最古の職業?



先週土曜日の中日春秋から。
旧約聖書の創世記をめぐる、こんなジョークがある。三人の男が言い争っている。医者と建築家と政治家が、自分たちの職業のうち最古の職業はどれかを論じているのだ。「神はアダムの肋骨からイブを作られた。これは手術ではないか」と医者が主張すると、建築家が反論する。「神はまず、混沌からこの世界を構築された。建築こそ一番古い」。「なるほど」と政治家が口を開いた。「ところで、その混沌をつくったのは誰だね?」「誰だね?」と聞かれて、いま真っ先にその顔が浮かぶ政治家が、またしても特大の混沌をつくった。地球温暖化対策の世界的な枠組み「パリ協定」から離脱すると宣言したのだ。・・・
この後、アメリカのトランプ大統領のことが書かれています。自国第一主義(アメリカ・ファースト)を掲げて大統領に選ばれた指導者だけではなく、くり返し忖度の有無が話題になっている日本のトップも、隣国アジアの国々のトップも、次々と新たな混沌を作り出しています。国益を優先する自国第一主義はある意味、当たり前のことでしょうが、大局を見失うと、ただの独りよがりになり、新たな混沌をつくり出すだけです。
イエス・キリストが教えてくださった「一粒の麦」の譬えは、そんな自分勝手な私たちに、自分に死に、他者を生かすという神の国の生き方を、自らがモデルとなりつつ示してくださったものです。共観福音書では、もう少し早い時点で、イエスが受難の予告をされ、その直後に、イエスに従おうとする者の覚悟が語られますが、ヨハネは同じ内容を、十字架の死を目前にしたこのタイミングで、とても印象的に語ります。
一粒の麦の譬えは、自然界の事実です。一粒の麦が地に落ちて発芽する事実を、麦が「死ぬ」と表現することで、これをイエスの死と重ね合わせ、イエスの死が持つ意義を語っています。つまり、イエスが死ぬことによって、多くの人が真実の命に生きるようになるという福音の奥義が、この譬えによって宣言されているのです。

今日は京都でロゴス社の編集会議。
今週も大切なことを大切に。

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一粒の麦(ていねいに生きる)

礼拝メッセージ 「一粒の麦・その2」ていねいに生きる
聖書 ヨハネによる福音書12の20ー26ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(81)

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

フィリピの信徒への手紙
2:5 汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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真心から神に近づこう



「われらイエスに謁えんことを願う」と言いながら、どうしてギリシア人たちは直接イエスのところに行かなかったのでしょう。いろいろ理由が考えられますが、意外に答えは簡単かもしれません。行かなかったのではなく、行けなかったのです。エルサレムの神殿は、いくつかのエリアがあって、それぞれそこに入るのに条件がありました。神殿の境内の外回りは、異邦人の庭と呼ばれる広いスペースです。その次に婦人の庭、さらに門をくぐってイスラエルの庭、更に境内から本殿に入ると聖所があり、その奥に、至聖所と言われる場所がありました。
改宗したギリシア人が入ることが許されていたのは、異邦人の庭までであって、イエスは婦人の庭かイスラエルの庭におられたのでしょう。彼らは会いたくても、会いに行くことができなかったのです。両者の間には「隔ての壁」があったからです。この「隔ての壁」について、パウロがエフェソの信徒への手紙の2章でこう言っています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
キリストは十字架によって「隔ての壁」を取り除かれました。ここで言われている「隔ての壁」とは、モーセの律法のことです。そのモーセの律法が、キリストの十字架によって、すべて成就したので、だれでも信じるだけで神に近づくことの出来る恵みの時代が訪れたのです。キリストが一粒の麦となって死ぬことによってです。
「キリストはおいでになり、遠くに離れているあなたがた(異邦人)も、また、近くにいる人々(ユダヤ人)にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」
私たちは、一粒の麦となられたイエスの血(十字架)によって聖所に入れると確信しています。一粒の麦となられたイエスは、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」「君よ、われらイエスに謁えんことを願う。」

6月に入りました。次の日曜日は、6月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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6月のオープン礼拝



6月になりました。次の日曜日は6月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
ぜひお出かけください。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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聖霊に満たされなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録の1章、2章から。

1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

今週はペンテコステ前のお勧めとして、『あかしびと』の巻頭のことばから「聖霊に満たされなさい」を学びました。

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われらイエスに謁えんことを願う



イエスのエルサレム入城に続き、祭りに上って来ていたギリシア人がイエスを訪ねてきたことを伝えるのはヨハネだけです。彼らは礼拝をするために過越祭に来ていたユダヤ教に改宗したギリシア人でした。当時のユダヤ人の間では、ギリシア人という呼び方は、民族とか国籍を指すと言うより、ユダヤ教徒から見た非ユダヤ教徒を指す用語であったようです。たとえば、パウロはローマの信徒への手紙の1章で、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と記しましたが、ここでもギリシア人という呼び方は、ユダヤ人以外の外国人(異邦人)全体を指しています。つまり、異邦人を代表したギリシア人の登場によって、イエスの死の意味が明らかにされていくというのが、一粒の麦のたとえの意義なのです。
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとに来て、イエスとの会見を願いました。ここで、フィリポのことが出身地から紹介されていますが、ガリラヤのベトサイダは、ギリシア人が多く住む町で、フィリポという名前も、実はギリシア名です。彼について、他の福音書では、その名前は12弟子のリストには出て来るだけで、実際は一度も登場してきませんが、ヨハネ福音書には、彼が何度か登場してきます。さて、フィリポはどうしたでしょう。彼は仲間のアンデレに相談し、それから二人でイエスのもとに行っています。考えてみれば、これまでイエスの宣教の対象はユダヤ人に限定されていました。例外的に、ローマの百人隊長の僕の癒しや、カナンの女の娘の癒しなどはありましたが、その時でさえ、イエスの態度は決して積極的ではありませんでした。フィリポはそのことで躊躇していたかも知れません。そこでアンデレが行動したのです。アンデレも、他の福音書には名前が上げられているだけですが、ヨハネ福音書では、1章でシモン・ペトロをイエスに導き、6章ではお弁当箱を持った少年をイエスに導き、そしてここでは、ギリシア人をイエスに導くという大切な役目を果たしていきます。そこで、一人が一人を、一人ずつ導くことを、「アンデレ伝道」と言います。私たちがキリストのもとに導かれるためにも、誰かがアンデレとなってくれたのではないでしょうか。
ギリシア人は言いました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」文語訳聖書は美しい響きの日本語で印象的です。「君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願う。」謁見の謁と書いて「まみえる」、非常に丁寧な言い方ですが、彼らが高貴で偉大な方との会見を願っていたことがわかります。以前、この言葉から、人々は何を求めて礼拝に来ているのか。説教者は、それをいつも確認しながら、御言葉を語らなければならないと教えていただいたことがありました。以来、説教台の上に、この御言葉を書いたメモを置くようになりました。しかし、これは説教者の心得というよりも、礼拝者の心得です。私たち何を求めて礼拝に集まるのでしょうか。いつもそのことを自分自身に問いかける必要があるでしょう。「われらイエスに謁えんことを願う。」

今週も大切なことを大切に。

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一粒の麦(イエスに謁えんことを願う)

礼拝メッセージ 「一粒の麦・その1」(イエスに謁えんことを願う)
聖書 ヨハネによる福音書12の20-26
ヨハネによる福音書シリーズ(80)

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

12:21 君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願ふ。(文語訳)

今週も礼拝の恵みに感謝。

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ちいろばの女房



ヨハネ福音書に「なつめやし(他の訳では「しゅろ」)の枝を持って迎えに出た」と書かれていることから、キリストのエルサレム入城の日を、「しゅろの日」と呼びます。他の福音記者たちは「木の枝」とだけ記し、それが「しゅろの枝」であったというのはヨハネの視点であり、感性です。
その日、人々の興奮は尋常ではありませんでした。それは、ファリサイ派の人々が、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と言うほどでした。この場面を、マタイは、「大勢の群衆が自分の服を道に敷き(これは新しい王に対する服従の姿勢です)、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ」と記し、ルカは、ファリサイ派の人々がこの大騒ぎにクレームを付けると、イエスが「もしこの人たちが黙っていれば、石が叫びだす」と言われたことを記録しています。群衆は賛美せずにはいられなかったのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と。
ところで、ヨハネが記した「なつめやし」、すなわち「しゅろ」の枝とは、ギリシア語ではフォイニクスと言いますが、それはフェニックス(不死鳥)という言葉です。葉のかたちが鳥の羽に似ていたからでしょうが、その名が示す通り、それは復活と勝利のシンボルです。ヨハネは後に、黙示録の7章において、再びなつめやし、しゅろの枝を振る群衆の姿を描いています。あの14万4千人のイスラエルの救いが語られたすぐ後のところに描かれる天国の礼拝の光景です。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前(神)と小羊の前に立って、大声で叫んだ。『救いは、玉座に座っているわたしたちの神と、小羊とのものである。』」
さあ、私たちもこの天国の礼拝、新しいしゅろの日の喜びに、だれにも数えきれないほどの大群衆に加わって参加しようではありませんか。磔にされ、茨の冠をかぶせられた王、私たちの罪の罰を受け、身代わりの死を遂げてくださったこの王こそ、罪と死を打ち破り、三日目に不死鳥のごとくよみがえられた生ける主です。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」アーメン。

「ちいろば」先生、榎本保郎牧師のことを覚えていますか。先生は、自分のことを小さなろばの子、略して「ちいろば」と呼びました。その榎本先生の奥様、榎本和子さんが「ちいろばの女房」という本を出しておられます。本の最後にこんな文章があります。
「これまでの人生で、私はちいろばの女房としての勤めを果たせたのか、時々考えます。至らぬ妻だったなあと思わずにはおられません。しかし、今思うことは、私も『ちいろば』になりたい、ということなのです。ずっと保郎のようにはなれないと思っていましたし、今でもそう思います。でも私は保郎にならなくてもよいのです。私は私らしく、ちいろばとなりたい。神様のお役に立ちたい、そう思うのです。」
イエスのエルサレム大行進は続いています。そして、ゴールはもうすぐです。私も私らしく、ちいろばとなりたい。神様のお役に立ちたい、そう思うのです。

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主がお入り用なのです

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マルコによる福音書11章から。

11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

今週は、いつもように『あかしびと』から記事をシェアした後、ヨハネ福音書だけでは語りきれなかった、キリストのエルサレム入城の物語から、主の召しについて学びました。

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神の信仰



『手さぐり聖書入門(マルコ福音書による黙想)』に、ろばについてこんなことが記されていました。

「ろば」の印象はいつもどことなくもの悲しいものがある。・・・ろばほど雑用に敵した動物はなく、雑用がさげすまれるようにろばもさげすまれ続けてきた。・・・イエスはろばの子に乗ってトボトボと門をくぐる。何と見栄えのないことか。雑用を果たすために、荷駄のごとくろばの背に乗って町へやって来たとでも言うように。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、私が示す山で彼を燔祭としてささげない」と神様から命じられたアブラハムのことが思い起こされる。
その時、彼はろばを連れて行った。三日間の旅を時には燔祭に用いる蒔きに代えて、わが子イサクをろばの背に乗せて進んだにちがいない。神の理不尽な命令に納得のいかないまま旅する三日間がどんなに長かったことか。・・・神様の御言葉のままにイサクを殺そうとした時、「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私は知った」という神の声が聞こえてくる。
今ここで、アブラハムに代わり、神みずからがその独り子イエスを死に渡すために、「ろばの子」に乗せてゴルゴタの丘の見えるエルサレムへと旅を進めさせている。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とパウロも述べたことが、今ここで、神みずからが義とされるために、その独り子を死に渡して神みずからの信仰を示そうとされる。
かつてアブラハムが神に対して示した信仰を、今は神が人に対して示そうとされる。ここに福音がある。私たちが神を信じるのではない。神が私たちを信じるのだ。私たちがイエス・キリストを信じて救われるのではない。イエス・キリストが私たちを信じるゆえに、私たちは救われるのだ。そしてその時の乗り物が「ろば」であった。

聖書は聖書で理解します。味わい深い聖書理解ではないでしょうか。信仰の父アブラハムがその独り子イサクをささげようとするあの物語に、ろばの子に揺られてエルサレムに入城されるイエスの姿が隠されていたというのです。そして、あの日、アブラハムが神に対して示した信仰を、神が人に対して示そうとされているというのです。その神の信仰を、ヨハネは声を大にして告白します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これが神の信仰、福音です。

昨日は礼拝後に外回りの掃除をしましたが、たくさんの方が協力してくださり、きれいになりました。
今週も大切なことを大切に。


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