毎日がペンテコステ



ペンテコステには教会員が一丸となってその祝福を求めるでしょう。
しかし、キリストの教会にとって、ペンテコステは毎日のものでなければなりません。
毎日がペンテコステでなければなりません。(アンドリュー・マーレー)

朝、礼拝堂に聖会の余韻が残っているのを感じました。
教会は使徒行伝のごとく。「使徒らの歩みを継がせたまえ」と祈りつつ。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

聖書は説教されることを待っている



説教について、月曜日の続きです。

現代日本の礼拝説教が力を失い、それゆえ教会が力を失っているとするなら、それは、私たち説教者がいつの間にか、あまりにも「賢く」あろうとしているからなのではないだろうか。学者のような、零細企業の経営者のような、社会事業家のような、あるいは小さな教祖のような賢い立ち居振る舞いを身に付け、説教の「愚かさ」に徹することを忘れてしまっているからではないだろうか。
「説教力」は、説教者の賢さからは訪れない。それは御言葉そのものの力から訪れるのだ。
しかしそのことは、自分の説教の貧しさにあぐらをかいていればよいということではない。また「現代の礼拝の問題は、説教に重きが置かれすぎていることになる」とうそぶいて責任放棄すればよいということでもない。聖書は礼拝において説教されることを待っている。神は今も教会を通して、この時代に向かって話をしたがっておられる。私たち説教者は、その神のわざに仕える栄光な務めに召し出されているのである。
説教。それは、私たちが選んだのではなく、神が選んだ救いの手段である。
主イエスが説教を開始されたのは、洗礼者ヨハネが捕らえられた直後のことであった。闇の力が勝ち誇る中、説教の言葉をもって人間を取り戻す戦いを開始されたのである。「時は満ち、神の国は近づいた」。私たちもまた、人間を喪失させる時代の霊に、言葉をもって立ち向かう戦いを受け継いでいる。
この日本には、9000を越える教会・伝道所があるという。たとえそれぞれの群れは小さくても、日曜日ごとに、9000人の牧師・神父・信徒たちが説教を続けている。その数は、エリヤに約束された「バアルにひざまずかない7千人」(列王上19:18)よりもはるかに多い。そのひとりひとりが、まるで初めて説教するかのように、御言葉の力に打ち負かされて語り始めるとき、必ず教会は新たにされるだろう。
Ministry2010 vol.4「説教力を磨く」より

今日は真夏日です。この季節がやって来ました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

イミタチオ・クリスティ



今日は、朝日新聞の「折々のことば」から。

imitatio Christi (トマス・ア・ケンピス)

イミタチオ・クリスティ。「キリストの模倣」を意味するラテン語で、「キリストに倣いて」と訳されてきた。
イミテーションといえば、今では偽物、紛い物という含意が強いが、元は、「あんなふうになりたい」「あやかりたい」という憧れに発する行為。日本語でも倣いは習いに通じる。「まなび」は「まねび」から始まる。道徳の基礎もたぶんここにある。15世紀オランダの修道士が生涯、心の糧としたことば。(2017年10月12日)

次の日曜日は11月のオープン礼拝です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

仕事



キング牧師が暗殺される半年ほど前に、フィラデルフィアで中学生に話しました。

もしあなたが道路を掃除する仕事に召されたのなら、
ミケランジェロが名画を描いたときのように、
ベートーベンが名曲を作曲したときのように、
シェークスピアがすばらしい詩を書いたときのように、
道路掃除をしなさい。
その仕事があまりにもすばらしいので、
天と地に住むすべての者たちが立ち止まってこう叫ぶようにしなさい。
「自分の仕事を忠実に成し遂げるすばらしい道路掃除夫がここにいる。」

今日も自分に与えられた仕事を誇りを持って、忠実に果たそう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

恵老の日



敬老の日、おめでとうございます。

敬老の日は、1947年に兵庫県の小さな村で制定された「としよりの日」に由来しているとか。
お年寄りに対する尊敬の気持ちを大切にし、長寿を祝うことは聖書の教えでもあります。
敬うの代わりに恵みと書くと「恵老の日」になります。
老いを敬うのが敬老の日ですが、
生かされていることを感謝し、神の守りと祝福を覚えながら、
老いの恵みを祝うのが「恵老の日」であるという話しを聞き、うなずかされました。
高齢化社会と言われますが、敬老の日も、恵老の日も大切にしたいものです。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

我らは四人であった



今回の葬儀で紹介した内村鑑三先生の言葉から。19歳の長女ルツ子さんを天に送った後に書いたという短い詩です。

我らは四人であった。
しかして今なお四人である。
戸籍帳簿に一人の名は消え
四角の食台の一方はむなしく
四部合唱の一部は欠けて
讃美の調子は乱されしといえども
しかも我らは今なお四人である。

我らは今なお四人である。
地の帳簿に一人の名は消えて
天の記録に一人の名はふえた。
三度の食事に空席はできたが
残る三人はより親しくなった。
彼女は今なお我らのうちにいる。
一人は三人を縛る愛の絆となった。

しかし我らはいつまでもかくあるのではない。
我らは後に又前の如く四人になるのである。
神のラッパの鳴り響く時
寝れる者が皆起き上がる時
主が再びこの地にきたり給う時
新しきエルサレムが天より降る時
我らは再び四人になるのである。

四人とは内村先生の家族構成を示しますが、私たちも先に天に召された方々に想いを馳せるとき、かつて一緒に過ごした人数を入れて読むことができます。内村先生は長女の眠る墓地のひと握りの土をつかんで「ルツ子さん、万歳」と叫んだと言います。それはやせ我慢でも強がりでも現実逃避でもなく、彼の信仰でした。
「わが国籍は天にある。」また会う日まで。

次の日曜日は6月のオープン礼拝になります。ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

主の足もとに座り



昨日は、教会の婦人会(マリア会)のミニ修養会が半日のプログラムで持たれ、短いプログラムでしたが、参加されたみなさんが恵まれた顔で帰って行かれ感謝でした。
「マリアは良い方を選んだ」とのテーマで、私たちの継続仲代である日々のクリスチャン生活の底上げについて、聖書が示すマリアの姿から三つのことを教えていただきました。第一に、ルカ福音書の10章から、「マリアは主の足もとに座って」。主の足もとに座るとは、神との一致の生活。神の御顔を毎瞬間仰ぎ続ける霊的生活のことです。第二に、同じくルカ福音書の10章から、「その話に聞き入っていた」。これは御言葉に仕える生活。御言葉をむさぼり食べ、御言葉に生き、生かされる生活。第三に、マルコ福音書の14章から、「香油を・・・注ぎかけた」。これは神の御心、御計画を実現するために、全存在を主にささげ、自分のできるかぎりのことをする献身生活。この三つがマリアの選んだ「良い方」であり、彼女から取り去ってはならないと言われているものでした。
今週も主の足もとにとどまることを第一にできますように。今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top



プロは道具を大切にする。音楽家には楽器。料理人には鍋や包丁。イチローの活躍の背後にも、彼のバットを20年近く作り続けてきた専門職人がいるそうだ。多くの説教家にとっての道具。それは辞書であり、さまざまな書物であり、パソコンであり・・・・・・。しかし、多くの場合、あまりに身近すぎて気づかれず、ぞんざいな扱いを受けている道具がある。それは「声」である。・・・
「声」についての説教者必読書は、今なお竹内敏晴の『ことばがひら劈かれるとき』である。彼は言う。

「話しかけるということは、こえで相手のからだにふれること、相手とじかに向かいあい、一つになることにほかならない。・・・話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。・・・話しことばは、まずなによりも他者への働きかけです。相手に届かせ、相手を変えること。・・・たんなる感情や意見の表出ではない。・・・われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力、それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。」

声は、説教原稿の文字を業務的に読み上げる道具ではない。説教者は肉体をもって、会衆の前に立つ。そして、福音に突き動かされ、肉体から湧き起こる声をもって、しかも福音の光の中で、ある願いを抱きつつ、声で聴き手にふれるのである。説教者は、その声をもって、相手を変えようとする。自分に起こった変化が、聴き手にも起こることを願いながら。
そして、その言葉が相手に届く瞬間、聴き手は動く。礼拝堂の空気が震える。


『説教を知るキーワード』という本を読んで、教えられることが多かった。使徒言行録の2章のペンテコステの朝の説教のように、聴く人のからだに触れるような声で説教ができるように祈る。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。・・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」アーメン。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

十字架とキリスト像



教会暦では次の日曜日が棕櫚の聖日で、その日からキリストの最後の一週間(受難週)が始まります。こんな話しを読みました。
2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んで行ったそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父は「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから」と語ったそうです。
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。キリストは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

3月25日(日)棕櫚の聖日の礼拝・聖餐式。
4月1日(日)4月のオープン礼拝はイースター礼拝。進級式。礼拝に続き春の召天者記念礼拝。
教会学校のお楽しみ会も計画されています。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

イエスの御名は薬です



聖イエス会は、勤労感謝の日である11月23日を「健康感謝の日」と定め、一年の働きと健康を神に感謝します。アメリカやカナダでも、この時期に「収穫感謝祭(Thanksgiving)」が祝われます。清教徒たちがアメリカに渡り、最初の大地のみのりを神にささげたことが始まりだそうです。忙しい師走を迎える前に、一年をふり返り、神に感謝することは大切なことではないでしょうか。
12世紀のフランスに、クレルボーのベルナルドという聖人がいました。彼は「雅歌について説教」の中で、「イエスの御名は薬である」と教えています。日本は世界の製薬市場の4割を占めるというデータもあるようですが、ベルナルドが教える良薬とはどのようなものなのでしょうか。クレルボーの修院長の味わい深い文章です。

イエスの御名は薬でもあります。あなたたちのだれが悲しんでいるのですか。心のうちにイエスが入って来て、その口に出ますように。そうすれば、御名の光りが発するやいなや、すべての雲が消え、晴天が戻るのです。だれかが罪のうちに落ち込んでいるのですか。あるいは、それ以上に死の穴に絶望して落ち込もうとしているのですか。もしいのちの御名を呼ぶなら、すぐにいのちへと息を吹き返させられるのではないでしょうか。心のかなくなさ、惰弱の眠り、霊魂の恨み、不熱心の無気力が、救いの御名を前にして消えたのではなかったでしょうか。涙の泉がたとえ乾いていたとしても、イエスを呼び奉ることによって、急により豊かな涙があふれ出、より甘美に流れたのではなかったでしょうか。危険におびえ、震えている者で、力強い御名を呼んでただちに確信を与えられ、恐れを遠ざけられなかった者がいるでしょうか。疑いのうちに苛立ち、動揺していた者で、晴朗な御名を呼んで、たちまち確かさが輝き出なかった者があったかと私は尋ねます。逆境において自信を失い、あるいはすでに落胆していた者で、助けの御名が鳴り響いても、力がなかった者があったでしょうか。疑いもなくこれらは霊魂の病気と衰弱なのですが、イエスの御名は薬です。・・・
何ものもイエスの御名以外に怒りの激しさを抑え、傲慢のはれ物をへこませ、蒼白の傷を治し、邪淫の流れを制御し、欲望の炎を消し、貪欲の渇きをやわらげ、また、すべての焦りを追い払うものはありません。もし、私がイエスの御名を呼ぶならば、私は心の柔和で謙遜なお方、親切で、節度ある、純粋で、あわれみ深い、そして、結局すべての誠実さと聖性とにおいてきわだったお方、すなわち、その模範によって私を癒し、助けによって強めてくださる全能の主ご自身を私の前に置くのです。イエスの御名が響くや否やこれらのすべてが、同時に私に鳴り響くのです。こうして、私は人間イエスから模範を、権能を持ったお方から助けを受け取るのです。
(雅歌についての説教、第15説教、いかにイエスの御名がキリスト信者にとってあらゆる逆境においていやしの薬であるか。)

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me