使い古された雑巾



ここに真新しい雑巾と、使い古された雑巾があります。どちらがきれいですか? もちろん、新しい方です。では、どちらが貴いですか?どちらに「ありがとう」と言いたいですか? きっと使い古した雑巾の方ではないでしょうか。なぜそう思うのでしょう。きれいでもない。だれも欲しがらない。いつ捨ててもいい。でも、何か貴く、ありがたい。それは、あなたの代わりに汚れ、あなたの手を守って傷ついたからです。
汚れには二種類あります。まず自ら汚れた汚れです。人を憎んだり、ねたんだり、いじめたり、いじめを見て見ぬ振りをしたり、人の悲しみに無関心だったり、年齢と共に心の中に積み重なった見えない汚れです。もう一方で、元々はきれいだったのに、他者の汚れを拭き取って身に着けた汚れがあります。本当は他人の汚れなのに、その汚れを拭き取ったために汚れ、本当はある人が受けるべき傷なのに、その人を守るために受ける傷があるのです。
聖書は、この雑巾のように、汚れを引き受ける人がこの世界にいると教えています。イザヤ書53章から、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。」あるところに、主の前に育った聖なる人がいたようです。元々、この人には一点の汚れもありませんでしたが、続きにこう書かれています。「彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」この人は、いつの間にか汚れ、傷つき、人々から軽蔑されます。しかし、預言者は見抜きます。この人の汚れは、あの使い古した雑巾の汚れだと。「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」
ここに聖書の語る真実な愛があります。愛と聞くと、誰かにプレゼントする、親切にする、抱きしめるなどを連想します。もちろんそれも愛でしょう。しかし究極の愛は、他者の汚れを取り去ること。雑巾のように拭き取る行為なのです。イエスはその究極の愛を伝えるために、死ぬ直前、弟子たちに体験授業を行いました。ヨハネによる福音書の13章、洗足のストーリーです。「(イエスは)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」粗末なサンダルで1日中歩き回った弟子たちの足です。泥やほこりがこびりついていたでしょう。その汚い足を次々とイエスが洗います。弟子たちの足はみるみるきれいになりました。しかしそれと並行して、たらいの水は濁り、手ぬぐいは汚れていきます。弟子たちはきれいになるけど、イエスは汚れていきます。それは弟子たちにとって、忘れられない原体験となりました。この体験を土台に、翌日、弟子たちは十字架上で死なれたイエスの姿を目撃します。傷だらけ、血だらけのその姿を。しかし弟子たちは気づきます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と。いいえ弟子たちだけではありません。十字架を見たローマの百人隊長も叫びました。「本当に、この人は神の子だった」と。
十字架は本来、醜く、恐ろしい、目を背けたくなるものです。しかし、それは私たちの最大の汚れ、どんなに石けんで洗っても取ることができなかった罪という汚れを拭い取ってくれたからだったのです。
もう一度、イエスに目を向けてみましょう。「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ(この人を見よ)』と言った。」あなたは愛を見ますか。

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あなたのパンを水に浮かべて流すがよい

この人を見よ

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