十字架の黙想・第13日

今週も祈祷会を大切に。今週は受難週、『十字架の黙想』から学びました。
御言葉をシェアします。イザヤ53章。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

主の愛が、わたしの憎しみと入れ替わり、主の謙遜がわたしの傲慢と入れ替わり、主の忍耐がわたしの短気と入れ替わるようにと心から祈る。

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愛の本質



ヨハネ福音書は21章ありますが、12章からキリストの最後の一週間が始まります。ですから、ヨハネは福音書の半分を費やして、キリストの最後の一週間を記録していることになります。ここにヨハネが本当に伝えたかったことが記されているのです。12章は、11章の続きの記事で、ラザロを囲む食卓でなされた事件から始まります。よく知られたイエスへの油注ぎの物語です。共観福音書にも見られる記事ですが、それぞれシチュエーションが異なります。詳しくは改めて説明します。
3節を御覧ください。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」ここで彼女が惜しみなく注いだナルドの香油とは、どれほど高価なものであったのでしょうか。イスカリオテのユダはそれを300デナリオンで売れると見積もっています。1リトラが300グラムほどなので、量は小さいペットボトルくらいということになります。1グラムで1デナリオンということです。1デナリオンは労働者の1日の賃金ですから、300日分の賃金、年収に相当する額と考えられます。仮に1日1万円で計算すれば300万円です。
パンの奇跡の場面を思い出せるでしょうか。イエスと弟子たちが、どうしたら群衆に食物を与えることができるかと話していた時、弟子のフィリポが「200デナリオンのパンがあっても足りない」と答えています。そこにいたのは男だけで5000人、女性や子どもを含めればその倍はいたにちがいありません。すると300デナリオンとなれば、祐に1万人の給食を準備できるほどの額であったということです。それを高く売って、貧しい人に施すことができたと言われても無理からぬことでした。
普通は、香水のように一滴か二滴かをたらして使うものを、彼女は何を血迷ったのか、たった一回で使い切ってしまったのです。マルコでは、壺を「壊して(割って)」と書かれています。その壺というのも、高価なものであったと思われますが、この愚かとさえ思える行為の中に、愛の本質を見ることができるのです。愛は計算しません。損得を考えません。愛は最大限に与え、すべてを与えた後で、もっと与えたいと望むものなのです。

桜がきれいですね。今週も大切なことを大切に。

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ナルドの香油

棕櫚の聖日(聖餐式)
礼拝メッセージ 「ナルドの香油・前編」
聖書 ヨハネによる福音書12の1〜8
ヨハネによる福音書シリーズ(86)

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

今日は棕櫚の聖日、今日から受難週、キリストの最後の1週間が始まります。
今日はメッセージの前に、ロゴス神学院開校70周年を記念して、春の京都聖会で紹介さしていただいた映像を見せていただき、神学院のために祈りました。メッセージの後は聖餐の恵みにあずかり、今週は受難週を過ごします。今週も礼拝の恵みに感謝です。

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民の代わりに死に



イエスの友ラザロの復活について、時間をかけて学んできました。福音記者ヨハネは、随分と長い前置きしながら、復活の場面は簡潔に描き、更にこの奇跡のために、ユダヤの最高法院(わかりやすく言えば国会のようなもの)が招集され、ある決議がなされたという事実を再び紙面を割いて伝えています。
ユダヤの最高法院、サンヘドリンと呼ばれる議会は70名から構成されていましたが、多くはサドカイ派と言われる一派で、エルサレムに住む祭司や富裕層からなる特権階級の人々でした。イエスとの衝突をくり返してきたファリサイ派の人々は、イエスが安息日を無視し、自分を神の子と呼んだことでイエスを憎んでいましたが、サドカイ派の人々は、イエスの言動については、この時まで、ある意味無関心でした。ところが、ラザロの復活のうわさがエルサレムに広まるにつれて危機感を覚え、ファリサイ派と結託することになったのです。
彼らは言います。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」つまり、このままイエスを放っておけば、ユダヤの議会は民衆に対する指導的な立場を失い、すべてをローマに乗っ取られてしまうかも知れないという懸念を、彼らは抱いていたということです。
そこで発言したのが、この後、キリストの受難劇で大きな役割を果たすことになる「その年」の大祭司カイアファです。ヨハネはここで「その年」という言葉をくり返し使い、「その年」が特別な年であったことを印象づけようとします。「その年」の大祭司がカイアファだったのです。モーセの律法によれば、本来、大祭司という職は終身制でしたが、イエスの時代には、ローマ帝国の支配下にあって、次々と大祭司が代わっています。そのような中、カイアファのしゅうとアンナスの一族が、ローマ政府におもねり、長い間、実権を握っていたのです。アンナスの娘婿であったカイアファは狡猾な人物で、18年その職に就いていました。それは異例の長さでした。
カイアファの言葉です。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」イエス一人を殺し、この国を救おうという彼の提案は、そこに集まり、イエスの問題で手をこまねいていた議会を忖度しての政治的な発言でしたが、誰にとって好都合かというと、「あなたがたに」とってというのですから、それは自己保身によるものでした。彼らが守りたかったのは、彼らの立場であり、既得権だったのです。そこで、ラザロの復活の直後、「その日」イエスの死が決定されました。もう過越祭が近づいていました。ラザロの死と復活は、キリストの死と復活の序曲であったと話してきましたが、ラザロが復活したその日、すでにイエスの死が、議会では決定したのです。
カイアファの言葉ですが、過越祭を目前にして、カイアファは、大祭司の特別な務めのことを思って、このような発言をしたのではないでしょうか。過越祭には全イスラエルを代表して、一年の一度だけ、大祭司が神殿の至聖所に小羊の血を携えて入り、民のために祈りました。一匹の小羊は民の身代わりの犠牲でした。ヘブライ人への手紙には、真の大祭司であるイエス・キリストのことがくり返し記されています。「キリストは・・・動物の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度だけ聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」と。
やがて、イエスの死を目撃したヨハネは、声を大にして叫びます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいまいた。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
春の京都聖会のロゴス神学院開校70周年記念集会で次のように教えていただきました。「自分には愛がないと思う人は、愛が一番たくさんある所に行き、そこにとどまりなさい。愛が一番たくさんある所、それは十字架です。」
「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架。」
「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。

次の日曜日は棕櫚の聖日、受難週に入ります。今年は16日がイースター(復活祭)です。

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「主はすべてだ。」このひと言に尽きる

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コロサイの信徒への手紙3章から。

3:11 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

旧約聖書続編シラ書
43:27 「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。

今週も春の京都聖会からメッセージを学ばせていただきました。

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十字架とキリスト像



教会暦では次の日曜日が棕櫚の聖日で、その日からキリストの最後の一週間(受難週)が始まります。こんな話しを聞きました。
2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んで行ったそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父は「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから」と語ったそうです。
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。キリストは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
今年は、「『十字架の黙想・平成版』、これで行こう」と、くり返しお勧めしていますが、受難週を前に、いよいよ深く、この書を学び味わっていただきたいと思っています。『あかしびと』の最新号には、お正月に紹介した老牧師の証しが掲載されていますが、牧師はこの本を読んで、「神は愛であり、愛する者をキリストの似姿に変えようとしてくださっていることがわかった」と記しています。「読書百遍」、どうぞ毎日の聖書通読と併せて、何度も読んでください。
今日は、3日、ゲッセマネの園での出来事が学べます。「ゲッセマネに伏す、主を思いなば・・・、己を捨てて、君に従わん。」

今週も大切なことを大切に。

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愛が一番たくさんある所

4月のオープン礼拝
メッセージ「愛が一番たくさんある所」
聖書 ヨハネによる福音書11の45-57
ヨハネによる福音書シリーズ(85)

11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
11:54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
11:55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
11:56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
11:57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

4月最初の礼拝、礼拝の終わりに、春から新生活を始める子どもたち、若者たちのために祝福を祈りました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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4月のオープン礼拝



明日から4月、新生活を始める方の上に祝福を祈ります。
次の日曜日は、4月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
ぜひお出かけください。
日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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墓を背にしたラザロと墓に向かうイエス



ラザロの墓が開かれると、イエスは大声で「ラザロ、出て来なさい」と叫ばれました。イエスの神々しい声が響きました。何が起こったでしょう。「すると死んでいた人が、手と足を布でまかれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」
そうです。死んで四日もたっていたラザロが墓の中から出て来たのです。11章の初めから始まったラザロの死と葬り、復活の物語ですが、ヨハネは最後、この一節だけにラザロの復活を簡潔に描きました。ある人は、「手と足を布でまかれたままで、どうして出て来ることができたのか」と突っ込むかも知れません。しかし、そのような疑問や詮索は、ここでは無意味です。
一枚の絵を御覧ください。ジオットが描いた「ラザロの蘇生」です。よく見ると鼻を覆う人、布をほどきにかかる人、驚く人、足元にひれ伏すマルタとマリア、それらの群像の中で、イエスとラザロが向き合っています。墓を背にしたラザロと墓に向かうイエス・・・。それはラザロと引き換えに、イエスが墓に葬られることを暗示しているように見えます。
あなたはこの絵のどこに自分を見るでしょうか。イエスはご自分の命と引き換えに、今日もあなたを死から命へと呼び出そうとしておられるのです。第一コリント15章54節、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、・・・死から命へと移っている。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」「「ラザロ、出て来なさい。」

明日から4月、新生活が始まる方の上に祝福を祈ります。

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わたしに従いなさい

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。ヨハネによる福音書15章と21章から。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

21:15 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
21:17 「わたしの羊を飼いなさい。」
21:19 「わたしに従いなさい。」

今週も京都聖会のメッセージから学ばせていただきました。

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