聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな




イザヤは旧約最大の預言者、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰です。旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言しています。ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見た」と言っている、イザヤ書6章でイザヤは何を見たのでしょうか。その日、イザヤは高く天にある御座に座しておられる主の栄光を見ました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤが死にました。彼が統治した半世紀、国は非常に栄えていただけに、彼の死は国家を不安に陥れました。その年のことです。イザヤが引き寄せられるように神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされていました。そして彼は天使の賛美を聞いたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」と。ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、様々な神の性質が述べられていますが、3度くり返して使われるのは「聖」だけです。神は愛、愛、愛とはどこにも書かれていません。神は義、義、義とも、神は恵み、恵み、恵みとも書かれていません。しかし、旧新約聖書に1度ずつ(新約は黙示録の4章に)、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と連呼する礼拝の光景が描かれています。
その栄光の目の当たりにしたイザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中住む者」と。「災いだ」、英語では、Woe is me(私は災いだ)です。前のページを見ると、5章には「災いだ」と5回もくり返されていますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。「災いの原因はあなただ」と言っていたイザヤが、神の清さに触れられた時、思わずその口から漏らしたのが、「私こそ災いであった」という言葉だったのです。
イエスと共に漁に出、二層の舟が魚でいっぱいになるのを見せられたシモンは言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。偉大な使徒パウロも、晩年、神の栄光を知れば知るほど、こう言わざるを得ませんでした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです」と。
これは単なるネガティヴ広告ではありません。自分をおとしめるだけで終わらないのです。神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清めてくださったのです。祭壇とは、いけにえがささげられる場所、すなわちキリストの十字架を表す場所です。「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたのあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。まさに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、・・・イエスについて語ったのである」ということです。そして、そのとき、彼は主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と懇願される主の御声を。
この夏、これまで越えられなかった信仰の一線を乗り越えて、私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

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