氷点と十字架

礼拝メッセージ「氷点と十字架」
聖書:ヨハネによる福音書18章12-14節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(153)

18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

ヨハネの手紙一
1:7 御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められます。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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ゴール



イエスの裁判が始まります。この日、深夜から早朝にかけて、ユダヤ人による宗教裁判と、ローマ法に基づく政治裁判が、公式、非公式を含め、少なくても6回行われます。まず、ヨハネだけが記す、大祭司カイアファの舅アンナスによる審問、その後、カイアファとユダヤの最高法院(サンヘドリン)での深夜の裁判(この裁判は非合法なものでした)、それから少し時間をおいて、夜明けを待って再び開かれた最高法院での結審(これは深夜に行われた審議を正当化するための形式的な集まりにすぎませんでした。)しかし、イエスを死刑にするためには、ローマの許可が必要でした。そこでユダヤ人の指導者たちは、イエスをローマ総督ピラトの前に引き出します。ところが、ピラトはイエスに罪を見出せなかったので、祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデ王のもとにイエスを送ります。しかし、ヘロデはろくに審議することもせず、イエスに派手な衣を着せ、再びピラトのもとに送り返します。そして、そこでイエスの死刑が確定するのです。一夜のうちに、短時間でなされたこの審判は、どこまでも非合法なものでした。にも関わらず、一気呵成に死罪との判決が下されるに至りました。それは終始一貫して絶望的な裁判でした。
ところで、イエスはその夜、何を見ていたのでしょうか。理由のない憎しみの只中で、弟子たちがつまずき逃げ出していく現実の中で、不当な裁きを受けながら、イエスは微動だにせず、ただゴールを見ていたのです。私たちもイエスが見ていたゴールをめざして、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従おうではありませんか。
私たちのゴールは新しいエルサレムでまちがいありませんが、同時に私たちのゴールはイエス・キリストでもあります。ヘブライ人への手紙12章にこう記されています。新改訳聖書で。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者(author)であり、完成者(perfecter)であるイエスから目を離さないでいなさい(英語ではfix、あなた方の目をこの方に固定しなさい)。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」私たちも、弱り果てて意気そそうしないために、信仰の導き手であり、またその完成者、ゴールであるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではありませんか。

今日から3月。今月も大切なことを大切に。

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3月のオープン礼拝



今日から3月、次の日曜日は3月のオープン礼拝になります。
今月のテーマは「氷点と十字架」。三浦綾子文学を通じて、人間の罪と神の愛について考えます。

(綾子さん)本当に自分が悪かったと思う時、人間は思いもかけぬ大きな平安が与えられるのだ。
罪がわかった時、神が見えてくるのだ。驚くべき新しい世界がわかってくるのだ。
(光世さん)妻綾子が、13年の闘病中に示された確信。「罪がわかった時に、神が見えてくる。」
このあと、綾子は喜びの一生を生きた。
『綾子・光世 響き合う言葉』より

罪がわかった時、神が見えてきて、救われた人の喜びの一生が始まる。
聖書が私たちに伝える最も大切なメッセージです。

毎月第一日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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それは愛

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書15章から。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

今月の祈祷会は、35年前に語られた一つのメッセージに取り組んできました。
「それは愛、愛、愛・・・。」

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ゴールを見ているから



競泳の池江璃花子選手のことが話題になっていますが、伝説の女性スイマーの話です。
1952年7月4日、カタリナ島とカリフォルニアの海岸の間、35キロを泳いで渡る世界で最初の女性になるために、34才のフローレンス・チャドウィックは泳ぎ始めました。その日、海水は冷たく、伴走するボートすら見えないほどの濃い霧がかかっていましたが、フローレンスは必死で泳ぎ続けました。その様子はテレビ中継され、何百万人もの人々が見守っていましたが、16時間泳いだところでついに力尽き、彼女は挑戦を断念し、ボートに引き上げられました。
後でわかったことは、彼女が断念した地点は、ゴールまであと数百メートルのところであったということです。記者会見で彼女はこう話しました。「苦しい時、私が見ることができたのは、霧の中にある絶望だけでした。もし海岸を見ることができれば、最後まで泳げたでしょう。」
その日の敗因は、長距離を泳いだことによる疲労でも、その日の凍てつくような海の冷たさでもなく、濃い霧によって対岸というゴールが見えなかったことでした。何を見ているか、それが大切ということです。ちなみに、フローレンス・チャドウィックは2ヶ月後に再挑戦し、見事に泳ぎきったそうです。
先週の月曜日、教区の先生方と小さな祈り会を持ちました。その時にこんな話しを聞きました。一人の牧師が、大槻牧師に尋ねます。「様々な問題に直面しながら、どうして牧師は泰然自若たる態度で、微動だにせず、いつも毅然としていることができるのですか?」大槻牧師はただひと言、「ゴールを見ているからだよ」と答えられたそうです。
みなさんは何を見ていますか。霧の中にある絶望を見ていては、いつか心が折れてしまいます。大切なことは、ゴールを見ていることです。

今週も大切なことを大切に。

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何を見ているか

礼拝メッセージ「何を見ているか」
聖書:ヨハネによる福音書18章10-14節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(152)

18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

ヘブライ人への手紙(新改訳聖書)
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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剣と十字架



アシジの聖フランシスコの生涯を描いた「剣と十字架」という映画があります。フランシスコの映画は何本もありますが、若い時代から彼の死まで、その生涯全体を描いたものは、この映画だけかも知れません。この映画をベースに書かれた劇があり、大学生の時、フランシスコの役をさせていただいたことがあります。長い劇ですが、ほとんどフランシスコがしゃべっているという脚本でした。でも、当時の私は、何とかしてフランシスコのようになりたい、そんな真っ直ぐな思いで、夢中になって劇に取り組みました。青春時代の思い出です。
劇の一場面です。フランシスコがダミアノ教会で回心を経験する前、騎士に憧れ、剣をもって戦いに出ていた頃、突然天からの声を聞きます。「フランシスコ、汝は何処に行こうとしているのか。」「騎士になるために戦へ…。」再び天の声、「フランシスコ、神と僕とどちらに仕えるのが最善か?」「それは、神に仕える方が最善です。」さらに天の声、「フランシスコ、剣を捨てよ。」
彼は剣を置いて、アシジに戻りますが、やがてダミアノ教会で、十字架のキリストとの出会い、当時の力を失っていた教会に、再び神の火が灯されたのです。自分の正義、自分の理想、強引なマイウェイを切り拓く剣を捨てて、神がお与えになった杯、十字架を取る人によって、神は今も、この世界を変えようとしているのです。
先週、説教の準備をしながら、今から10年以上前に、エッセイ風にフランシスコのことを書いてる文章を、こちらのブログで見つけ、感動しました。

かつて宴会好きで、騎士になることを夢見ていた若者がいた。
あの日、彼は廃墟と化したダミアノという教会で独り祈っていた。
屋根もない青天井の教会だ。心地よい風が頬をなでる。
ただ古びた十字架が雨ざらしのまま置かれていた。
何か話したいことがあるような表情に見えた。
遠くで雲雀が鳴いている。まるで歌っているようだ。
若者は目を閉じた。・・・静かだ。もう雲雀の声も聞こえなくなった。
彼は行くあてもなくこの教会にたどり着いた。
彼は行くべき道を求めていたのだ。彼は祈り始めた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
若者はただならぬ気配を感じ、目を静かに開けた。
誰もいない・・・。彼はあの古びた十字架をじっと見つめている。
その時だ! キリストの口が動いた。
若者はその声を聞いた。
「倒れかかっている私の教会を建て直せ。」
彼は「そうします」と答えた。そして、立ち上がった。
その時だ! 歴史は動いた。
キリストはずっと待っていたのだ。彼が来るのを。
キリストはずっと待っている。あなたが来るのを。
今日も、そして明日も。

さあ、私たちも剣を捨てて、十字架に帰りましょう。

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原点に帰る

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
雅歌8章から。

8:6 愛は死のように強く・・・最もはげしい炎です。口語訳

今日は原点に帰るというお勧めをいただきました。
愛の御霊の豊かな注ぎを求めつつ。

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盗まれた十字架像



2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んだそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父がインタビューに答えています。「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから。」
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

今週も大切なことを大切に。

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剣と十字架

礼拝メッセージ 「剣と十字架」
聖書 ヨハネによる福音書18章7-11節
ヨハネによる福音書シリーズ(151)

18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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