ローマの法廷へ



最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で捕らえられたイエスに対する裁判が続きます。イエスの裁判については、四福音書を総合的に見ると、その詳細がわかります。繰り返しますが、イエスは、ゲッセマネでの逮捕後、翌朝までに、少なくとも6回の審問を受けていることがわかります。ユダヤ人による宗教裁判が3回、ローマによる政治裁判が3回です。
まず、ヨハネだけが記す、大祭司カイアファのしゅうとアンナスによる予備審問。彼は元大祭司で陰の権力者でした。その後、時の大祭司カイアファの屋敷で、最高法院のメンバーを招集して行われた深夜の裁判。この裁判は明らかに非合法なものでした。規定によれば、最高法院の裁判は、神殿内の「裁きの部屋」で行われることになっており、朝のいけにえが捧げられる午前9時よりも前に、行ってはならないことになっていたからです。それから、ヨハネ福音書には記されていませんが、少し時間をおいて、夜明けを待って再び開かれた最高法院で、イエスの死が結審します。これは深夜に行われた審議を少しでも正当化するための形式的な集まりにすぎませんでした。
ヨハネには、「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」と記されているだけですが、他の3つの福音書は「夜が明けると」という共通のキーワードを用いて、祭司長、長老、律法学者たち、つまり最高法院全体でイエスを殺そうと相談した後、イエスを縛って総督ピラトに渡したということが書かれています。このようにして、法廷は宗教裁判から政治裁判へと移っていきます。ではなぜピラトのもとに連れて行く必要があったのでしょうか。イエスを死刑にするためには、ローマの許可を必要としたからです。それは、イエスの死のほんの少し前のことだったようですが、ユダヤの最高法院は、死刑執行権をローマに剥奪されていたのです。ここに歴史の不思議な巡り合わせがあります。あるいは、神のご計画があると言った方がよいでしょうか。
もしユダヤの最高法院に死刑執行権があったとしたら、どうなっていたでしょう。イエスはまちがいなく、石打の刑で処刑されていました。もしイエスが石打の刑で死んでいたとするなら、イエスの死は贖罪の死とはなり得なかったのです。なぜなら、その死が贖罪の死となるためには、二つの条件が満たされる必要があったからです。イエスの死が、過越祭の期間の死であることと、木に架けられた呪いの死であることです。
もう少しヨハネ福音書を見ておきましょう。「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」彼らは、異邦人の家に入ると宗教的に汚れてしまうという、言い伝えに過ぎない掟に縛られ、総督官邸に入ろうとはしませんでした。過越の食事ができなくなると困るという理由です。彼らは、このような細かい掟を守ることを大事にしながら、愚かにも神から遣わされたメシア、神の御子を殺すという大罪を犯そうとしていることに気が付きませんでした。

今週は受難週です。今週も大切なことを大切に。

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過越の小羊なるイエスとの出会い

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