神の悲愛の息吹き



ある祈りの本から。

祈りと聖霊には深い関係があります。
聖霊。ギリシア語ではプニューマ。「風」とも「息」とも訳すことのできる味わい深い言葉です。
井上洋治神父は、「聖霊」を「神の悲愛の息吹き」と訳しました。
神が、悲しむまでも愛をもって、わたしたちに息吹を注いでくださっている、それが聖霊だというのです。
何というイメージ豊かな言葉でしょう。祈りの声を出すために息を吸い込むそのとき、わたしたちは神の息を吸い込んでいるのです。そして、祈りの声を出すそのとき、神の息と自分の息をひとつにしながら吐き出しているのです。
カトリック教会の伝統のなかには、一日のあいだ、幾度も同じ祈りの言葉を繰り返しながら生活する知恵があるそうです。「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」という短い祈りです(主よ、あわれみを、キリストよ、あわれみを、という意味です。)吸う息で「キリエ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。そして再び吸う息で「クリステ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。この伝統的な祈りは「キリエ」と呼ばれています。・・・
祈りは、手を組み、目を閉じ、頭を垂れて、という決まった姿勢で祈らなければならないものではありません。目を開いたまま、道を歩きながら、仕事をしながら、あるいは、満員電車のなかでも台所でも、祈ることはできます。そこにも「神の悲愛の息吹き」「神から来る風」が吹いているからです。

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むなしい器



秋の教区聖会の感動が礼拝堂に残っています。神の子の声が響き、いのちにあふれました聖会でした。
聖会の備えに用いられた「三無一体」の勧めと「むなしい器」というルターの祈りがあります。
いずれも自分が神の前にどのような存在であるかを問いかけ、その向こうにある神の恵みを求めています。

ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。
わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。
わたしの信仰は弱いのです。どうか、強くしてください。
わたしの愛は冷え切っています。
わたしをあたため、わたしを熱し、
わたしの愛が隣人に届くようにしてください。
わたしには強く堅固な信仰が欠けています。
ときとして、わたしは疑い、
あなたをひたむきに信頼することができません。
ああ、主よ、どうか助けてください。
わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。
わたしはあなたのうちに、わたしがもつ宝のすべてを置いています。
わたしは貧しく、あなたは富んでおられ、
貧しい者に対して恵み深くあられる方。
わたしは罪人であり、あなたは正しく、
わたしは罪にまみれ、あなたのうちには義が満ちあふれています。
ですからわたしはあなたとともにいたいのです。
わたしはあなたからいただくばかり、
あなたに差し上げるものはなにひとつありません。アーメン

宗教改革500年、改革者の祈りに心を合わせます。
今週も大切なことを大切に。

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私を変えた聖書



作家の三浦綾子さんが、『わが青春に出会った本』の中で、最後に『聖書』を取り上げ、「ここでひとこと断っておかねばならない重要なことがある」と、この本をまとめておられます。以下、三浦さんの言葉です。
「それは、私にとって聖書は、他の本と同列に置くことのできない書物だということである。私は(ヘッセの)『デミアン』だの、(ジイドの)『田園交響楽』だの、(漱石の)『三四郎』だのを紹介してきたが、これらの本の一冊として、この聖書があるのではない。これらの本は私の人生にとって、正に出会いとも言うべき性質を持ってはいるが、しかしこれらの本に出会わなければ、私の一生はちがっていたというわけではない。極端にいうと、どの本に出会わなくても、聖書に出会ったことで、私の人生は変わったと言える。聖書は、虚無的で絶望的な生活を送っていた私を、真の実在であるキリストの神の前に引き出してくれた。
キリストの愛が、私の罪を知らしめ、十字架のあがないによらなければ、私の罪は赦されないことを教えてくれた。そして、キリストが死んで三日目に甦ったことを知った。・・・虚無と絶望の日々は嘘のように過ぎ去り、・・・希望と平和の中に生きることができた。
このように私を変えたのは、聖書による信仰である。聖書のみが私に真の力を与えた本である。・・・私を変えたこの聖書が、多くの方の人生を、闇から光へ、不安から平安へ、絶望から希望へ変えてくれることを確信して、短い紹介を終えることにしたい。」
英語でThe Book(この本)と言えば、それは聖書のことです。本の中の本である聖書について、こんな話しを聞きました。「本」という漢字を逆さにすると何に見えるかというのです。創造できますか。まるで開いた本の真ん中に十字架が立っているように見えないでしょうか。聖書を開くと、そこに十字架が見えてくる、それは真理です。この真理が私たちを自由にするのです。

「灯火親しむべし」と言われますが、読書の秋に、聖書をじっくり、たっぷり読みたいものです。

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中心に方向をとる



「教会が本当に新しくされるのは、
すべて聖書の中でわれわれに語られる神の言葉を新しく聞くことに基づく。
・・・教会は新たにされることの必要と、
そしてまた新たにされるということの意味を発見する」と。
言い換えれば、「教会が新しくなるとは古くなること」であると言える。
五旬節の日に聖霊が注がれたことで教会が誕生したのであるから、
その原点に立って教会を見直し、刷新していただかなければならない。
ルターの宗教改革でも、ウエスレーの聖化運動でも聖書に帰る、
福音に帰ることから刷新が始まった。
「中心に方向をとるということ」が、
いつの時代にも教会に命を与える偉大な力であったし、
今もまたそうである。
この中心に方向をとることが源泉に帰ることなのだ。
このことを考えるとき、聖霊の働きを忘れてはならない。
聖書は聖霊を通してより以外に新たにされることはないことを
きわめて明白に教えているのだから。

昨日は豊中の教会でメッセージを語らせていただきました。
悪天候の中でしたが、皆さん熱心に集まって来られ恵まれた聖会になりました。
「ラザロ、出て来なさい」との神の子の声が響く、いのちにあふれた集会となりました。

今週も大切なことを大切に。

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灯火親しむべし



「読書の秋」と言われますが、どうして、秋と読書が結びついたかというと、古代中国の文人・韓愈(かんゆ)が詠んだ「時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒」という詩から来ていると言われています。「降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘の上では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適している季節です」ということですが、この「符読書城南(符 書を城南に読む)」という詩は、韓愈が息子の符(ふ)に、勉学を勧めたものと言われています。
灯火親しむべし。この秋、私たちも聖書に親しみ、このよいほんの言葉の内側に入り込み、私たちの人生を変え、歴史を動かすことさえできる一つの言葉と出会えますように。さあ、聖書に帰りましょう。

聖イエス会では、『あかしびと』の連載でも紹介しましたが、『デボーションガイド』と『日々の御言葉』という、聖書通読の手引きを作っています。只今、来年の『デボーションガイド』の原稿の校閲中です。『デボーションガイド』は3年サイクルで、旧約聖書1回、新約聖書2回を通読できますが、今年で2サイクル目が終了し、来年から3サイクル目に入ります。装いも新たに新シーズンがスタートしますので、ぜひご利用ください。

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車のハンドル



「早起きクリスチャンの祝福」という本にこんなことが書かれていました。

聖日説教の時間にみことばを聞くだけでは、神様のみことばと私の人生を結びつけることができない。神様は聖書を通して、ご自身のことだけでなく、人間の存在のすべてのことについて語っておられる。ある面では、聖書は神様が造られた「人間」という存在に対する説明書のようなものだ。だから、聖書を理解するということは、私たちの人生に対する総体的な報告書に出会うようなものだ。
人生、どこに向かっていけばいいのかわからない人がいるなら、今からでも聖書を学んでみてほしい。・・・学んでいるうちに、聖書の感動によって神様という存在が胸に迫ってくる瞬間があるだろう。神様のみことばが、車のハンドルのように、人生を導いてくれる瞬間があるだろう。


昨日は、兵庫県の宍粟市にあるペテロ教会でメッセージを語らせていただきました。
祈りの積まれた聖会で、キリストを心に迎えられた方もあり、小さな教会に大きな喜びが与えられました。
与えられた一つ一つの出会いに感謝しています。
今週も大切なことを大切に。

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鐘と撞木の相が鳴る



禅問答か江戸の小咄か。
こんなやりとりがある。

「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか。」

答えは

「 鐘と撞木の相が鳴る。」

撞木とは、鐘を鳴らすバチのこと、
鐘も撞木も、それだけでは音を鳴らせない。
でも二つのものが出会う瞬間、音が生まれる。
「相が鳴る」は「愛が成る」に引っ掛けた言葉遊びだろうか。
愛がなければ、鐘も撞木も、何の役にも立たない。
愛は二つのものを生かす出会い。

聖会のメッセージを聞きながら、
神の御業は起こるべくして起こると教えられた。
神と私たちの思いが一つとなる瞬間を待ち望もう。
徹底的に準備しよう。深い飢え渇きをもって。
相が鳴るまで。愛が成るまで。
これが原点、常に帰るべき所。

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明日は9月19日



彼女は、献身の第一歩を踏み出したあの夜、心の中で言った。
「たとえ私の生涯が惨めに終わっても悔いはありません。私は神のことばに従ったのですから。」
そして、その生涯の終わりに彼女は語った。
「すばらしい人生でした。悔いはありません。イエス様、ありがとうございました。」
それによって、彼女は「イエスと一緒にいた者」であることをみごとに証しした。
私たちもそのような生涯を全うさせていただければと願う。

恵まれた京都での聖会を終え、明日は9月19日、大槻筆子先生の記念日です。
今週も大切なことを大切に。

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クリスチャンの仕事



「クリスチャンの仕事は祈ることである」とマルチン・ルターは言いました。ユダヤ人の子どもたちはみな仕事を身に付けなければなりません。イエス・キリストも二つの仕事を身に付けられました。大工の仕事と祈りの仕事です。そのうちの一つは地上のことのために役に立ちました。もう一方は、聖なる、崇高な目的のために役立ちました。イエスはユダヤ人の習慣に自らを当てはめ、少年のときには大工の仕事をされました。また主は、幼いときから神の法則に自らを当てはめ、祈りの仕事をされました。それは最後まで続きました。
キリストはクリスチャンの模範です。すべてのクリスチャンは主に倣うべきです。すべての説教者は主のようであるべきです。祈りの仕事を学ばなければなりません。祈りの仕事をよく学ぶ者は、クリスチャンとしての熟練の秘訣を学び取り、神の仕事において恥じることのない有能な働き手、主と共にある働き手となります。
「絶えず祈りなさい」ということばは、今の時代の説教者に対する呼びかけです。もし説教者が、思想を祈りの雰囲気によっって装い、膝を折って説教を準備するならば、神の御霊の恵みが地上に注がれるだろうと思います。
ーーー『祈りは奉仕を生かす』E.M.バウンズ

今週は、霊的生活を立て直すための祈りのセミナーに参加させていただき、たくさんの恵みをいただきました。
バウンズの本は、どれもすごいです。祈りの人となれますように。

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暖かさ



木曜日であった。空はねずみ色であった。・・・
神父は私に声をかけてくれた。ぼたん雪が降っていた。

「あなたは少年時代から、キリスト者の生活の目的とは何かということを探し求めてきた。・・・
今、あなたにその真の目的を教えてあげる。・・・
キリスト者の生活の真の目的は、聖霊を獲得することである。・・・」
その時、セラフィーム神父は私の肩を固くつかんで、言った。
「我々は聖霊の充満の中に居る。・・・」
セラフィーム神父は聞いた。「今、何を感じるか」
「最高に『良い』気分です。」 
「また、何を感じるか。」
「不思議な甘美さを。」
「また、何を感じているのか。」
「心の中で非常な喜びを。」
「また何を感じるか。」
「非常な暖かさを。」
「何?暖かさを?私たちは今、森林の中に居て、冬の最中ではないのか。
雪は私たちの足元にあるし、降り続けて、私たちを覆っている。
どのような暖かさなのだろうか。」
「サウナに入浴するときのような暖かさ。」
「神の友よ、・・・足元の雪、私たちを覆う雪を見てごらんなさい。
全然溶けない。暖かさは大気中にあるのではなく、私たちの内にあるから。
『あなたの聖霊は私たちを暖めますように』という祈りの中で、
聖霊はその暖かさを求めさせるのである。
この暖かさは男女の隠遁者たちを冬の寒さから守り、
聖霊によって織られた服をまとわせたかのようであった。
聖霊は私たちを照らし暖め、言いようのない喜びで私たちを満足させるのである。
神の友よ、我々は聖霊の充満の中に居る。」
(「サーロフの聖セラフィーム」モトヴィーロフとの話し合い抜粋)

あなたの聖霊は私たちを暖めますように。

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