キリストにおいて完成する

礼拝メッセージ 「キリストにおいて完成する・後編」
聖書 ヨハネによる福音書17章20-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(144)

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

エフェソの信徒への手紙(詳訳聖書)
1:10 すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。

ゼファニア書
3:3 その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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未来信じる者たちのための祈り



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、ゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、イエスは天を仰いで祈られました。ヨハネ福音書の17章全体がイエスの祈りになっていますが、イエスはまず自分のために祈り、その後、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、イエスを信じるすべての者たちのために祈られました。
20節、「また、彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉(弟子たちの祈りと宣教)によってわたしを信じる人々(未来信じるすべてのクリスチャン)のためにも、お願いします。」十字架の前夜、イエスが何と私のためにも祈ってくださっていたとは、それだけでも感動します。
弟子たちのための祈りでは、イエスは「御名によって彼らを守ってください」「彼らを聖なる者にしてください」「彼らを世に遣わしました」と祈られましたが、未来信じる者のために、イエスは何を祈られたのでしょう。それが21節以下です。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、(わたしを信じるようになる)すべての人を一つにしてください。」これが未来信じる者たちのためにイエスが祈られたことでした。この後、22節でも、23節でもくり返し「一つになる」ということが祈られています。十字架を前にして、大祭司として祈られたイエスの祈りの中心は、あの夜、イエスにとって最大の関心事は、私たちが一つになることだったのです。
エフェソの信徒への手紙には「一つになる」ということが次のように表現されています。この手紙のテーマは「教会論」です。1章の10節を詳訳聖書で見てみましょう。「すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。」
「キリストにおいて一つにする」とは、もちろん教会の一致を願う祈りですが、究極的には「キリストにおいて完成する」との祈りでもあるのです。聖書全体がここにかかっているとするなら、アダムの罪によって、エデンの園を追放され、神と共にいることのできなくなった人類が、今やキリストの十字架によって、再び一つになるという、壮大な神の救いのドラマが、キリストにおいて完成するということなのです。これが大祭司であるイエスの祈りです。祭司とは、「橋を架ける」という意味があると言われますが、イエス・キリストは神と人との断絶に橋が架けられたのです。

「キリスト教はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。御言葉に聞いてごらんなさい。」
「日々是好日」、毎日が神との出会いの好き日となりますように。

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御言葉を宣べ伝えなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
テモテへの手紙二4章から。

4:1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。

今週は『あかしびと』の記事から、証しを二つ紹介しました。一人の人が救われる喜び、そこに至るまでの主の導きと祈りを思い、新しいステージの祈りと宣教のために祈りを積みました。

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私は、何も知らないのだ・・・



「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。・・・すぐにわからないものは、・・・何度か行ったり来たりするうちに、後になってすこしずつじわじわとわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」これはエッセイストの森下典子の『日々是好日』(お茶が教えてくれた15の幸せ)のワンフレーズです。
女優の樹木希林さんの遺作の一つということでも話題の「日々是好日」は、この本を映画化したものですが、25年お稽古を続けながら、その間に感じたこと、経験したことが綴られています。
「お茶はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。手が知っているから、手に聞いてごらんなさい。」
初めはチョロいと思っていたお茶の稽古ですが、先生の流れるようなお点前とその言葉に、目からウロコが落ちます。
「ものを習うということは、相手の前に、何も知らない『ゼロ』の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで『そんなこと簡単よ』『私はデキるわ』と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。・・・心から思った。『私は、何も知らないのだ・・・』」
茶の道には、キリスト教信仰に通じるものがあると言われますが、聖イエス会の教会には、創立者のお考えもあって、お茶室が備えられている教会が多いです。名古屋教会の客間も、水屋はありませんが、畳みに炉が切ってあってお茶が点てられるようになっています。
「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。」私たちは今、ヨハネ福音書を、行ったり来たりしながら、時間をかけて学んでいますが、ヨハネの語る福音が少しずつじわりじわりとわかってきたでしょうか。それも感謝ですが、もっと大切なことは、今日も「私は何も知らないのだ」と、ゼロになって、御言葉から信仰を習うことです。

今週も大切なことを大切に。

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キリストにおいて完成する

礼拝メッセージ 「キリストにおいて完成する・前編」
聖書 ヨハネによる福音書17章20-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(143)

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

エフェソの信徒への手紙(詳訳聖書)
1:10 すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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あこや貝の涙



テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝で語られたメッセージの中で、「志摩と言えば真珠」と言うことから、真珠の歴史や真珠がどのようにして生み出されるかという話を聞きました。その話しを聞きながら、私はイエス・キリストが語られた譬え話を思い出していました。マタイによる福音書13章に出て来る「天国のたとえ」のひとつです。
「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、それを買うのである。」
すぐ前には、畑に隠された宝というよく似た譬えもありますが、どちらも財産をすっかり売り払って、宝を手に入れるという話しです。そのように、天国とは、どのような犠牲を払っても惜しくはない、最高の宝であると教えられる訳ですが、東京聖書学院の初代院長であった笹尾鉄三郎先生はこう言います。「この譬えを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい」と。
キリストの側からこの譬えを読めば、高価な真珠を見つけ、自分の持ち物をすべて売り払い、それを手に入れた商人こそキリストです。であるとするなら、キリストがどんな犠牲をはらっても、手に入れようとした真珠こそ、ほかではありません。それはあなたであり、私なのです。
ダイヤモンドがなかった当時、真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていました。神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかを伝えようとされたのです。
真珠の尊さはどこにあるのでしょう。真珠の成分は黒板に字を書くチョークとほとんど変わらないそうです。真珠をつぶせば、石灰の粉にしか過ぎないのです。それなのに、どうして真珠には価値があるのでしょう。真珠はあこや貝の中に入った砂や異物を、あこや貝がその液体で丁寧に包んで、その傷みをもたらすものと共に生きることによって生み出された、あこや貝の命の中から採られるものであり、その涙の結晶だから尊いのです。現代の養殖ではなく、自然の真珠は、約千個の貝の中からひとつ見つかれば良い方だったと言います。あこや貝はその傷みを7年も続け、何層にも何層にも体液でその傷みの原因を包んで一粒の真珠を生み出しました。高価な真珠とは、そんな傷や痛みによって、長い年月を経て生み出された愛の結晶だったのです。
神は私の人生に一粒の砂や異物が入ることをお許しになることがあります。私たちを傷め、苦しめ悩ませる一粒の砂、こんなものがなければと思えるような経験や出来事、失敗や過ち。しかし、神は長い時間をかけて、ご自身の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがてあなたを高価な真珠のように美しく輝かせてくださるのです。そればかりか、そんな私たちをご自分のものとするために、すべてを捨てて買い取ってくださったのです。「彼らのために、わたしは自分自身を十字架の上にささげます。」「わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。

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若者よ、起きなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書7章から。

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

今週も秋期聖会の証しとメッセージから恵みをいただきました。

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イエス・キリストの涙



先週の土曜日、三重県志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が持たれました。多くの方の祈りと協力に心から感謝します。ある方は、泊まりがけでチラシ配りに行ってくださいました。ある方は献金をささげてくださいました。ある方はお祝いのお花やメッセージを届けてくださいました。聖歌隊は賛美を歌いに出かけてくれました。Mさんの信友や名古屋教会ゆかりの皆さんも遠くからお祝いに駆け付けてくださいました。司牧をはじめ、中部教区ゆかりの先生方からたくさんの祝電をいただき、ほんとうに祈られ、愛されている教会だなあと思わされました。でも、一番感謝だったことは地元の方が大勢来てくださったことです。今回の記念礼拝のチラシで使った写真には、花かごに35個のバラが入っていました。Mさんはこの数だけ席が満たされるように祈り、教会の子どもたちにも「カゴがいっぱいになるように祈ってね」と声をかけていました。当日、「たくさんの人が来たね」と話していると、すかさず一人の子どもが「カゴの花より多かったよね」と言いました。Mさんの言葉を受け止め、祈ってくれていたのです。
メッセージは豊田教会の伊藤牧師が、この日のために祈り備えてくださった「イエス・キリストの涙」という印象的なテーマで語ってくださり、最後にスペインの美術館で実物を見たというエル・グレコの「十字架を背負うキリスト」という一枚の絵を紹介してくださり、大きな複製画を見せてくださいました。有名な絵なので、私も以前から知っている絵でしたが、その大きな複製画で見ると、確かにイエスの瞳に涙が光っているように見えて、感動を新たにしました。四苦八苦の人生、誰もが涙抜きでそれを語ることはできないのかも知れませんが、イエスの瞳に光る涙は、私たちの目から涙をぬぐうためのものだったと聞き、そこに集まっていたすべての人が胸を熱くしました。
ブログを読んで志摩にある小さな教会のために祈ってくださった皆さんにも感謝します。

今週も大切なことを大切に。

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高価な真珠

礼拝メッセージ 「高価な真珠」
聖書 ヨハネによる福音書17章15-19節
ヨハネによる福音書シリーズ(142)

17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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井戸を隠しているからだよ。



渡辺和子先生の文章を紹介します。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子が砂漠に水を求めに行くところがあります。あてどもなく歩いてゆくと、月の光を受けて砂漠は美しい。王子が言います。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。」人間もそうです。表面に現れない「井戸」を心の奥深くに持っている時、人は美しくなります。・・・
一人ひとりが自分の存在の奥深いところに一つの「聖所」とでも呼ぶべきものを持ち、年とともにたいせつに育ててゆくということなのです。そこは他の誰にも、親にも、配偶者にも、親友にも、恋人にも踏み込ませない自分の心の部分であるとともに、どんなに愛し、信頼した人から裏切られた時にも、逃れて自分を取り戻し、自分を立て直すことのできる場所です。騒がしい人混みの中でも孤独になれる場所であり、一人でいても淋しくない所以です。体のどの部分にあるかと尋ねられて指し示すことはできないけれども、一人で生まれ、一人で死んで行かなければならない人間が、その一生の間、自分らしく生きるためにどうしても必要な「場所」なのです。

素敵な文章です。ところで、砂漠はほんとうに美しいのでしょうか。砂漠の持つ美しさもあると思いますが、砂漠は本来厳しい世界です。渇ききった不毛の世界です。でも、ほんとうに大切なことは目に見えないということを教えられます。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」と。では、その井戸は、どこにあるのでしょう。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今日、心を静め、息を整え、御名を呼びつつ主を尋ねれば、私の内に神はおられる、神はおられる。聖なる御名が泉のように、心にあふれ流れ出るまで、心の井戸を掘り下げましょう。掘り下げましょう。ここに泉は湧く。
さあ、神の約束です。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」

明日は志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念集会が持たれます。
祝福を祈りつつ。

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