神の身分と僕の身分



イエス・キリストこそ、すべての支配者、王の王です。しかし同時に、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗われた僕です。ヨハネによれば、イエスは「御自分の時が来たことを悟り、・・・父(なる神)がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」、この洗足という、本来奴隷のなすべき仕事をなされました。そこには何と大きなギャップがあることでしょうか。このギャップこそ、キリストの特徴です。
フィリピの信徒への手紙にはこう記されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・僕の身分になり・・・」。
詳訳聖書は味わい深いです。「2:6 〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、2:7 かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ、人間のさまになられました〈人間としてお生まれになりました〉。2:8 彼は、人間の姿でお現れになったのち、〔さらになお〕ご自身を低くして〈へりくだって〉、死に至るまで、しかも〔あの〕十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました。」
最後の言葉は、ヨハネ福音書13章1節にも通じます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(とことん、最後まで)愛し抜かれた。」これが神のなされたことです。神は、そこまでしても、あなたの足を洗い、あなたとかかわりを持ちたかったのです。
この場面での、ペトロの発言や態度は、彼の性格をよく表しています。彼の席が13番目だったとしたら、足を洗ってもらったのも最後だったでしょう。どれくらい待たされたでしょうか。ようやく自分の番が回ってきたとき、彼はずっと我慢していた思いをいっきに吐き出しました。彼は、どうしてあなたが私の足を洗うのかと抵抗したり、私の足は洗わないでいいと拒絶したり、洗わないと関係がなくなると言われると、手も頭も洗ってほしいと要求したり、とにかく極端です。しかし、9節を最後に、彼が何も言わなくなるのは、彼がここで未だ見ぬ我と出会ったからではないでしょうか。
そんな彼がしなければならなかったことは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。だから今は何も言わないで、あなたの足を洗わせなさい」と言われるイエスの前に、汚れたままの足を素直に差し出すことだけでした。

「The Servant(しもべ)」という題が付けられている絵があります。この人はビジネスマンでしょうか。立派な革の椅子に座っています。彼は頭を抱えていますが、取引に失敗したのでしょうか。それとも家庭に問題があるのでしょうか。きっと誰の人生にも、こんな風に頭を抱えこんでしまうようなことがあるのだと思います。しかし、その時こそ、私たちの足もとにイエス・キリストがいてくださるのです。この方こそ、未見の我ならぬ、未見の神です。世界の王の王である方が僕の手ぬぐいを腰に巻き、あなたの足を洗うために、ひざまずいておられます。

今日は「山の日」、名前が好きです。

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