっていたラザロ、この二人が死にました。ラザロはアブラハムの懐(天国)に移され、金持ちは陰府(死者の世界)でさいなまれていました。両者の間には深い淵があって行き来できません。金持ちは、ラザロがアブラハムの懐にいるのを見て願います。「ラザロの指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中で悶え苦しんでいます。」イエスが味わわれたのは、この渇きです。
私たちは、罪がもたらす悲惨についてそれほどの自覚はありません。神から永遠に引き離され、見捨てられるということがどれほど恐ろしいことであり、どれほどの渇きを私たちに与えるものであるかがわかっていません。実際、それは終わりの日まで保留されていて、誰もそれを味わっていませんが、イエスはそれを先取りして味わわれたのです。
この第4、第5の言葉に続く、十字架上の第6の言葉は「成し遂げられた(完了した。終わった)」です。それは、この誰もが経験しなければならない「渇き」が終わったという意味です。イエスが十字架の上で渇き、呪われた者となってくださったので、その渇きは、呪いはすでに終わったのです。

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