ざわわ



ヨハネによる福音書の学びを礼拝で続けています。14章まで来ましたが、14章から17章までは、ヨハネ福音書の核心というべき部分になります。十字架の前夜、最後の晩餐の席から始まり、ゲッセマネの園へ移動する道すがら、イエスが語られた最後の教えです。今まで隠されていたイエスの胸の内が、聖なる思いが語られることから「御心の至聖所」と呼ばれることもあります。
13章で、イエスは弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合う」という新しい戒めを語られました。その中で、弟子たちがついて来ることのできない所に行くとも語られたことから、この後、弟子のペトロが三度イエスの事を知らないと言うことが予告されました。イエスのいつもとは様子のちがう、ただならぬ物言いに弟子たちは胸騒ぎがしました。そこで語られたのが14章1節の言葉です。「心を騒がせてならない。」
「さとうきび畑」という歌をご存知でしょうか。「ざわわ、ざわわ、ざわわ、広いさとうきび畑は・・・。」作詞・作曲した寺島尚彦さんは1964年、復帰前の沖縄を訪ねてさとうきび畑を歩いていたとき、この畑の下にまだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままであるという話を聞きます。そのとき、頭越しに吹き抜ける風の音を聞き、あの詩が生まれたそうです。11節もある歌詞の中に66回もあの「ざわわ」が出てきます。平成ではいられない心の状態、怒り、不安、いらだち、すすり泣きが、今日、私たちの心にもあるでしょうか。
十字架の時が切迫し、そのことが語り出されると、弟子たちの心は憂いと悲しみに満たされ、動揺し、混乱に陥っていました。不安と恐怖に心が騒いでいたのです。いま弟子たちの心中に渦巻いている、不安と動揺の原因は何なのでしょうか。イエスはその治療法をよく知っていました。それが神、すなわちイエス・キリストへの信頼、信仰です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ここで「そして」と訳されている「カイ」というギリシャ語の接続詞は、「すなわち」と訳す場合があります。すると、「神を信じなさい、すなわち、わたしを信じなさい」となりますが、『我主イエズスキリストの新約聖書』、通称『ラゲ訳』と呼ばれる聖書ではズバリ「神を信ずれば我をも信ぜよ」と訳されています。
これらの言葉を聞き、思い出すのは、イエスがガリラヤの波猛る海で弟子たちを諭された時のことです。イエスと弟子たちが乗っていた舟が突風に見舞われ、今にも沈みそうでした。「イエスは起きあがって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」私たちの心には、「ざわわ、ざわわ」、不安と恐れ、あせり、いらだち、大小さまざまな波が押し寄せているでしょうか。イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちはあの日、こう言いました。「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と。そこで私たちがなすべきことは、ただイエス・キリストを神と信じることです。信頼しきって、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストに近づこうではありませんか。

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井戸よ、湧き上がれ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
民数記21章と創世記26章から。

21:16 彼らはそこからベエル(井戸)に行った。これは、主がモーセに「民を集めよ、彼らに水を与えよう」と言われた井戸である。
21:17 そのことがあったとき、イスラエルはこの歌をうたった。
井戸よ、湧き上がれ
井戸に向かって歌え。

26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。
・・・・・・
26:32 その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。

京都での秋期聖会のメッセージを学ばせていただきました。

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ことばのうちがわへ



10月の『ぶどう樹』を読んでいただけたでしょうか。2017年10月(今月)は、マルチン・ルターによる宗教改革から500年と言うことで、文章を書かせていただきました。短い紙面で、宗教改革のすべてを書くことはできませんので、「その始まり」と言うことで「聖書に帰ろう」と題を付けて短くまとめてみました。冒頭にクリスチャンの詩人で、今年没後90年を迎えている八木重吉さんの詩を引用しています。何度も声に出して読んでみたくなるような詩です。

 この聖書(よいほん)のことばを
 うちがわからみいりたいものだ。
 ひとつひとつのことばを、
 わたしのからだの手や足や、
 鼻は耳やそして眼のようにかんじたい。
 ことばのうちがわへはりこみたい。

今から500年前、ドイツで始まった宗教改革運動も、実にそんな聖書の内側に入り込んだ一人の人によって始められていきました。宗教改革に至るまでの歴史的な背景があったのは事実ですが、きっかけは、真面目に聖書を学び、聖書に帰ろうとしたマルチン・ルターの素朴な一つの問いかけから始まっていたのです。
1517年10月31日、ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に95カ条の提題(公開質問状)を貼り出しましたが、やがてその日が宗教改革記念日と呼ばれるようになるとは、彼自身、想像もしていなかったことでしょう。先週、突然の衆院解散で総選挙、希望、リセット、挑戦と巷にはそんな言葉が飛びかっていますが、かけ声だけでは何も変えることが出来ないことを私たちはもう知っています。ルターの場合、彼が聖書の言葉に捉えられ、その言葉に心を燃やされる体験をしたことが改革の原動力となりました。ルターによる宗教改革とは、単に当時の教会の既成権威に対する抗議(プロテスト)ではなく、聖書を読む運動であったと言えるかも知れません。その運動が歴史を動かしたのです。この秋、私たちも聖書のことばの内側に入り込み、人生を変え、歴史を動かすことさえできる一つの言葉と出会えますように。礼拝で続けているヨハネによる福音書の学びも14章に入ります。毎週、御言葉に期待し、ことばの内側へ入り込みたいと願っています。

『ぶどう樹』は聖イエス会の教会で配布されているパンフレットです。
興味のある方は近くの聖イエス会の教会にお問い合わせください。
今週も大切なことを大切に。

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神を信ずれば我をも信ぜよ

10月のオープン礼拝
礼拝メッセージ 「神を信ずれば我を信ぜよ」
聖書 ヨハネによる福音書14の1-7
ヨハネによる福音書シリーズ(105)

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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エルサレムよ



エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
詩編137の5

今週の祈祷会は、水曜日の特別ゲストを迎えての集会に合流しました。
イスラエルからの大切なお客さまでしたが、
半日ほど名古屋の産業観光施設をご案内し、夜の集会を迎えました。
毎年、聖イエス会の教会を巡られていますが、
その度に新しい感動を受け、自分の人生が豊かにされていると
語っておられました。
お名前のとおり、グッド・フレンドなゲストでした。
写真は教会にプレゼントしてくださったヘブライ語の壁掛け。
詩編137編の言葉です。

次の日曜日は10月のオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。

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10月のオープン礼拝



次の日曜日は10月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
10月のテーマは、ずばり「神を信じること」。
読書の秋、聖書を読んでみませんか。
そして礼拝デビューしてみませんか。ご来会をお待ちしております。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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クォ・ヴァディス



十字架の前夜、最後の晩餐の席でのことです。イエスは弟子たちの足を洗い、「互いに」愛し合うという新しい戒めを弟子たちに語られました。その中で、イエスが「私が行く所にあなたたちは来ることができない」と語られたことに対するペトロの反応から、イエスはペトロの離反を予告されました。「鶏が鳴くまでに(夜が明けるまでに)、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」この予告は現実となります。それは18章で学ぶことになりますが、ペトロがここで語った、「主よ、どこへ行かれるのですか」という言葉は大変印象的です。
ポーランドの作家シェンキェヴィッチの歴史小説「クォ・ヴァディス(岩波文庫は「クオ・ワディス」)」は、暴君と呼ばれたローマ皇帝ネロの時代を舞台に、初代教会の様子が随所に散りばめられた名作です。ローマでの迫害が激化する中、信徒たちはペトロにローマを離れるように勧めます。ペトロは後ろ髪を引かれる思いで、ナザリウスという少年とともにローマを出ました。そんな彼が、アッピア街道で、キリストを出会います。ペトロは、持っていた杖を地面に落とし、ひざまずき手を伸ばし言います。「クォ・ヴァディス・ドミネ。」「主よ、何処にか行き給う?」
するとペトロの耳に悲しくて甘い声が聞こえてきます。「あなたが私の民を捨てるのなら、私は再び十字架にかかるために、ローマに行こう。」ペトロは顔を地面につけ、言葉もなく地に伏していましたが、やがて起きあがると震える手で杖を取り上げ、何も言わずに来た道を引き返し、ペトロはローマで殉教の死を遂げるのです。この話は、初代教会の言い伝えをベースにした、フィクション(創作)ですが、ペトロの言葉だけは、ノン・フィクションです。ヨハネ福音書13章36節、「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』」
主の御心がはっきりとわかれば感謝です。しかし、いま分からなくても、人生の曲がり角で、「主よ、何処へ」と尋ね続け、イエスについて行く、私たちとならせていただこうではありませんか。あの日のペトロのように。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
二人の対話の続きはこうです。ペトロの問いに、イエスが「今はついて来ることができない」と答えると、ペトロは言います。「あなたのためなら命を捨てます」と。しかし、イエスは「わたしのために命を捨てると言うのか」と言葉を返し、彼の離反を予告されました。イエスが言いたかったことは、どういうことだったのでしょう。「あなたが私のために命を捨てると言うのか。それは頼もしい、確かにその日が来る。でも今ではない。まず、私があなたのために命を捨てるのです。そして今ではなく、その後、あなたは私のついて来ることになるのです。」主の御心に感謝します。

今週も大切なことを大切に。

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主よ、どこへ行かれるのですか

礼拝メッセージ 「主よ、どこへ行かれるのですか」
聖書 ヨハネによる福音書13の36-38ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(104)

13:36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
13:38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ルカによる福音書
22:31 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい。」

使徒言行録
4:13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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鐘と撞木の相が鳴る



禅問答か江戸の小咄か。
こんなやりとりがある。

「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか。」

答えは

「 鐘と撞木の相が鳴る。」

撞木とは、鐘を鳴らすバチのこと、
鐘も撞木も、それだけでは音を鳴らせない。
でも二つのものが出会う瞬間、音が生まれる。
「相が鳴る」は「愛が成る」に引っ掛けた言葉遊びだろうか。
愛がなければ、鐘も撞木も、何の役にも立たない。
愛は二つのものを生かす出会い。

聖会のメッセージを聞きながら、
神の御業は起こるべくして起こると教えられた。
神と私たちの思いが一つとなる瞬間を待ち望もう。
徹底的に準備しよう。深い飢え渇きをもって。
相が鳴るまで。愛が成るまで。
これが原点、常に帰るべき所。

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聖霊来てください

今週も祈祷会を大切に。
今日は京都での聖会のメッセージを学ばせていただきました。
御言葉をシェアします。使徒言行録の10章、申命記4章から。

10:33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。
10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。

4:29 しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。

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