大寺院をつくっているのさ



経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーのマネジメントから。

3人の石切り工の昔話がある。
彼らは何をしているのかと聞かれたとき、
第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。
第二の男は、つちで打つ手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。
第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。

あなたは今そこで何をしていますか。
あなたはビジョンとミッションを持っていますか。

次の日曜日は舞鶴教会でメッセージを語らせていただきます。
久しぶりの山陰での集会です。

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見て、信じた



十字架から三日の朝を迎えました。ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアという一人の女性の視点を中心に、その朝の出来事を描いています。彼女のことについては改めて紹介したいと思いますが、彼女は十字架のもとに最後まで立っていた女性たちのリストに名が残されている人物です。その彼女が、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたイエスのもとに、まだ暗いうちに、他の婦人たちよりも早く到着しました。彼女は、墓の入口を塞いでいた石が取りのけてあるのを見て、シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)のところへ走って行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません」と伝えました。そこでペトロとヨハネも、イエスが葬られた墓へ走って行きます。
ヨハネの方が早く着きました。土地勘があったからでしょうか。若かったからでしょうか。これはある意味でどうでもいい情報ですが、ヨハネはあの朝の出来事を昨日のことのように思い出しながら、リアルに記しているのです。
遅れて着いたペトロが先に墓に入りました。彼は、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。しかし、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところに置いてなく、離れたところに丸めてあった」と記されています。「亜麻布」とは、白い布を細く裂いた包帯のようなもので、これで死体を巻きました。「頭を包んでいた覆い」は、もっと幅の広い布地で、タオルか風呂敷のようなものであったと思われますが、それで頭を(顔を)覆っていたのです。
ここで「丸めて」と訳されている言葉ですが、ある聖書では「包んだままの形になっていた」と訳しています。これは、顔をくるみ胴体を巻いていたそれぞれの布が、巻いたままの状態で、首の長さだけ離れて、遺体を寝かせていた場所に残されていたという状況です。イエスの体だけがなくなり、包帯はもぬけの殻だったのです。また別の聖書は「折り目正しくたたんであった」と訳しました。これは、着ていたものを脱ぎ捨てるのではなく、亜麻布と覆いがそれぞれの場所に、きれいにたたんで置いてあったという状況です。
ペトロがその状況をまだ理解できないでいる時、先に墓に着いたもう一人の弟子(ヨハネ)も入って来て、「見て、信じた」と書かれています。イエスの体を巻いていた亜麻布が巻いたままの状態で残っていたとしても、きれいにたたんで置いてあったとしても、それは普通ではありません。何かが起こったのです。それを悟ったヨハネは信じたのです。まだすべてが理解できたわけではありませんが、信じたのです。空になった墓も、そこに残された亜麻布も、それはイエスの復活を証ししていました。

次の日曜日は、新年聖会です。豊田、岐阜、志摩の教会と合同の集会になります。

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主の園とされる



イザヤ書とヨハネによる福音書は、旧新約聖書の双璧であって、キリストの神性が見事に描き出されています。イザヤ書は66巻からなりますが、聖書が旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻から成るように、イザヤ書も39章までの前半と40章以降の後半27章に分けることができます。
40章からは非常に福音的な、新約の光、あちらこちらに見られるようになりますが、今年の標語35章も非常に福音的な箇所です。直前の34章においては、諸国の民を代表するエドムへの神の容赦ない裁きを見ますが、一転、35章では神の民にもたらされる栄光の回復が美しい賛美のように歌われています。
1節の最後の行に「野ばらの花を一面にさかせよ」とありますが、口語訳聖書で養われて来た方なら、ここは「さふらん」と訳してほしいところです。フランシスコ会訳は「水仙」と訳し、岩波訳は「百合」と訳していますので、特定することは難しいのですが、荒れ野が、荒れ地が、砂漠が、一面美しい花で彩られる光景を想像してください。これこそ、イザヤ書51章3節に、「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と歌われている光景です。
2節の後半には、「レバノン」「カルメル」「シャロン」というパレスチナ地方の地名が出てきます。レバノン山は空中高くそびえ、その頭には万年雪を冠のようにいただき、白銀に輝く姿は雄大です。このレバノン山でとれる杉の木はエルサレムの神殿建設にも用いられました。またレバノン山の雪どけの水は、ヘルモン山と共に、中東一帯を潤します。これがレバノンの栄光です。
カルメル山は、地中海に面し、森林の緑豊かな場所です。旧約聖書では、預言者エリヤによって知られる場所で、バアルの預言者と対決し、神の火を呼び下したのも、大雨を降らせたのもこの場所でした。さらにシャロンの野は百花繚乱、春が来ると野の花が一面を彩る、あたかもエデンの園のような場所です。それはいずれも筆舌に尽くしがたい神の麗しさと輝きを表しています。これがカルメルとシャロンの輝きです。
この栄光と輝きを、主は私たちに約束してくださっているのです。これはイエス・キリストの十字架のあがないがもたらす絶大な効果です。「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主にはいつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。」

今週も大切なことを大切に。

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この瞬間に自分を置く



ヨハネの黙示録は、新約聖書の最後の書であり、聖書全巻の最後にある書です。黙示録は「イエス・キリストの黙示」という言葉で始まりますが、この書の最後に改めて、「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした」と、この書を朗読する者に、この黙示の出所は私であると宣言された上で、「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と御名が示されています。
「ひこばえ」とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のことです。イザヤ書の11章にはメシアにつて、「エッサイ(ダビデの父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と預言されていますが、「ダビデのひこばえ、その一族」も同様に、ダビデ王の子孫から生まれて来るメシアのことを指しています。そればかりではなく、パウロはローマの信徒への手紙の冒頭にこう記しています。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」
さらに「明けの明星」とは、夜明け前に東の空に輝いて見える金星のことですが、イエス・キリストこそ、世界に希望の朝を告げる明けの明星なのです。世界は暗く闇に覆われていますが、やがて朝が来ます。大切なことは待つことです。
カトリックの司祭ヘンリ・ナウエンは『待ち望むということ』の中に、待ち望むことの積極性について、次のように記しています。
「私たちの多くは、待つことはとても受け身的であり、自分たちのまったく手の届かない出来事によって決定される希望なき状態であるかのように考えます。それはまるで、遅れているバスを待っているような状態です。あなたにできることは何もありません。ただじっと待つしかありません。いらだっている人が『じっと待っていなさい』と言われたらどう感じるか容易に想像できます。こうした言葉は、私たちを受身の状態に落ち込ませるかのように思えます。
しかし、こうした受け身的な人物は聖書のどこにも見当たりません。待っている人々は、とても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今依って立つ場で育ちつつあることをよく知っていました。ここに秘訣があります。
待つことの秘訣は、種はすでに蒔かれており、そこに何ごとかが始まっていると信じることです。積極的に待つとは、自分のいるところで何ごとかが起こっていることを確信しつつ、それゆえ、そこにいたいと願い、今のこの時にしっかりと自分を置くことです。待ち望む人は、今この瞬間に自分を置き、この時こそ、かけがえのない時であることを信じます。」

やがて東空に明けの明星が輝くまで、待ち続けましょう。今この瞬間に自分を置きながら。

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聖なる読書



今年もよろしくお願いいたします。
年末、中日新聞のコラムにこんなことが書かれていました。

長い迫害の歴史を持つユダヤ人の世界に、母親が子どもへ問いかける伝統のなぞなぞがあるという。「おまえが家を焼かれて、財産を奪われたとき、持って逃げるものは?」。それは色も形もにおいもないとヒントが付く。答えは「知性」だそうだ。マービン・トケイヤー著『ユダヤ処世術』に教わった。
源流を同じくすると思われる、本に関することわざの類いも数多い。例えば「旅先で故郷の人が知らない本に出合ったら、必ず持ち帰れ」「貧しい時に売るのは金、宝石、家、土地。本は売ってはならない」「本は敵にも貸さなければならない。さもないと知識の敵となる」頼れるもののない土地に離散しながら、文化を失わずに生き延びる支えの一つであっただろう。
そんな本や読書の力を思えば、気になる数字である。わが国で、一カ月に本をまったく読まない人は、49.8%にものぼるという。読書習慣に関する国立青少年教育振興機構の調査である。六年前は28.1%だったから、加速しているようでもある。世代間で傾向にさほど大きな差はないようだ。スマートフォンなどの普及により電子書籍の読者は増えているようではあるが、本離れを埋めるには程遠い。本離れ、読書離れは今に始まったことではない。知らずに、世の中から失われているものの大きさを想像してしまう。色や形がないだけに、不安である。

私は「牧師の傍ら」と言うと大袈裟ですが、出版の仕事をしていますので、気になる数字、気になる記事でした。皆さんは、いかがでしょうか。
年が改まって、デボーションガイドも新しい冊子でスタートしています。3年に1度、旧約聖書を1回、新約聖書を2回通読するためのアイテムです。今回、最初のページに、「レクチオ・ディヴィナ(聖なる読書)」というお勧めを書きました。古くから修道院で実践されてきた聖書に基づく祈りの方法で、デボーションの原型とも言われている聖書の読み方です。時間をかけて、ゆっくりと、一つ一つの単語に触るように読み、行きつ戻りつしながら、同じ箇所を何度も読むそうです。すると、聖書を読む時間が祈りになると、『目からウロコ、聖書の読み方』という本で学びました。個人的には、今年、こういう読み方にも挑戦できたらと思っています。読み方はともかく、今年もみんなで聖書通読に挑戦し、御言葉を慕い求める一年にできれば感謝です。今年も大切なことを大切に。

明日は志摩にあるテベリヤ教会の新年礼拝、日曜日は名古屋で新年最初のオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。

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最初のしるし



昨日は、年末の感謝礼拝。毎年恒例、一年の出来事を写真で振り返るPhotoMovieを見ていただき、数名の方に、一年をふり返り、ひと言ずつ報告と感謝を述べていただきました。家庭教会学校のこと、聖歌隊の福井伝道のこと、選民集会のこと、結婚と受洗10年の恵みなど。ほんとうはみんなにマイクを回して、話してほしいほどです。
大阪や石川県からも、年末、名古屋に来ていた人たちが礼拝に加わってくださったのも嬉しいことでした。
メッセージは、実習中の神学生にお願いしましたが、ヨハネによる福音書2章から御言葉をシェアしてくれました。来年は、名古屋教会献堂50周年の記念の年。その年を迎えるに当たって、一年の最後に「最初のしるし」に導かれたことに感動し、「良いぶどう酒を今まで取って置かれました」との言葉に心が震えました。来年、水がぶどう酒に変えられるような奇跡が起こることを信じます。さあ、水がめに水を満たしましょう。

2020年1月1日(水祝)、元旦礼拝は午前10時半から。
1月5日の初週礼拝は新年のオープン礼拝です。新年の祝福を共に祈りましょう。

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秘密の花園



フランシス・バーネットの『ザ・シークレット・ガーデン(秘密の花園)』という物語をご存じでしょうか。
主人公はメアリーという10歳の少女です。彼女が住んでいた町をコレラが襲い、彼女は両親を失いました。メアリーは、イギリスはヨークシャーの大富豪、叔父のミスター・クレイヴンに引き取られます。ミスター・クレイヴンの豪邸には、高い壁に囲まれた誰も入れない庭がありました。そこは亡くなったミセス・クレイヴンが愛したバラ園で、若い夫婦はいつもその美しい園で楽しい時を過ごしていたのでした。ところが、ある日、ミセス・クレイヴンがその園で亡くなりました。深い悲しみのため、ミスター・クレイヴンは園の入り口のドアを固く閉じ、鍵をかけてしまいました。それ以来、もう10年間、その園には誰も入ったことがなく、入り口がどこかわからないほど、木や草が生い茂げる所となってしまいました。ある日、メアリーが庭で遊んでいると、土の中に錆びた鍵を見つけます。彼女は不思議に思い、その鍵を試しに、園の扉の鍵穴に指し入れてみました。するとなんとその重い扉が開いたのです。しかし、園は彼女が想像していた美しい花園ではなく、荒れ放題に荒れていました。メアリーは婦人を失い、今も悲しみの中にある叔父のために、友だちと一緒に、雑草を抜き、土地を耕し、種を蒔き、ついに以前のように美しい花園を回復させたのです。そして、ある日、メアリーの愛によって、再び美しくよみがえった花園を叔父のミスター・クレイヴンが見たとき、彼の長く閉ざされ錆びついた重い心の扉もついに開かれ、癒やされていくという美しいストーリーです。
私たちの心にも神が愛された美しい園がありました。しかし、その園はアダム以来、罪によって荒れ果てた状態です。だれもが過去の失敗や過ち、その痛みや悲しみによって心を閉ざし、誰も、自分さえもそこに入れないように扉に鍵をしています。しかし、神は私の心にある園の扉を開き、再び美しい神の花園とするために、クリスマスの夜、この世界に来られたのです。
旧約聖書のイザヤ書にこんな素敵な言葉を見つけました。「わたしは・・・砂漠を花畑とする。荒野はエデンの園のように美しくなる。」(イザヤ51:3LB)神は今日も、あなたの心にある「The Secret Garden(秘密の花園)」を取り戻すために、長く閉ざされてきたその重い扉を開きたいと望んでおられるのです。イエス・キリストを信じる心、それが扉を開く鍵です。
『THE SECRET GARDEN』は今までも映画化されて来ましたが、来年新作が公開されるようです。

クリスマスに続き、新年のスタートも教会で(年末年始の集会)。

12月29日(日)10時半 年末感謝礼拝
1月1日(水)10時半 元旦礼拝
1月5日(日)10時半 新年オープン礼拝

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中心



クリスマスの中心は、ベツレヘムの馬小屋で生まれた神の子イエス・キリストです。イエス・キリストの誕生を境に、歴史は紀元前と紀元後に分かれましたので、イエス・キリストこそ、歴史の中心とも言うことができます。もちろん、聖書の中心もイエス・キリストです。
世界のベストセラーと呼ばれる『聖書』は分厚い本ですが、簡単にまとめるとこういう話しです。聖書は天地創造の物語から始まりますが、神は美しい世界を造り、最後に御自分の姿に似せて人を造られました。ところが人は罪を犯して、エデンの園から追放されます。失楽園です。神は絶対の正義ですから、罪は罪として罰しなければなりません。しかし同時に、神はどこまでも愛ですから、人が罪のうちに滅びるのを放っておくことができませんでした。ここに神のジレンマがありました。しかし、神の愛は裁きに勝りました。神はその独り子をお与えになったほどに世を愛されたのです。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためでした。そうすることで、人は失われたあの楽園を、その心に取り戻すことができるようになったのです。その楽園の回復の中心にいるのがイエス・キリストなのです。

昨日のクリスマス礼拝、聖歌隊によるキャンドルサービスと降誕劇、続いてもたれた祝賀会、その一場面一場面を思い起こし、感謝があふれてきます。正直、すべてが満点でだったのではなく、上手くいかなったところもあります。でも、みんなの一生懸命な姿が、笑顔が、やさしさがそれをカバーしました。そんなクリスマスが大好きです。
今週も大切なことを大切に。

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愛の見える化



クリスマスの神秘、神が人となられた理由について、3つお伝えします。
第1に、神が人となられたのは、父なる神を現すためです。愛の「見える化」と言うこと。イエスは言われました。「わたしと父とは一つである。「わたしを見た者は、父を見たのである」と。結局のところ、神が愛であることを現すためには、神が人となる以外に方法はなかったのです。神は、神の愛を示すために、愛を「見える化」する必要がありました。
第2に、神が人となられたのは、神に従って生きる人の模範になるためです。33年の生涯を通して、愛すること、与えること、仕えること、働くこと、祈ること、命のレッスンをしてくださったのです。あるニュース番組に、中村哲さんを慕って、いま日本で学んでいる学生が紹介されていました。彼が最初に中村さんと出会ったときのことです。事務所で、背広を着て、携帯を片手に仕事をしているのかと思ったら、事務所に中村さんの姿はありません。用水路を作っている現場に行ってもそれらしき人が見つからないのですが、よく見ると地元の人と同じ服で、誰よりも泥だらけになって働いていたのが中村さんでした。見分けがつかないほど、その土地に溶け込んでいたというのです。それは愛の見える化であり、良き模範となりました。
第3に、神が人となられたのは、私たちの弱さを知るためです。ヘブライ人への手紙4章15節、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」イエスは、マリアの子として生まれ、その生涯を通じて、貧しさも、苦しみも、悲しみも、孤独も、別離も、私たちと同じように経験してくださったので、ご自分を通して神に近づく者を救うことがおできになるのです。

次の日曜日は、クリスマス礼拝です。第一部は、聖歌隊によるキャンドルサービスと降誕劇。昼食をはさんで、第二部は、祝賀会。子どもたち、青年たちの出し物とお楽しみプログラム。クリスマス礼拝は午前11時から。家族そろってお越しください。


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天、共に在り



アフガニスタン首都カブール中心部にある保健省の塀に、今月4日に殺害された医師中村哲さんの貢献をたたえる大きな壁画が完成しました。アフガンの民族帽パコールをかぶった中村さんが日の丸を背景に、花々を咲かせた木々を見つめ、ほほ笑んでいる絵。「この土地に、わたしたちは愛の種のみをまく。愛、ただそれだけ」と書かれています。
井戸を掘る医師・中村哲さんは、1984年に現地での医療活動を開始し、病院や診療所を作りました。2000年の大干ばつ発生以降は水源確保のために、井戸を掘り、農業用水を整備し、砂漠の緑化を成功させ、アフガンの復興支援を行ってきました。
中村さんは福岡市の出身で、中学3年生のとき、日本バプテスト教会で洗礼を受けています。内村鑑三『後世への最大遺物』を読んで、「自分の将来を日本のために捧げる」という使命感を持ち、また「山上の垂訓」を暗記するほど読んでいたと言います。
自伝の『天、共に在り』というタイトルは、マタイ福音書1章23節、この季節によく開かれる御言葉から来ています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神が我々と共におられる』という意味である。」中村さんはこの「神が私たちとともにおられる」という言葉こそ「聖書の語る神髄」だと考えていたのです。

もうすぐクリスマス。今週も大切なことを大切に。

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