植えられた場所



「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 」
神の選びはほんとうに不思議です。パウロは、その晩年「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と書簡に記しています。
私たちは、この神の永遠の愛による選びがよくわかっていません。キリストが語られた「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、詳訳聖書では「私があなたたちを選んだ<植えた>のである」と訳していました。Bloom where God has planted you.(神が植えられたところで咲きなさい)です。カトリックのシスター渡辺和子先生は、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めるのでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と言っています。新しいシーズンが始まります。神の選びに感謝し、置かれた場所、植えられた場所で、豊かな実を結ばせていただければ感謝です。

この春、教会でもプライベートでも、小さな変化が生じていますが、植えられた場所で、神の選びに応えさせていただきたいです。

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英雄であったから



ヨハネが伝えるペトロの第1の否認の箇所に、バークレーは「英雄と臆病者」というタイトルを付けて、次のような解説をしています。

こうしてペトロは、大祭司の庭で主を否んだ。ペトロほど説教者や注解者たちによって、不当に取り扱われてきた弟子はいない。この物語で強調されることは、いつでもペトロのしくじり、ペトロの恥である。だが私たちが忘れてはならないことがいくつかある。他の弟子たちは、ヨハネを除いて、イエスを見捨てて逃げて行った。ペトロのしたことを考えて見よ。ゲッセマネの園で、敵を向こうに回し剣を抜いたのは彼だけであった。彼は勇敢な弟子であった。他の者がみな逃げ去ってもイエスの近くにいたその勇気。
ペトロについてもっと注目されて良いのは、彼のしくじりが、この上ない勇気を持った男にしてはじめて起こり得たしくじりであった、という点である。たしかに、ペトロは失敗した。だか彼は、他の弟子たちならあえて直面しようとさえしなかった状況の中で、失敗したのである。彼が失敗したのは、彼が臆病者だったからではなく、彼が英雄であったからである。
…おそらく、否認の物語は程なく知れわったことであろう。伝説に寄れば、ペトロが通ると人々が鶏の鳴き声を真似たというのは、おそらくほんとうであろう。ペトロは自分を償うこと、すなわち失敗から出発して真の偉大さに到達するための(英雄になるための)勇気とねばりを持っていた。
問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペトロだったということである。ゲッセマネの園の月明かりの中で、ひとり剣を抜いたのが真実のペトロだったということである。自分の主を残して去ることができず、遠くからでもイエスに従ったのが真実のペトロだったということである。緊張に押しひしがれ、主を否認したのは、真実のペトロではなかった。そして、それがまさにイエスの理解するところであった。
イエスについて目を見はらざるを得ないことは、失敗だらけの私たちの奥底に、真実の私を見てくださることである。イエスが私たちを愛してくださるのは、私たちの現状のゆえではなく、可能性として私たちが持っているもののためである。イエスのゆるしと愛はどこまでも大きい。

ルカのカメラは、ペトロが三度主を否んだ後の一瞬を捉えて、こう伝えています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」と。イエスの眼差しは、あの日と少しも変わっていませんでした。ヨハネ1章42節、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする。』」
イエスは今日もほんとうのあなたを、あなたのうちにいる英雄を見ておられます。

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愛が冷めると



ゲッセマネでの逮捕の後、イエスはアンナスのもとに連行されました。大祭司の官邸の一室と考えるのが自然のように思います。ヨハネはアンナスによる予備審問と並行して、よく知られたペトロの否認を2箇所に分けて記録しました。前半は、第1の否認だけが記されています。ペトロともう一人の弟子とは、師を捨てて逃げ出した自分たちの行為を恥じ、引き返して、イエスに従いました。このもう一人の弟子とは、伝統的にヨハネ自身と考えられています。彼は大祭司の知り合いだったので、屋敷の中庭に入って行くことができたということが記されていますが、詳しいことはわかりません。彼が、門の外に立っていたペトロを、屋敷の中に招き入れましたが、その親切が仇となり、事件が起こります。薄明かりに、ペトロの顔を見た門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と声をかけてきたのです。ペトロは咄嗟に、「違う」と答えて顔を背けます。春に巡ってくる過越祭、まだまだ夜が更ける時間は花冷えがしていたようで、僕や下役たちが炭火をおこし、火に当たっていました。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたりました。それは、いかにも自分はこちら側の人間であると言わんばかりの行動でした。
ルカのカメラに切り替えます。ルカは、その辺りの様子をこう描きました。「ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。」ヨハネは立っていたと書き、マタイやルカは座っていたと書いています。詩編の1編1節にこう記されています。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」
『十字架の黙想』にこう記されています。「信仰が冷めると心に満足が無く、主から遠ざかると、必ず世俗の中に代わりのものを求めるようになる。愛が冷めると、体まで寒さを感じ、彼は座り込んで火にあたたまっている。主を離れてどこに満足があるだろうか。主のために苦しむことなしに、どこに真の喜びがあるだろうか。わたしたちの霊魂を暖めるものは、愛に燃える主以外にはない。キリストだけで充分である」と。
わが主イエスよ、ひたすら祈り求む愛をば、増させたまえ、主を愛する愛をば!愛をば!

3.11から8年、大切なことは、忘れないこと。
今週も大切なことを大切に。

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陽子は静かに頭を垂れた



三浦綾子さんのデビュー作である『氷点』が世に出されて55年になりますが、最近でも角川文庫の必読名作第1位に選ばれており、その人気は衰えていません。北海道新聞社から出ている『「氷点」を旅する』という本に、次のようなことが書かれていました。
「小説のあらすじは一晩でできあがったが、一番先に私が書いたのは、遺言の章である。この遺言は最後になって出て来るわけだが、作者の私の頭にはこの章が最も鮮明に浮かんでいたのである。この遺言を書きながら、私はポロポロと涙をこぼしていた。『私がこの小説を書きたいのは、この遺言を書きたいためだ。』こう私はつぶやいたものである。」
そして、「たった一人でもいい、この小説を読んでもらえるなら、そして人間がだれも持っている罪の意味を理解してもらえるなら。という気持ちで私は『氷点』を書いた。いわばこの小説は私の信仰の証なのである」とも書かれていました。
綾子さんが伝えたかったこととは何だったのでしょうか。死を決意した陽子の遺言です。

「いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということ。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。……私は今まで、こんなにゆるしてほしいと思ったことはありません。けれども今ゆるしがほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪をハッキリゆるすと言ってくれる権威あるものがほしいのです。」

この陽子の叫びは、自分の真相を知り、自分の限界を知ったすべての人間の魂の叫びではないでしょうか。だれもが、自分の血の中を流れる罪を、生まれてから今日に至るまで、人に対して犯した罪や過ちの数々、自分の醜い心を、ハッキリ「ゆるす」と言ってくれる権威ある方を求めているのです。
「氷点」とは、セ氏零度、つまり、水が凍りになる温度です。毎日の生活の中で、急に心が凍てつき、自分でも信じられないくらい、冷たい言葉や態度、思いに凍りつくことがないでしょうか。それが私たちのうちにある氷点なのです。この氷点に凍えるあなたを、熱い愛をもって抱きかかえるために、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で命を与えてくださったのです。
『氷点』は『続・氷点』へと続きます。三浦綾子は、その最後の場面で、自分では抱えきれない罪の問題に苦しみ続ける陽子を、流氷の見える網走に連れて行きます。そこで陽子は、流氷が燃えるような光景を見るのです。そのゆらぐ焔を見つめるうちに、彼女の心に、一筋の光が差しこんできます。

「流氷が!流氷が燃える!人間の意表をつく自然の姿に、陽子は目を見はらずにはいられなかった。青ざめた氷原が、野火のように燃え立とうとは。・・・またしても、ぽとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。天からの血!そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。・・・あざやかな焔の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真に赦し得る神のあることを思った。神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないものであると、・・・いまは素直に信じられた。・・・焔の色が、次第にあせて行った。陽子は静かに頭を垂れた。どのように祈るべきか、言葉を知らなかった。陽子はただ、一切をゆるしてほしいと思いつづけていた。」

『氷点』は最後の最後に、燃える流氷とキリストの十字架を重ね合わせ、罪の赦しという問題の答えと人間が再生していく道を見事に示したのです。すべての人の心にある氷点、罪の問題の解決は、イエス・キリストの十字架にあります。私たちの罪の身代わりとなり、尊い血潮を流してくださったキリストの十字架にこそ、罪の赦しと救いがあるのです。

今月の『ぶどう樹』でも、『氷点』が取り上げられています。日本中で『ぶどう樹」が用いられますように。

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美意識



神学生の頃、説教学の講義で「説教は美にまで高められなければならない」と何度も教えていただきました。卒業して27年が経とうとしていますが、いつも大切にしている教えです。美意識について、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』という示唆に富んだ一般書があります。現代は「直感と感性の時代」、技術や効率性だけではなく、美意識が重要になっているという内容で、興味深いです。
この本の最後の章に、読者への簡単なテストが出て来ます。「エジソン」と「実験工房」。この二つの文字に共通する点は何でしょう。「発明だ!」と思った人は考えすぎです。直感ですから、読まずに、見る力を鍛えるという話しです。ちなみに、幼稚園児に聞いてみると、すぐに答えが出るそうです。彼らは字を読むことができないので、大人よりも見る力に長けているいるのです。(答えは最後に書いておきます。)
そして、評論家の小林秀雄さんの文章が紹介されています。「例えば、野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だと解る。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に、もう花の形も色も見るのを止めるでしょう。・・・目を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。スミレの花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花はかつて見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」
ヨハネによる福音書から、イエス・キリストのご受難の物語を学び始めていますが、もし私たちがその話しはよく知っている、前にも聞いたことがあると思ったら、その瞬間、隠された大切な真理に目を閉じしまう可能性があるということです。自分自身、もう一度、初めて十字架のメッセージを聞いたときのように、虚心坦懐、先入観を捨て、もっと幼子のように素直な心で、十字架を見つめ、言葉の邪魔の這入らない福音の素晴らしさ(美しさ)を伝えたいと願いつつ、毎週のメッセージを準備しています。さあ、今週も十字架に注目しましょう。

「エジソン」と「実験工房」の共通点は、エジソンの「エ」と工房の「工」の形が同じだと言うことです。美意識を鍛えましょう。今週も大切なことを大切に。

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ゴール



イエスの裁判が始まります。この日、深夜から早朝にかけて、ユダヤ人による宗教裁判と、ローマ法に基づく政治裁判が、公式、非公式を含め、少なくても6回行われます。まず、ヨハネだけが記す、大祭司カイアファの舅アンナスによる審問、その後、カイアファとユダヤの最高法院(サンヘドリン)での深夜の裁判(この裁判は非合法なものでした)、それから少し時間をおいて、夜明けを待って再び開かれた最高法院での結審(これは深夜に行われた審議を正当化するための形式的な集まりにすぎませんでした。)しかし、イエスを死刑にするためには、ローマの許可が必要でした。そこでユダヤ人の指導者たちは、イエスをローマ総督ピラトの前に引き出します。ところが、ピラトはイエスに罪を見出せなかったので、祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデ王のもとにイエスを送ります。しかし、ヘロデはろくに審議することもせず、イエスに派手な衣を着せ、再びピラトのもとに送り返します。そして、そこでイエスの死刑が確定するのです。一夜のうちに、短時間でなされたこの審判は、どこまでも非合法なものでした。にも関わらず、一気呵成に死罪との判決が下されるに至りました。それは終始一貫して絶望的な裁判でした。
ところで、イエスはその夜、何を見ていたのでしょうか。理由のない憎しみの只中で、弟子たちがつまずき逃げ出していく現実の中で、不当な裁きを受けながら、イエスは微動だにせず、ただゴールを見ていたのです。私たちもイエスが見ていたゴールをめざして、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従おうではありませんか。
私たちのゴールは新しいエルサレムでまちがいありませんが、同時に私たちのゴールはイエス・キリストでもあります。ヘブライ人への手紙12章にこう記されています。新改訳聖書で。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者(author)であり、完成者(perfecter)であるイエスから目を離さないでいなさい(英語ではfix、あなた方の目をこの方に固定しなさい)。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」私たちも、弱り果てて意気そそうしないために、信仰の導き手であり、またその完成者、ゴールであるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか。

今日から3月。今月も大切なことを大切に。

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ゴールを見ているから



競泳の池江璃花子選手のことが話題になっていますが、伝説の女性スイマーの話です。
1952年7月4日、カタリナ島とカリフォルニアの海岸の間、35キロを泳いで渡る世界で最初の女性になるために、34才のフローレンス・チャドウィックは泳ぎ始めました。その日、海水は冷たく、伴走するボートすら見えないほどの濃い霧がかかっていましたが、フローレンスは必死で泳ぎ続けました。その様子はテレビ中継され、何百万人もの人々が見守っていましたが、16時間泳いだところでついに力尽き、彼女は挑戦を断念し、ボートに引き上げられました。
後でわかったことは、彼女が断念した地点は、ゴールまであと数百メートルのところであったということです。記者会見で彼女はこう話しました。「苦しい時、私が見ることができたのは、霧の中にある絶望だけでした。もし海岸を見ることができれば、最後まで泳げたでしょう。」
その日の敗因は、長距離を泳いだことによる疲労でも、その日の凍てつくような海の冷たさでもなく、濃い霧によって対岸というゴールが見えなかったことでした。何を見ているか、それが大切ということです。ちなみに、フローレンス・チャドウィックは2ヶ月後に再挑戦し、見事に泳ぎきったそうです。
先週の月曜日、教区の先生方と小さな祈り会を持ちました。その時にこんな話しを聞きました。一人の牧師が、大槻牧師に尋ねます。「様々な問題に直面しながら、どうして牧師は泰然自若たる態度で、微動だにせず、いつも毅然としていることができるのですか?」大槻牧師はただひと言、「ゴールを見ているからだよ」と答えられたそうです。
みなさんは何を見ていますか。霧の中にある絶望を見ていては、いつか心が折れてしまいます。大切なことは、ゴールを見ていることです。

今週も大切なことを大切に。

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剣と十字架



アシジの聖フランシスコの生涯を描いた「剣と十字架」という映画があります。フランシスコの映画は何本もありますが、若い時代から彼の死まで、その生涯全体を描いたものは、この映画だけかも知れません。この映画をベースに書かれた劇があり、大学生の時、フランシスコの役をさせていただいたことがあります。長い劇ですが、ほとんどフランシスコがしゃべっているという脚本でした。でも、当時の私は、何とかしてフランシスコのようになりたい、そんな真っ直ぐな思いで、夢中になって劇に取り組みました。青春時代の思い出です。
劇の一場面です。フランシスコがダミアノ教会で回心を経験する前、騎士に憧れ、剣をもって戦いに出ていた頃、突然天からの声を聞きます。「フランシスコ、汝は何処に行こうとしているのか。」「騎士になるために戦へ…。」再び天の声、「フランシスコ、神と僕とどちらに仕えるのが最善か?」「それは、神に仕える方が最善です。」さらに天の声、「フランシスコ、剣を捨てよ。」
彼は剣を置いて、アシジに戻りますが、やがてダミアノ教会で、十字架のキリストとの出会い、当時の力を失っていた教会に、再び神の火が灯されたのです。自分の正義、自分の理想、強引なマイウェイを切り拓く剣を捨てて、神がお与えになった杯、十字架を取る人によって、神は今も、この世界を変えようとしているのです。
先週、説教の準備をしながら、今から10年以上前に、エッセイ風にフランシスコのことを書いてる文章を、こちらのブログで見つけ、感動しました。

かつて宴会好きで、騎士になることを夢見ていた若者がいた。
あの日、彼は廃墟と化したダミアノという教会で独り祈っていた。
屋根もない青天井の教会だ。心地よい風が頬をなでる。
ただ古びた十字架が雨ざらしのまま置かれていた。
何か話したいことがあるような表情に見えた。
遠くで雲雀が鳴いている。まるで歌っているようだ。
若者は目を閉じた。・・・静かだ。もう雲雀の声も聞こえなくなった。
彼は行くあてもなくこの教会にたどり着いた。
彼は行くべき道を求めていたのだ。彼は祈り始めた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
若者はただならぬ気配を感じ、目を静かに開けた。
誰もいない・・・。彼はあの古びた十字架をじっと見つめている。
その時だ! キリストの口が動いた。
若者はその声を聞いた。
「倒れかかっている私の教会を建て直せ。」
彼は「そうします」と答えた。そして、立ち上がった。
その時だ! 歴史は動いた。
キリストはずっと待っていたのだ。彼が来るのを。
キリストはずっと待っている。あなたが来るのを。
今日も、そして明日も。

さあ、私たちも剣を捨てて、十字架に帰りましょう。

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盗まれた十字架像



2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んだそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父がインタビューに答えています。「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから。」
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

今週も大切なことを大切に。

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ゲッセマネの「我」



イエスと弟子たちは、冴えわたる満月の下、キドロン、黒い流れと呼ばれる小川を越えて、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に入ります。この道は、旧約時代、あのダビデ王が、息子であるアブシャロムのクーデターによって、都を追われ、夜逃げしたときに、泣きながら裸足で歩いた悲しみの道でした。ダビデの子であるキリストも、その夜、この道を歩まれたのです。
ヨハネが彼の視点で伝えるゲッセマネの出来事を見てみましょう。彼は、ゲッセマネにおけるイエスのあの有名な祈りを飛ばして、ただイエスの逮捕のシーンだけを伝えますが、ユダに口づけで裏切られたシーンさえも飛ばして、イエスがご自分の身に起こることを何もかもご存知で、自分を捕らえに来た者たちの前に進み出た姿を描きます。その時、イエスは言われました。「だれを捜しているのか。」イエスを捕らえに来た者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と答えられました。イエスはここで、「ナザレのイエスとは私のことです」と答えている訳ではありません。「わたしである」とは、ギリシア語の「エゴー・エイミ」で、これは出エジプト記の3章で、モーセの前に現れた神が名乗った神の名から来ています。この神の名のゆえに、イエスを捕らえるために集まって来た人々は、みな息をのんであとずさりし、ばたばたと倒れてしまいました。ローマの六百人部隊が、イエスの口から発せられた僅か二語で、将棋倒しになる光景が想像できるでしょうか。
ある人は言います。「キリストが神の子なら、どうしてあの夜、逃げることができなかったのか。彼は自分を師と仰ぎ、救い主と信じていた人たちに裏切られ、見捨てられ捕らえられたのだ。」もしイエスが意に反して、無理矢理捕まったというのなら、そうだったかも知れません。しかし、イエスは「わたしである」と言って、捕らえに来た人たちをなぎ倒し、自ら十字架に向かって進んで行かれたのです。私たちを罪から救い、永遠の命を与えるために。
ヨハネ福音書10章11節以下、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」18節、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」15章13節、「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」そうです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

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