神殿で

シメオンが聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきたとき・・・。ルカ2の27

今年最後となる木曜日の祈祷会。春からエリザベットの「いのちの泉へ」を学んできた。彼女は私たちの心の神殿に住まわれる主との濃厚な交わりを語り続ける。今日は待降節ということで、神殿で幼な子イエスと出会った老シメオンの記事が開かれた。イエスの時代、ヘロデ王による第二神殿の再建が進んでいた。そんな工事中の神殿、売り買いする者が行き交う雑踏の中、まだあどけない母に抱かれてひとりの男の子がやって来た。シメオンは聖霊の導きにより、それが救い主であることに気づいた。彼は母マリアから幼な子を受け取り、その胸に抱き、神への賛美を歌う。その腕の中に抱いた赤ちゃんの匂い。手や足の動き。息遣いを感じながら。それが有名なシメオン賛歌だ。
不完全な私たちは工事中の神殿だろうか。あれもこれもと、しないといけないことが山積で、混乱している私たちは雑踏に立っているだろうか。しかし、そんな場所にキリストは来られたのだ。思いがけない姿で。私たちはほんとうに気がついているだろうか。その方に・・・。

来週の祈祷会は、24日(水)のイヴ礼拝に合流します。25日(木)はテベリヤ教会のクリスマス祝賀会です。教会での祝賀会は午前11時から。続いて、午後3時から志摩病院でクリスマス・コンサート、午後5時から鵜方児童館でクリスマス親子の集いがもたれます。お近くの方、ぜひお出掛けください。

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全く一つ

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。---歴代志下16の9新改訳

今日の祈祷会は「その心が主と全く一つになっている人」とのテーマで、お勧めをいただきました。マリアがそうであったように、私たちも私たちの時代に成就されるべき主のご計画、その主のみ思いと全く一つになれますようにと祈りました。

クリスマスの集会も後半戦に入っていきます。多くの方に、クリスマスの感動と喜びをお届けしたいです。先週の日曜日に、近くにお住まいの男性の方が、チラシを見たと言って礼拝においでになりました。何度か教会の前まで来たことがあるそうですが、結局は中に入れないで帰って行かれたそうです。「今日は入れました」と嬉しそうに話してくださり、感謝でした。世界同時不況と言われるシビアな年の瀬、笑えないクリスマスを迎えようとしている方も多いと思いますが、クリスマスだけでも幸せな気持ちになっていただければ嬉しいです。今年のクリスマスはぜひ教会でお過ごしください。ご来会をお待ちしております。

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荒れ野に

desert
それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。
そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。
---ホセア2の16〜17

今週の祈祷会も「いのちの泉へ」から学びました。
私の修行(クリスチャン生活)のすべては、心の深みにわけ入り、そこにおられる方のうちに姿を隠すことです。この四旬節には、神の尽きることのない愛の中でお会いしましょう。四旬節をキリストとともに孤独の深みを生きる砂漠(荒れ野)といたしましょう。この孤独においてこそ、主は心に語りかけられるのですから。

本には四旬節と書かれていますが、待降節と置き換えてもよいでしょう。この待降節、私たちへの愛のために、独り貧しく人となりこの世界においでになられたキリストを、私たちもただ独りとなり、静かに礼拝いたしましょう。独りである方ととともにただ独り・・・。主が心に語りかけられるまで。希望の門が開かれるまで。

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大好き

神の現存とは何とすばらしいことでしょう。心の深み、心の天国で主とお会いするのが大好きです。主は決してそこを離れられません。「神は私のうちに、私は神のうちに」―これこそ私の生命です。---「いのちの泉へ」

週の半ばに祭壇の前で共に祈るひと時は私たちの大きな力です。イエスが人里離れたところに退いて祈られたように、私たちもこの世の喧騒からしばし離れ、祈りに専念したいです。今日も「いのちの泉へ」から学びました。カトリックの書物ですが、福音の豊かさ、深さを味わっています。「神は私のうちに、私は神のうちに」とは、この本の中心的なメッセージですが、これはエリザベットがひどい骨膜炎で、教会に行くことのできなかった時に友人に書いた手紙の一節ということです。さて、あなたは何をする時間が好きですか? 心の家で主と過ごす時間が大好きですと、答えられるようになりたいですね。

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これである

footprints
人よ、何が善であり、
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
---ミカ書9の8

今週は寒い日が続いていますが、祈祷会で信徒の皆さんと熱く祈ることができ感謝でした。今日も「いのちの泉へ」よりお勧めをいただきました。
私たちがだれと共にいるかを知っていますか。私たちはだれと一緒に歩いているかを知っていますか。それがわかれば生き方が、歩き方が変わるでしょう。「へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

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神の住まい


あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。---コリント一6の19

「あなたは神の住まいである」という聖パウロの言葉を考えてみてください。聖三位は一日中、昼も夜もあなたのうちに住んでおられます。・・・天国ですでに光栄にあずかっている人々が拝している神はあなたの心のうちにおられます。・・・私たちは決してひとりぼっちでないのです。・・・私たちさえ離れていかないならご自分からは決して離れられない神と私たちはともにあるのです。---「いのちの泉へ」より

今日の祈祷会も宣教大会の恵みの余韻が漂うような感謝な集会でした。集会を担当してくださった先生が、あの日書いた皆さんの感想を上手にまとめて、まるでひとりの人の証のように紹介してくださり、感動を新たにしました。

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ただ中にある


私は地上に天国を見つけました。天国とは神のことで、神は私のうちに住んでおられます。このことを悟ってから、私にはすべてがはっきりしました。それで、私の愛する人々にこの秘密を知らせたいと思います。すでに神と共にあるのですから、天国はこの地上ではじまっているのです。---エリザベット「いのちの泉へ」

神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。---ルカ17の21

今日の祈祷会は宣教大会のために祈り込みました。神様を求めている一人一人が、地上に天国を見つけることができますように。御心が天において100パーセント成就しているように、宣教大会においても成りますように。

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愛には愛をもって

crossroads
わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。---コリントの信徒への手紙二5の13〜15

今日の祈祷会は秋期聖会から、「愛には愛をもって」を学びました。

人生の十字路に立つあなたへ。 Where will you spend your eternity ?
あなたは一体、永遠というものを何処で過ごすつもりですか?

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主イエスの名のためなら

JERUSALEM
わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。---使徒行伝21の13口語

今日の祈祷会は秋期聖会から、「主イエスの名のためなら」を学びました。メッセージの最後に語られ、また黎明合唱団によって歌われた「イェルシャライム」の歌詞が心に響きました。

灼熱のような愛が
わたしの心を駆り立て
シオンに向かわせる

ああ!エルサレム! 
ああ!エルサレム!

シオンへの激しい思慕が 
わたしの狂気にする 
すさまじい愛
・・・・・・
さあ!選ばれし民らよ!
主に帰ろう。

主はふつかの後 
わたしたちを生かし
三日目に立たせられる
わたしたちは 
み前で生きる
主はあしたの光のように 
必ず現れいで
冬の雨のように 
わたしたちに臨み
春の雨のように 
よみがえらせてくださる

わたしたちは主と出会うために
主の名を呼ぼう!

---「イェルシャライム」 by Takeji Ohtsuki

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パウロから学ぶ

実るほど頭を垂れる稲穂かな
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。---フィリピの信徒への手紙2の6〜8

今日の祈祷会から、京都秋期聖会のメッセージを学んでいきます。順番は前後しますが、今日は第二集会で語られた「パウロから学ぶ。謙遜、御名、十字架」のメッセージ。「謙遜であれ。モーセはこの地上の中でだれよりも謙遜であった。主がお用いになるのは謙遜な人、自分を求めない潔白無垢な人である。」大槻先生の遺言書の一節が心に響きました。
聖会前のこと、来年のデボーションガイドの執筆に追われていました。今回の担当は列王記下の最初の部分でしたが、心高ぶり失敗をくり返すユダとイスラエルの王たちの姿が描かれていました。行間から、「謙遜になるように」とのメッセージが語られいるように感じました。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ですね。

「互いに謙遜を身に付けなさい。なぜなら、『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
---ペトロの手紙ー5の5〜7

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