罪人のひとりに数えられた



イエス・キリストこそ私たちの友です。イエスは言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と。マタイ福音書11章にはこうも書かれています。洗礼者ヨハネとイエスの働きが対比して語られている所です。ヨハネが来て断食していると「あいつはおかしい」と言っていた人が、19節、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、あれは罪人の仲間だ』と言う。」いま巷で大きく取り上げられているニュースと言えば、京都アニメーションの放火もそうですが、吉本興業の闇営業とそれにまつわる不祥事でしょうか。発端は、芸人さんが、反社会勢力のパーティーに知らずに呼ばれ、そこで撮られた写真がスクープされてしまったことです。もし二千年前、カメラ(スマホ)があったら、きっとイエスが徴税人や遊女、罪人と呼ばれる人たちの家に招かれては宴会に出ている姿が撮影され、スクープされたのではないでしょうか。
イザヤ書53章にはこう書かれています。「彼(メシア)が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」あの日、カルバリ山には3本の十字架が立てられました。その姿が撮影されていたとしたら、どこからどう見ても、キリストは罪人のひとりです。それは私たちの友となり、私たちに大きな愛を示すためでした。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
皇帝の友と呼ばれることを誇りとしたピラトのようにではなく、イエスから「わたしはあなたを友と呼ぶ」と言っていただけることを感謝し喜ぶ人となれますように。

次の日曜日は8月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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燃えるたいまつ

今週も祈祷会を大切に。今日の御言葉をシェアします。
イザヤ書62章から。

62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。

口語訳
62:1 シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。

この夏のテーマとなるメッセージ「燃えるたいまつ」に登場する聖書の人物を祈祷会で学びます。
今日は預言者イザヤとその祈りから。

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8月のオープン礼拝



暑中お見舞い申し上げます。
7月も終わり、明日から8月です。
次の日曜日は8月のオープン礼拝になります。テーマは「二人の自分」。

「出会い」というと、とかく他人との出会いを考えがちですが、もう一つたいせつな出会いがあります。
それは、自分自身との出会いです。・・・八木重吉が謳っています。
「わたしの かたわらにたち
わたしを見る 美しく見る」と。
美化して見るのではなく、いとおしく見るのです。
この世にたった一人の自分を、かけがえのないものとして見るのです。

毎月第1日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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皇帝の友



このままピラトがイエスに有罪宣言をしなければ、イエスを死刑にすることができないと考えた祭司長たちは戦略を変更しました。彼らは、ローマに対する反逆罪を訴因にすることを諦め、自分たちの律法を持ち出し、「イエスは自らを神の子と名乗っている」という神への冒瀆罪で改めてイエスを告発したのです。法律の話しからすれば、これは新しい訴因であって、ピラトは裁判のやり直しをしなければなりません。更に言えば、それはユダヤの律法であって、ローマ法ではないので、裁判を打ち切ることもできました。とは言え、ここに至っては、祭司長や議員たちの強引な要求を退けることはできません。ピラトは、イエスを再び総督官邸に連れ込んで尋ねました。「お前はどこから来たのか」と。イエスはピラトの問いかけに沈黙で答えましたが、イエスの態度に苛立ちを感じたピラトは、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と応戦します。するとイエスは、ご自分がどこから来たのかということについては口を閉ざされたままでしたが、ピラトの間違いを正すためには口を開かれました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と。イエスの言葉はピラトに神への畏れを起こさせたのでしょうか。ピラトは更にイエスを釈放しようと努めましたが、ユダヤ人たちが発した最後の言葉によって、ピラトはその努力を放棄することになります。「しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は、皇帝に背いています。』」
ユダヤ人たちはピラトに、皇帝の友であるか否かと問いました。これまで、ピラトが直面してきたのは、「イエスが有罪か無罪か」という問いでしたが、その問いは、Yesと答えても、Noと答えても、彼がいま置かれている立場を危うくものではありませんでした。しかし、最後に突きつけられた問いは、ピラトの政治生命に直接関わるものでした。すなわち、自分は皇帝カイザルの味方なのか、それとも敵なのかを答えなければならなくなったのです。
時のローマ皇帝はティベリウスと言いますが、疑い深い暴君として知られています。皇帝への背信をほのめかされ、ピラトは動揺しました。当時ピラトは、ローマ本国で起こっていたある事件のために、政治的に微妙な立場に追い込まれていたようです。彼がユダヤの総督になれたのは、ある友人の尽力があったからですが、この人物が皇帝に対する反乱を画策していることが発覚し、殺されてしまいました。ピラトにも、この陰謀に加担していたという疑惑がかけられていたのです。もしユダヤの最高法院が、ピラトは「皇帝の友ではない」「皇帝に背いている」と報告すればどうなるのか。この後、ピラトはユダヤ人に従わざるを得なくなるのです。「ピラトはこの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、・・・裁判の席に着かせた。」

今週も大切なことを大切に。

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あなたを友と呼ぶ

礼拝メッセージ 「あなたを友と呼ぶ」
聖書 ヨハネによる福音書19章8-12節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(170)

19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19:12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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どこから来たのか



ピラトはイエスに尋ねました。「お前はどこから来たのか。」今さら、イエスの出身地を尋ねているのではありません。「あなたが来たのは、神からなのか、それとも人からなのか」と尋ねているのです。イエスはかつて、祭司長や民の長老たちと、洗礼者ヨハネについて、同じ議論をしたことがあります。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からのものか、人からのものか」と。
「真理とは何か」という先の問いかけにもまさって、「あなたはどこから来たのか」との問いは重大な意味を持っていました。しかし、イエスはひと言もお答えにならず、ピラトとの対話の中で三度目の沈黙を貫かれました。この場合、イエスにとって、神の子としての証は、それを名乗ることではなく、ピラトが再三イエスの無実を訴えたように、沈黙のうちに、罪なき者として全人類の救いのために、自らをささげると言うことだったからです。
岩手県の沿岸部「ケセン地方」に昔から伝わる言葉を中心に、北は津軽から南は薩摩までの日本の方言で訳されたユニークな聖書があります。イエスや弟子たちはケセン語を使い、エリコの人たちは名古屋弁、エルサレムの人たちは京都弁、そしてローマ人はなぜか鹿児島弁を使います。「この言葉を聞いて、ピラトは思わずゾッと寒気がして、はなはだ気味が悪くなった。それで、代官陣屋に入って、またもイェシューさまに尋ねた。『汝は、故郷は何処か?』(わや、くにはどっつか?)イエスの故郷はどこでしょう。実は、これもヨハネ福音書が、私たちに語り続けてきたメッセージです。
イエスは言われました。「天から降って来た者、すなわち人の子(わたし)のほかには、天に上った者はだれもいない。」「 わたしは、天から降って来た生きたパンである。」さあ、天を故郷とされる方に私たちの目を向けましょう。父のふところにいる独り子である神に。

夜になって雨が降ってきました。

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燃えるたいまつ

今週も祈祷会を大切に。今日の御言葉をシェアします。
イザヤ書62章から。

62:1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。

口語訳
62:1 シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。

この夏のテーマとなるメッセージ「燃えるたいまつ」に登場する聖書の人物を祈祷会で取り上げます。
今日は預言者エリヤとその祈りから。

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どこから来たのか



4月の終わり頃から、イエスとピラトとの対話を通して、イエスのご受難の意味について学んでいます。個人的な対話とかみ合わないやり取りは、ヨハネ福音書の特徴でしたが、ピラトが語った「この人を見よ」との声に促され、「この人こそ、人となりたる生ける神なれ」との告白に導かれることこそが、神の御心であり、ヨハネ福音書の目的でした。
さて、これだけイエスを懲らしめたら、ユダヤ人たちの妬みから来る怒りも収まるにちがいないと考えたピラトでしたが、血まみれのイエスを見ると、祭司長たちや下役たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」と狂ったように叫び出しました。手がつけられなくなったピラトは困り果て、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言い放つと、祭司長たちは言います。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と。
彼らは当初、イエスが自らをユダヤ人の王と言っているとの理由から、ローマ皇帝への反逆罪を訴因として裁判を起こしていましたが、ここで告発内容を変えます。彼らはローマ法に照らしてイエスの有罪を主張してきましたが、ここに至って訴因を、ローマ皇帝に対する反逆罪から、神に対する冒とく罪にすり替えたのです。
神への冒とく罪は、ユダヤ人にとっては大罪であったとしても、多神教でギリシアの神々を奉っているローマ人にとっては無意味なことでした。しかし、イエスの存在に触れれば触れるほど、犯しがたい何かを感じていたピラトにとって、イエスが自らを神の子と主張しているという言葉は、イエスに対する恐れを与えました。人間の姿を装い地上に現れるという神々の物語が彼の脳裏をよぎったのでしょうか。「あの正しい方にこれ以上関係しないでください」という妻からの伝言を受けていたにも関わらず、イエスに酷い仕打ちと辱めを与えてしまった自分に、何か不吉なことが起こるのではないかと思ったのでしょうか。ピラトは、イエスを再び総督官邸に連れ込んで尋ねました。「お前はどこから来たのか」と。

今週も大切なことを大切に。

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汝は、故郷は何処か

礼拝メッセージ 「汝は、故郷は何処か」
聖書 ヨハネによる福音書19章5-11節
ヨハネによる福音書シリーズ(169)

19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

ケセン語聖書(山浦玄嗣訳)
19:8 この言葉を聞いて、ピラトは思わずゾッと寒気がして、はなはだ気味が悪くなった。
19:9 それで、代官陣屋に入って、またもイェシューさまに尋ねた。「汝は、故郷は何処か?」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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神の小羊



「エッケ・ホモ(この人を見よ)」。この人とはだれでしょう。ヨハネはその答えを、すでに福音書の冒頭に記していました。それは洗礼者ヨハネがイエスを指さして語ったあの言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ピラトの法廷に立ち、「この人を見よ」と言われているこの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だったのです。
「世の罪を取り除く神の小羊」とはどのようなメッセージだったでしょうか。「世の罪を除く神の小羊」とは、人の身代わりとして祭壇に捧げられるいけにえのことですが、聖書を読めば、旧約時代、他の動物もいけにえとして使われていたことがわかりますが、小羊に限定された犠牲が2つありました。ヨハネはそのことを承知の上で、イエスのことを「神の小羊」と証ししたのです。
1つ目は、出エジプト記12章に記されている「過越の小羊」です。エジプトを脱出する前夜、イスラエルの家では、傷のない小羊が屠られ、小羊の血がそれぞれの家の鴨居と柱に塗られました。エジプト中の初子を撃つために送られた主の使いが、その血を目印にその家を過ぎ越すためでした。小羊は、イスラエルがエジプトの奴隷の生活から解放されるための身代わりとなったのです。
そして、もう1つはイザヤ53章です。受難のメシアの姿が鮮やかに示された預言の中で、苦難の僕が屠り場に引かれて行く小羊の姿に例えられています。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしたちの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」
使徒言行録の8章に伝道者フィリポがエチオピアの高官を信仰に導く物語が記されていますが、フィリポはこの箇所(イザヤ書53章)から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせました。エチオピアの高官は言いました。「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と。
「この人を見よ。」「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

中学高校は1学期が終わり、夏休みに突入です。

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