家から、湯気が消えようとしている。



有名なコピーライターの岩崎俊一さんをご存知ですか。トヨタ自動車の初代プリウスの「21世紀に間に合った」とか、資生堂の「美しい50代がふえると日本は変わると思う」、ミツカンの「やがて、いのちに変わるもの」など、どれも岩崎さんの言葉です。岩崎さんのエッセイ集から一文紹介します。「家から、湯気が消えようとしている。」

幸福は、ごはんが炊かれる場所にある。
これは5年前、とあるお弁当屋さんのために書いたキャッチフレーズである。これをもし50年以上前に書いていたとしたら、果たしてこのコピーは成立するだろうか。
しない、と思う。
どの家もごはんを炊いていたからだ。どの家も夕暮れになると、主婦は食事の準備に立ち、手の空いた子は風呂焚きや駅前の魚屋へのお使いを言いつかり、いそいそと家路に急ぐ父親たちは窓から流れる夕餉の匂いに出迎えられた。みんながそんなふうに力を合わせ、一日の終わりに家族が集まるための準備に熱中したのである。
今とは違い、それはどこにでもある風景で、あまりにもあたり前過ぎて、それを殊更あたたかさとか幸福感に結びつけて考える人はいなかった。
しかし、いろいろな時代を体験してきた今ならわかるが、あれは心と物のバランスがとれたいい時代だった。平和で、つつましく、食べるものに困らず、ほしいものに振り回されず、人と人、家族とガッチリ絡み合い、助け合い、喧嘩し合い、ガチンコで向き合っていた贅沢な時代だった。・・・
しかし、どんなに懐かしがろうが恋しかろうが、二度とあの時代は戻って来ない。なぜなら、僕たちはあまりにもいろんなことを知り過ぎた。過剰な情報と、うんざりするくらい便利な道具を持ち過ぎた。目の前に、味わい深いがとても手間のかかるものと、味わいは薄いが超がつくほど便利なものを見せられたら、誰だって後者に手を伸ばすだろう。・・・

そうだったなあとうなずいている方もいるでしょう。確かにそんな時代がありました。岩崎さんは「二度とあの時代は戻って来ない」と言っていますが、それではちょっと寂しい感じがします。消してはならない湯気があるからです。ところで、「湯気の立つ家に帰ろう」とは、聖書の中心的なメッセージです。家とは、あなたの帰るべき場所、あなたの居るべき場所、神の家、教会です。
放蕩息子の譬えを覚えていますか。息子の帰りを喜ぶ父は僕に命じました。「食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」そして、湯気の立つような神の家での祝宴が始まりました。

今週も大切なことを大切に。

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対話



平成最後の年の最後の聖会を終えました。静かな礼拝堂には、昨日の余韻が残っています。
2回の集会とも福音書が開かれ、テキストの簡単な解説の後、御言葉がそのまま語られる聖会でした。
私は、私に語りかけられるイエス・キリストの言葉を聞いていました。
それはイエスとの対話でした。

ある新聞のコラムで、劇作家の平田オリザさんの言葉が紹介されていたのを思い出しました。
「ディベートは、話す前と後で考えが変わったほうが負け。
ダイアローグは、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。」(平田オリザ)    
ディベート(討論)とダイアローグ(対話)の違いについて訊ねたとき、劇作家から即座に返ってきた答え。
対話は、共通の足場をもたない者のあいだで試みられる。
呼びかけと応えの愉しい交換であり、吐露と聴取の控えめな交換であり、
埋まらない溝を思い知らされたあとの沈黙の交換でもある。
討論よりおそらくはるかに難しい。

イエスは私たちと討論し、私たちを言い負かそうしているのではありません。
私たちと対話されるのです。この対話の前と後で、もし私たちが変わっていなければ、何の意味もありません。

わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。
この水を飲むものはだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。

イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」


今週も大切なことを大切に。

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独り善がり



パウロがくり返し教会の一致を叫ぶのは、教会に真実の一致がなかったからです。様々な理由があったと思いますが、その一つは独り善がりの信仰、礼拝でした。『ナルニア国ものがたり』の作者C.S.ルイスが、初めて礼拝に参加した時の体験を次のように語っています。「私は、彼らの歌っている賛美歌があまり好きになれませんでした。それは、ぱっとしない歌詞に、冴えない曲をつけたもののように思えました。けれども、時間が経つにつれて、私はその賛美歌の素晴らしい一面に気づき始めたのです。次第に、私のうぬぼれが砕かれていきました。ふと目をやると、向こう側の席にゴム長靴を履いた老人の姿が見えました。彼は、その賛美歌を心を込めて歌っていました。その姿を見たとき、私は自分が彼の長靴の汚れを拭き取る資格さえない者であることに、はっきりと気づかされたのです。共に礼拝を捧げるとき、私たちは独り善がりのプライドから救い出されるのです。」
主の言葉が心に迫ります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ゼファニア書3章3節にはこう書かれています。「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。」ここで使われている「一つとなって」という言葉は、ヘブライ語では「肩と肩をくっつけて」「肩を並べて」という意味があると教えていただいたことがあります。私たちも、独り善がりを捨てて、主の名を唱え、肩と肩をくっつけるように一つとなって主に仕え、主を礼拝しましょう。

11月になりました。いつもは第1日曜日は、新しい方のためのオープン礼拝ですが、今月は、秋の信徒聖会になっています。11月のオープン礼拝は第2日曜日です。ぜひお出かけください。

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自分の存在意義と役割



十字架の前夜、イエスは、未来信じる者たちのためにも祈られました。それはイエスを信じるすべての者が一つになるための祈りでした。パウロが書いたエフェソの信徒への手紙によれば、一つになるということが次のように表現されています。1章10節、詳訳聖書で「すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。」
「キリストにおいて一つにする」とは、もちろん教会の一致を願う祈りですが、究極的には「キリストにおいて完成する」との祈りだったのです。聖書全体がここにかかっているとするなら、アダムの罪によって、エデンの園を追放され、神と共にいることのできなくなった人類が、今やキリストの十字架によって、再び一つにされるという壮大な神の救いの計画が、キリストにおいて完成するという意味です。
パウロは、キリストと教会との関係を様々な比喩によって教えました。教会は、キリストの花嫁、神の家族、神の神殿です。そう教えるパウロが、更にこだわりを持って語るのが、教会はキリストを頭とするキリストの体というメッセージです。
パウロはその時代、小アジアやヨーロッパ各地に広がっていた教会に手紙を書き送りましたが、それは時代を越えて、今も私たちに届けられています。パウロから私たちの教会へのメッセージを聞いてください。
ローマの信徒への手紙12章5節、「私たちが話している体とは、選ばれた人々からなるキリストの体のことです。私たちはそれぞれ、自分の存在意義と役割を、キリストの体との関係の中で発見するのです。」
コリントの信徒への手紙一の12章にはキリストの体についての詳細が語られています。21節のメッセージバイブルの訳はユニークです。「目が手に向かって、『どこにでも行ってくれ。もうお前は必要ない』と言っている姿を想像できるでしょうか。あるいは、頭が足に向かって、『業務縮小につき、君を解雇する』と言うでしょうか。」
27節はリビングバイブルで、「私は次のことを言いたいのです。すなわち、あなたがたは共に、キリストという一つの体であり、一人一人がなくてはならない部分であるということです。
同じくコリントの信徒への手紙一の1章10節、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」そして、1章の最後にはこうあります。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」キリストにおいて完成する!

今週も大切なことを大切に。

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未来信じる者たちのための祈り



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、ゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、イエスは天を仰いで祈られました。ヨハネ福音書の17章全体がイエスの祈りになっていますが、イエスはまず自分のために祈り、その後、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、イエスを信じるすべての者たちのために祈られました。
20節、「また、彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉(弟子たちの祈りと宣教)によってわたしを信じる人々(未来信じるすべてのクリスチャン)のためにも、お願いします。」十字架の前夜、イエスが何と私のためにも祈ってくださっていたとは、それだけでも感動します。
弟子たちのための祈りでは、イエスは「御名によって彼らを守ってください」「彼らを聖なる者にしてください」「彼らを世に遣わしました」と祈られましたが、未来信じる者のために、イエスは何を祈られたのでしょう。それが21節以下です。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、(わたしを信じるようになる)すべての人を一つにしてください。」これが未来信じる者たちのためにイエスが祈られたことでした。この後、22節でも、23節でもくり返し「一つになる」ということが祈られています。十字架を前にして、大祭司として祈られたイエスの祈りの中心は、あの夜、イエスにとって最大の関心事は、私たちが一つになることだったのです。
エフェソの信徒への手紙には「一つになる」ということが次のように表現されています。この手紙のテーマは「教会論」です。1章の10節を詳訳聖書で見てみましょう。「すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。」
「キリストにおいて一つにする」とは、もちろん教会の一致を願う祈りですが、究極的には「キリストにおいて完成する」との祈りでもあるのです。聖書全体がここにかかっているとするなら、アダムの罪によって、エデンの園を追放され、神と共にいることのできなくなった人類が、今やキリストの十字架によって、再び一つになるという、壮大な神の救いのドラマが、キリストにおいて完成するということなのです。これが大祭司であるイエスの祈りです。祭司とは、「橋を架ける」という意味があると言われますが、イエス・キリストは神と人との断絶に橋が架けられたのです。

「キリスト教はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。御言葉に聞いてごらんなさい。」
「日々是好日」、毎日が神との出会いの好き日となりますように。

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私は、何も知らないのだ・・・



「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。・・・すぐにわからないものは、・・・何度か行ったり来たりするうちに、後になってすこしずつじわじわとわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」これはエッセイストの森下典子の『日々是好日』(お茶が教えてくれた15の幸せ)のワンフレーズです。
女優の樹木希林さんの遺作の一つということでも話題の「日々是好日」は、この本を映画化したものですが、25年お稽古を続けながら、その間に感じたこと、経験したことが綴られています。
「お茶はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。手が知っているから、手に聞いてごらんなさい。」
初めはチョロいと思っていたお茶の稽古ですが、先生の流れるようなお点前とその言葉に、目からウロコが落ちます。
「ものを習うということは、相手の前に、何も知らない『ゼロ』の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで『そんなこと簡単よ』『私はデキるわ』と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。・・・心から思った。『私は、何も知らないのだ・・・』」
茶の道には、キリスト教信仰に通じるものがあると言われますが、聖イエス会の教会には、創立者のお考えもあって、お茶室が備えられている教会が多いです。名古屋教会の客間も、水屋はありませんが、畳みに炉が切ってあってお茶が点てられるようになっています。
「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。」私たちは今、ヨハネ福音書を、行ったり来たりしながら、時間をかけて学んでいますが、ヨハネの語る福音が少しずつじわりじわりとわかってきたでしょうか。それも感謝ですが、もっと大切なことは、今日も「私は何も知らないのだ」と、ゼロになって、御言葉から信仰を習うことです。

今週も大切なことを大切に。

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あこや貝の涙



テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝で語られたメッセージの中で、「志摩と言えば真珠」と言うことから、真珠の歴史や真珠がどのようにして生み出されるかという話を聞きました。その話しを聞きながら、私はイエス・キリストが語られた譬え話を思い出していました。マタイによる福音書13章に出て来る「天国のたとえ」のひとつです。
「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、それを買うのである。」
すぐ前には、畑に隠された宝というよく似た譬えもありますが、どちらも財産をすっかり売り払って、宝を手に入れるという話しです。そのように、天国とは、どのような犠牲を払っても惜しくはない、最高の宝であると教えられる訳ですが、東京聖書学院の初代院長であった笹尾鉄三郎先生はこう言います。「この譬えを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい」と。
キリストの側からこの譬えを読めば、高価な真珠を見つけ、自分の持ち物をすべて売り払い、それを手に入れた商人こそキリストです。であるとするなら、キリストがどんな犠牲をはらっても、手に入れようとした真珠こそ、ほかではありません。それはあなたであり、私なのです。
ダイヤモンドがなかった当時、真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていました。神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかを伝えようとされたのです。
真珠の尊さはどこにあるのでしょう。真珠の成分は黒板に字を書くチョークとほとんど変わらないそうです。真珠をつぶせば、石灰の粉にしか過ぎないのです。それなのに、どうして真珠には価値があるのでしょう。真珠はあこや貝の中に入った砂や異物を、あこや貝がその液体で丁寧に包んで、その傷みをもたらすものと共に生きることによって生み出された、あこや貝の命の中から採られるものであり、その涙の結晶だから尊いのです。現代の養殖ではなく、自然の真珠は、約千個の貝の中からひとつ見つかれば良い方だったと言います。あこや貝はその傷みを7年も続け、何層にも何層にも体液でその傷みの原因を包んで一粒の真珠を生み出しました。高価な真珠とは、そんな傷や痛みによって、長い年月を経て生み出された愛の結晶だったのです。
神は私の人生に一粒の砂や異物が入ることをお許しになることがあります。私たちを傷め、苦しめ悩ませる一粒の砂、こんなものがなければと思えるような経験や出来事、失敗や過ち。しかし、神は長い時間をかけて、ご自身の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがてあなたを高価な真珠のように美しく輝かせてくださるのです。そればかりか、そんな私たちをご自分のものとするために、すべてを捨てて買い取ってくださったのです。「彼らのために、わたしは自分自身を十字架の上にささげます。」「わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。

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イエス・キリストの涙



先週の土曜日、三重県志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が持たれました。多くの方の祈りと協力に心から感謝します。ある方は、泊まりがけでチラシ配りに行ってくださいました。ある方は献金をささげてくださいました。ある方はお祝いのお花やメッセージを届けてくださいました。聖歌隊は賛美を歌いに出かけてくれました。Mさんの信友や名古屋教会ゆかりの皆さんも遠くからお祝いに駆け付けてくださいました。司牧をはじめ、中部教区ゆかりの先生方からたくさんの祝電をいただき、ほんとうに祈られ、愛されている教会だなあと思わされました。でも、一番感謝だったことは地元の方が大勢来てくださったことです。今回の記念礼拝のチラシで使った写真には、花かごに35個のバラが入っていました。Mさんはこの数だけ席が満たされるように祈り、教会の子どもたちにも「カゴがいっぱいになるように祈ってね」と声をかけていました。当日、「たくさんの人が来たね」と話していると、すかさず一人の子どもが「カゴの花より多かったよね」と言いました。Mさんの言葉を受け止め、祈ってくれていたのです。
メッセージは豊田教会の伊藤牧師が、この日のために祈り備えてくださった「イエス・キリストの涙」という印象的なテーマで語ってくださり、最後にスペインの美術館で実物を見たというエル・グレコの「十字架を背負うキリスト」という一枚の絵を紹介してくださり、大きな複製画を見せてくださいました。有名な絵なので、私も以前から知っている絵でしたが、その大きな複製画で見ると、確かにイエスの瞳に涙が光っているように見えて、感動を新たにしました。四苦八苦の人生、誰もが涙抜きでそれを語ることはできないのかも知れませんが、イエスの瞳に光る涙は、私たちの目から涙をぬぐうためのものだったと聞き、そこに集まっていたすべての人が胸を熱くしました。
ブログを読んで志摩にある小さな教会のために祈ってくださった皆さんにも感謝します。

今週も大切なことを大切に。

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井戸を隠しているからだよ。



渡辺和子先生の文章を紹介します。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子が砂漠に水を求めに行くところがあります。あてどもなく歩いてゆくと、月の光を受けて砂漠は美しい。王子が言います。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。」人間もそうです。表面に現れない「井戸」を心の奥深くに持っている時、人は美しくなります。・・・
一人ひとりが自分の存在の奥深いところに一つの「聖所」とでも呼ぶべきものを持ち、年とともにたいせつに育ててゆくということなのです。そこは他の誰にも、親にも、配偶者にも、親友にも、恋人にも踏み込ませない自分の心の部分であるとともに、どんなに愛し、信頼した人から裏切られた時にも、逃れて自分を取り戻し、自分を立て直すことのできる場所です。騒がしい人混みの中でも孤独になれる場所であり、一人でいても淋しくない所以です。体のどの部分にあるかと尋ねられて指し示すことはできないけれども、一人で生まれ、一人で死んで行かなければならない人間が、その一生の間、自分らしく生きるためにどうしても必要な「場所」なのです。

素敵な文章です。ところで、砂漠はほんとうに美しいのでしょうか。砂漠の持つ美しさもあると思いますが、砂漠は本来厳しい世界です。渇ききった不毛の世界です。でも、ほんとうに大切なことは目に見えないということを教えられます。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」と。では、その井戸は、どこにあるのでしょう。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今日、心を静め、息を整え、御名を呼びつつ主を尋ねれば、私の内に神はおられる、神はおられる。聖なる御名が泉のように、心にあふれ流れ出るまで、心の井戸を掘り下げましょう。掘り下げましょう。ここに泉は湧く。
さあ、神の約束です。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」

明日は志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念集会が持たれます。
祝福を祈りつつ。

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海嶺



愛知県知多郡の美浜町に小野浦と呼ばれる地区があります。日本で最初の和訳聖書の翻訳に協力した音吉、久吉のふるさとです。この二人に現在の名古屋市熱田区出身の岩吉が加わって、三人の「吉」ということで、「三吉」と呼ばれる若者たちによって、最初の日本語訳聖書が作られました。
経緯はこうです。天保三年(1832年)の秋、遠州沖で暴風に遭い、遭難した彼らは、難破船に乗ったまま1年2ヶ月をかけて太平洋を横断、命辛々カナダの沖合の小島に辿り着きます。やがてイギリス商船に拾われロンドンに、そしてついに日本をめざすことになりました。マカオまで戻って来た彼らは、そこでギュツラフという宣教師と出会い、聖書の和訳を手伝うことになります。そこで最初に和訳されたのが、いま私たちがシリーズで学んでいる『ヨハネによる福音書』でした。シンガポールで出版されたギュツラフ訳の聖書。「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まる1章1節は有名です。
先週の金曜日、日本聖書協会主催の聖書和訳頌徳記念式典というのが美浜町で持たれ、それに参加しました。今年は新しく建立された音吉像の除幕式があり、音吉の凛々しい姿に感動しました。音吉、久吉、岩吉の三人は、マカオで加わった四人の日本人漂流民と共に日本に向かいます。彼らが乗っていた船が歴史の授業で習うモリソン号事件のモリソン号でした。外国船の入国を認めない幕府はモリソン号を砲撃します。彼らは祖国を目の前にして、祖国に見捨てられてしまうのです。この出来事を題材にして書かれたのが、三浦綾子さんの「海嶺」で、彼らの数奇な運命をとおして、私たちをカシコイモノに導く長編です。
興味深いのは、最初に和訳された聖書箇所が、どうしてヨハネによる福音書だったのかということです。小説の中で、ある人がギュツラフに尋ねる場面があります。「なぜ、日本のためにヨハネ福音書を選ばれたのですか。マタイ伝やルカ伝の方が、訳すのが容易ではないですか。」彼は答えます。「確かにその通りかもしれません。しかし、3人と、マカオの寺院を巡った時、私は彼らがどこに行っても頭を下げることに気付いたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。私はあの『知られざる神』に手を合わせる記事を思い出しました。(使徒言行録17章に記されている出来事です。)それで私は、キリストが神であることを確実に伝えるヨハネ伝を選んだのです。」
まさにこのギュツラフの気持ちはアテネのアレオパゴスの丘で説教したパウロの心でした。パウロは言いました。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。確かにヨハネ福音書は、教会が誕生して半世紀が経ち、キリストの教えと、偽りの教えとの狭間で、どこが違うのかを明らかにするという目的を込めて書かれました。そこで何よりも先ずキリストが神であることを彼は証ししたかったのです。真っ直ぐに、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル。・・・カシコイモノ(キリスト)は神であった」と。
悩み多き人生という旅路、漂流生活もあります。思うように願うように行かない現実があります。信頼していたものから見捨てられるようなこともあるかも知れません。しかし、その旅の果てに、知られざる神ではなく、カシコイモノとの出会いがあるのです。

今週も大切なことを大切に。

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