叫び



ヨハネ福音書は、13章から舞台を最後の晩餐の席に移しますが、その前に、これまでに記してきたことを12章の最後にまとめます。まず、ヨハネは自分の言葉で、これまでを振り返り、結局、ユダヤ人はイエスの行われたしるし見ても信じることができなかったということを、イザヤの預言を引用しながら述べた後、次に44節から、イエスの言葉として、これまでを振り返っています。
「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、どこで、誰に向かって語られているかは記されていません。ですから『叫んだ』というのは、イエスが主張してきた事柄、福音の内容について、くり返し語り続けて来たこと、今もその声が響いているという意味です。ここに記されていることは、今までどこかで語られて来たことでした。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。」さらに、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」これまでくり返し主張して来られた、この後もくり返し語られる父と子の一体性ということです。
そして、46節、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」闇と光というテーマも、ヨハネが好んで用いてきたイエスのメッセージです。その叫びが聞こえてきます。「言(キリスト)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」
イエスの叫びは続きます。47節以下、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者(不信仰に留まる者)に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」この後、その理由が語られていますが、救いと裁き、命と死の境界線は、イエスが語られる神の言葉を聞いて信じるか、信じないかだということです。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな




イザヤは旧約最大の預言者、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰です。旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言しています。ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見た」と言っている、イザヤ書6章でイザヤは何を見たのでしょうか。その日、イザヤは高く天にある御座に座しておられる主の栄光を見ました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤが死にました。彼が統治した半世紀、国は非常に栄えていただけに、彼の死は国家を不安に陥れました。その年のことです。イザヤが引き寄せられるように神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされていました。そして彼は天使の賛美を聞いたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」と。ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、様々な神の性質が述べられていますが、3度くり返して使われるのは「聖」だけです。神は愛、愛、愛とはどこにも書かれていません。神は義、義、義とも、神は恵み、恵み、恵みとも書かれていません。しかし、旧新約聖書に1度ずつ(新約は黙示録の4章に)、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と連呼する礼拝の光景が描かれています。
その栄光の目の当たりにしたイザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中住む者」と。「災いだ」、英語では、Woe is me(私は災いだ)です。前のページを見ると、5章には「災いだ」と5回もくり返されていますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。「災いの原因はあなただ」と言っていたイザヤが、神の清さに触れられた時、思わずその口から漏らしたのが、「私こそ災いであった」という言葉だったのです。
イエスと共に漁に出、二層の舟が魚でいっぱいになるのを見せられたシモンは言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。偉大な使徒パウロも、晩年、神の栄光を知れば知るほど、こう言わざるを得ませんでした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです」と。
これは単なるネガティヴ広告ではありません。自分をおとしめるだけで終わらないのです。神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清めてくださったのです。祭壇とは、いけにえがささげられる場所、すなわちキリストの十字架を表す場所です。「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたのあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。まさに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、・・・イエスについて語ったのである」ということです。そして、そのとき、彼は主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と懇願される主の御声を。
この夏、これまで越えられなかった信仰の一線を乗り越えて、私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

信仰の一線



中学生のプロ棋士、藤井聡太四段が時の人になっていますが、
将棋好きという先生からこんな話しを聞きました。
あの中田重治先生の言葉だそうです。

「歩も死線を越えれば金になる。」

「歩」は前に一つずつしか進めない駒ですが、敵陣に入ると「金」なります。
「歩」の成金(と金)というのは、普通の「金」よりも価値があって、
勝敗を左右することさえあるというわけです。
私たちが、たとえ「歩」のように地味な存在であっても、
あるラインを越えると「金」になれるとすれば、それは大きな励ましです。
この夏、今まで越えられなかった信仰の一線を越え、自分を越えるなら、
敵陣ではなく、神の御心の中に入って行き、
私たちも神に用いられる存在としていただけるのです。

今週も大切なことを大切に。
今日は岐阜で祈り会です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

福音には、神の義が



1517年10月31日、ビッテンベルグの城門に95カ条の提題という、神学的な問いかけがルターによってなされました。彼は、まさかその日が宗教改革記念日になるとは考えてもいなかったでしょう。宗教改革のきっかけになった御言葉がありました。詩編31編1節の言葉です。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(口語訳)。これが、宗教改革の歴史の中で、ルターの「一点突破」と呼ばれる御言葉です。(新共同訳では「恵みの御業によってわたしを助けてください」と訳されていますが、それにも意味があります。)神の義とは、神の正義、清さであって、私たち罪人と神を隔てるものであり、その義のゆえに、私たちは裁かれ、罰せられるのですから、罪ある者にとって神の義は恐ろしいものだったのです。
ルターは、神の義が私たちを裁くのではなく、「助ける」と書かれていることに違和感を感じますが、ついにルターの研究の中心となる、ローマの信徒への手紙1章17節に目が開かれ、福音の理解は一点突破から全面展開していきます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」彼はこの途轍もない発見を、「修道院の塔の小部屋において得た」と言ったことから、これを「塔の体験」と呼びます。
そうです。イエス・キリストが、一粒の麦となり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという、この福音の中に神の義は現されました。聖書は言います。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである。」
私たちは罪人でしたが、神の目から見て正しい者、義人にしていただきました。ルターの言葉です。「キリストは十字架の上で、自分ではないもの(罪人)になられた。それは、私たちが自分ではないもの(義人)となるためであった。」
イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と。ヨハネはイエスの言葉に説明を加えます。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」ギリシア人の来訪から始まった一連の記事でしたが、ここに彼らへの答えがありました。「すべての人を」、詳訳聖書では「ユダヤ人はもちろん、異邦人も、私のところに引き寄せよう」と訳されています。イエスが十字架に上げられるとき、すべての人が十字架のもとに引き寄せられ、神の愛を体験するようになるのです。この福音にこそ、神の義は示されたのです。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

最後の人



今年はルターによるドイツにおける宗教改革から500年目の年に当たっています。二つの「R」ということが強調されていると聞きました。福音の素晴らしさを再発見(Rediscovery)し、決意も新たに再スタート(Restart)することです。今年の下半期(10月31日が宗教改革記念日)は、そのことを願いながら、宗教改革の話題をちりばめてメッセージをしたいと思っています。
宗教改革の功績の一つは、すべての人が自分の言葉で聖書が読めるようになったことです。当時はラテン語が読めなければ聖書が読めませんでした。ルターを遡ること150年前、イギリスのウィクリフという人物は、宗教改革に先駆け、聖書翻訳に着手しています。その働きから、今日も彼の名が付けられたウィクリフ聖書翻訳協会という団体があります。聖書翻訳の仕事は、骨の折れる途轍もない仕事です。例えば、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」という御言葉がありますが、日本人はこの状況を頭でイメージし、罪の赦しがどんなものかを理解できます。しかし、雪を知らないアフリカの人にはそれがわからないのです。どう訳したかというと、「綿花のように」と訳したそうです。これだとアフリカの人でもわかります。
ウィクリフの人が、これもアフリカのカレ族のために聖書を訳していた時のことです。「慰め」という言葉をどう訳するかで思案していました。そんなある日、カレ族の人が列を作り、頭に籠を載せて歩いている様子を見ましたが、最後の人だけ頭に何も載せていないことに気がつきます。どの列を見ても同じです。理由を尋ねると、「列の誰かが疲れて倒れたら、すぐにその人のところに駆け寄って、その荷物を代わりに運ぶ人が列の後ろにいる」と聞き、ウィクリフの人は、これこそ「慰め」だと言って、「最後の人(傍らに共に倒れてくれる人)」と訳したそうです。
今年の初めに、イザヤ書の52章から、「しんがりとなる神」のいうメッセージを語りました。しんがりとは、最後尾で戦いを続ける部隊のことです。その言葉には「集める」という意味がありますが、しんがりを守るとは、最後尾で戦いを続けると共に、自軍が散らかしたものをほったらかしにせず集めることです。戦場では、負傷兵や遺体を引きずってでも連れ帰らなければならないように、私たちの人生の恥も失敗も傷も、神が全部背負ってくださるというのが、しんがり、「最後の人」です。そして、その最大の業は、イザヤ53章、イエス・キリストの十字架だったのです。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

御創



昨日、今年の上半期最後の礼拝は、岐阜教会でメッセージを語らせていただきました。
以前、ブログでも紹介しましたが、新聞のコラムで読んだ「創」の話しから始めました。

「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
『十字架の黙想』の第1日に記されている聖イグナチオの「十字架に向かう祈り」を思い出します。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版では常用漢字の「傷」になりましたが、
文語版では「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
だれでもキリストの十字架の御創に接ぎ木されるなら、その人は新創造された者。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しい。

今日から京都でもたれるセミナーに参加します。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

尊い一粒の麦よ



聖イエス会の情報誌『あかしびと』で、「すばらしいクリスチャンたち」という連載が続いていますが、まもなく届く7月号に、今年は没後80年と言うことで、重利清子ちゃんのことが紹介されています。
「今年(2017年)は、重利清子ちゃん没後80周年にあたります。神を見、『平安』という言葉を遺して天に召された清子ちゃんの存在は、聖イエス会にとって『恩寵』そのものであるといえます」と書き出される文章を読みながら、聖イエス会に重利清子ちゃんを与えてくださった神に感謝の思いを新たにしました。
1929(昭和4)年、中国の瀋陽(当時の満州・奉天)で生まれた清子ちゃんは、生まれつき体が弱く、右足が不自由で、学校の行き帰りにはいつもいじめにあい、8歳にして、すでに生きることの苦しみと悲しみを味わっていましたが、教会に導かれ、聖書を通して、神の愛を知りました。1937(昭和12)年12月、風邪がもとで、床に伏していた清子ちゃんは、祈りの中で突然こう言って顔を輝かせました。「もうだいじょうぶ。清子はエス様を見たからうれしい!」と。その3日後の12月12日、「平安、平安、平安」と、3度くり返して、清子ちゃんは8歳と10カ月の生涯を終えて、愛し慕ったキリストのもとへ召されていきました。
清子ちゃんの言葉とその姿は、聖イエス会の創立者である大槻牧師を、神との出会いに導きました。そして今、御名による神との出会いの体験は、イエスを神の子メシアと信じる、私たち一人一人にも与えられているのです。大槻牧師は、清子ちゃんの葬儀に「一粒の麦」という告別説教を語り、最後にこう言っています。
「私たちは何のために選ばれ、召されたのか。それは『一粒の麦』となるためである。・・・私たちは、なぜ神の栄光を充分に現すことができないのか。それは、徹底的に自己を十字架につけて、全く死に切っていないからである。自分を捨て、十字架を負い、主に従うこれ以外に、神の栄光を拝する道は絶対にないのである。
清子ちゃんは、一粒の麦として散ったのである。・・・尊い、尊い一粒の麦よ! すでに種は地にまかれた。清子ちゃんは、清きが故に、良き種として選ばれ、神の栄光のためにまかれたのである。主は必ず、この尊い選ばれた一粒の麦を祝し、豊かな収穫を、リバイバルを与えてくださると、信じて疑わない。ああ、一粒の麦は地に落ちた。やがて春が来ると、この一粒の麦は芽を出し、多くの果を結ぶであろう。」

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ゲッセマネの祈りと主の祈り



「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されます。
この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されていないのですが、ヨハネはその代わりに、「一粒の麦」の譬えに続けて、心を騒がせ、苦悶するキリストの姿をここに描きます。
十字架の前夜、ゲッセマネの園で、血の汗を流し、もだえ、七転八倒の苦しみを経験されたイエスは、全人類の罪が盛られた杯を前に、「この杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、同時に「私の願いのままにではなく、御心のままになさってください」と祈りました。キリストは、最初の人アダムの罪から始まり、カインの殺人罪、そして、最後の人の最後の罪に至るまで、全人類の(私の、あなたの)過去、現在、そしてこれから犯すであろう罪まで、すべての罪を背負い、一粒の麦となって死んでくださったのです。
私たちは、「御心がなりますように」と祈るようにしばしば教えられますが、それは「御名の栄光を現してください」との祈りでもあるのです。そして、それはイエスが教えてくださったあの「主の祈り」そのままです。「父よ、御名が崇められますように。御心が行われますように。」このキリストの心を心とできますように。

今日は地区の先生方の集まりが持たれました。ちょうど台湾の卓枝安牧師が亡くなられて50日目、卓牧師のことを親しく聞かせていただく時が与えられ感謝でした。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

化学反応



アメリカのNASAでも働いていた韓国の科学者でキム・ヨンギルという方の証しを読みました。
彼は無神論者でしたが、神について知りたいと思い、聖書を開きヨハネによる福音書から読み始めました。最初のつまずきが、カナの婚礼の奇跡でした。彼の分析では、化学方程式がH20からC2H5OHエタノールに一瞬にして変わったということだが、元素を変化させるためには核融合が必要で、それは常温では起こり得ない。その後も、科学者目線での分析を続けますが、奥様やNASAで働く多くのクリスチャンたちの祈りによって、ついに彼も神のシントロピーを体験し、キリストを信じます。(シントロピーとはエントロピーの反対で、無秩序な状態から秩序ある状態への転換を言います。)それこそ水がぶどう酒に換えられるにも優る奇跡でした。聖会の恵みを噛みしめています。常温では起こりえない核融合、御言葉による化学反応が、私のうちにも起こりますように。

先日、聖会に来ていただいた竹内牧師は京都府の北部・綾部市にある教会の牧師ですが、次の日曜日はそちらの教会で、チェンバロコンサートが催されます。お近くの方がありましたら、ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

慰め主



ペンテコステの恵みに満ちた聖会を導いていただきました。新しく導かれている方々も、御名を呼びたくなるようなメッセージと証しで、祈りを受けながら、涙をぬぐっていました。御名を崇めながら、聖霊が心に深くしみ込みますように。
聖会前、今回の聖会のために祈っていると、聖霊が「慰め主」と呼ばれていることに目が開かれました。私たちが使っている聖書では、「弁護者」と訳され、多くの日本語の聖書で「助け主」と訳されている言葉です。詳訳聖書はさすがに超詳しいです。「しかし、慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉、すなわち、父が私の名によって〈私の代わりに、私を代表し、私に代わって働くために〉つかわされる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教えてくださる。また彼は私があなたたちに語った事をことごとく思い起こさせ〈思い出させ、記憶によみがえらせ〉てくださる。」イエス・キリストが「私の代わりにつかわされる聖霊」と言っているお方は、「慰め主」です。単に、可愛そうだねと言って同情するだけではありません。聖書学者のバークレーによれが、ラテン語の「フォルティス」は落胆している人に再び勇気を与える慰めと言う意味だと解説されていました。慰め主は、助言者であり、助け主であり、執りなす者、弁護者、激励者、援助者ですから、勇気をもたらす慰めが与えられるのです。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍に引き寄せ、抱きかかえてくれる存在という意味です。英語で慰めを「comforter」、掛け布団と呼ぶのはそのためかも知れません。今週も慰め主である聖霊が共にいてくださいます。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me