未見の我



渡辺和子先生の「面倒だから、しよう」に、相田みつをさんの詩が紹介されていました。

トマトがね、トマトのままでいれば、ほんものなんだよ、
トマトをメロンに見せようとするから、偽物になるんだよ。
みんなそれぞれにほんものなのに、骨を折って偽物になりたがる。

渡辺和子先生の文章です。
若い人はよく“自分探し”という言葉を使いますが、自分というものは、押し入れを開ければ見つかるようなものではありません。自分探しとは、私は一体どういう人間なのだろうと言うことを絶えず模索することです。失敗をしたら、その失敗をしっかりと受けとめ、成功をしたら、私にもこんないいところがあるのかと今まで気付かなかった自分に気付くこと。・・・

未見の我という言葉があります。私たちは、自分自身を全部知っているわけではありません。いろいろな人との出会いやさまざまな経験を通じて「未だ見ざる我」に気付きながら、パーソナリティを自分らしく作っていくことが、大事なのです。

先生らしい文章に心が和みます。
私たちも聖書が教えてくれる「未見の我」、ほんとうの自分と出会えますように。

昨日は礼拝後に、福井県の高浜に移動、子どもたちのミニキャンプを持ちました。
台風の予報もあったので、到着後、すぐに海水浴へ。楽しい時間を過ごすことができました。
今日は朝からあいにくの雨模様でしたが、大槻筆子先生の足跡を辿り、早めに名古屋に戻って来ました。
高浜に導いてくださった主に感謝。

今週も大切なことを大切に。

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とことんまで愛された



ヨハネ福音書だけではわからない、洗足の真実があります。ルカによれば、最後の晩餐の席上、弟子たちがあることで議論を始めています。その議論とは、「だれがいちばん偉いのか」ということです。『日本人に贈る聖書ものがたり』で、この場面が席順を決める話しから始まっているのは、とても自然で、納得させられる描写です。
そういうことなら、「だれがいちばん偉いのか」という議論が始まったというのも、うなずけます。そこでイエスは十字架を前に、大切な教えを語られました。ルカによる福音書22章26節以下、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕をする者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」もしヨハネ福音書につなげるなら、そう言ってから、イエスは食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い始めたのかもしれません。
ヨハネは、ここで「イエスは、・・・御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と前置きしていますが、「この上なく愛し抜かれた」という部分を他の訳と比較してみましょう。口語訳は「彼らを最後まで愛し通された。」詳訳聖書は新共同訳と口語訳を合わせた訳で「彼らを最後まで〈この上なく〉愛された。」新改訳聖書は「その愛を残るところなく示された。」リビングバイブルも同様に「愛を余すところなく示されました。」フランシスコ会訳は「限りない愛をお示しになった。」文語訳は「極みまで之を愛し給へり。」岩波訳も「極みまで愛した。」
ギリシア語では「テロス」という言葉が使われていますが、時間的は「最後まで」、程度においては「極限まで、徹底的に」という意味で、ヨハネ福音書13章の場合は、その両方の意味を含んでいると考えられます。十字架の前夜、キリストの愛は最高潮に達していたということです。しかし、もう一歩進んで考えるなら、神の愛は十字架で終わったのではなく、今も続いているということではないでしょうか。私たちが御国に行くその日まで、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるその日まで、最後まで、愛してくださるのです。
ちなみに、新約聖書に40回、テロスという言葉が使われますが、一番最後に使われるのは、ヨハネの黙示録22章13節、今年の御名の聖書箇所です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者、初めであり、終わりである。」私たちのしんがりとなってくださる神は、弟子たちの汚れた足を洗うことによって、とことんまで愛される愛を示されたのです。この愛を私たちもとことん信じて祈り続けます。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架」と。

次の日曜日は8月のオープン礼拝です。暑い時期ですが、ぜひお出かけください。

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勇気



今月18日に、105歳で亡くなられた聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明先生の葬儀が先週の土曜日に営まれたと報じられていました。先生が訳されたバーナード・ウェーバー著の「勇気」という児童書があります。いろいろな勇気があることを教えてくれる素敵な本です。

・いきなり、補助輪なしでつっぱしるのも勇気。
・探偵小説の犯人を知りたくても、最後のページを見たりはしないのも勇気。
・しゃべらないと約束したとっておきの秘密を漏らさないのも勇気。
・真っ暗にして眠るのも勇気。
・髪をばっさり切ってもらうのも勇気。
・壊されても、またやり直すのも勇気。

政治家の失態や国会でのお粗末な答弁が連日報じられ、誰もが呆れていると思います。もう少しだけみんなに勇気があったら、こんなニュースはなくなるでしょうか。本当のことを話すのも勇気。「ごめんなさい」と謝るのも勇気。クリスチャンとしては、人が嫌がる仕事を率先してするのも勇気。辛い思いをしている人に寄り添い、一緒に祈るのも勇気。何よりも、キリストを伝えるのも勇気ということではないでしょうか。
礼拝で学んでいる『ヨハネによる福音書』のシリーズも13章に入ります。ヨハネ福音書は構造的に、12章までと13章からの2つに分けることができますが、12章の終わりのところで、前半部分を要約するようなイエスの叫びを聞き、13章は「さて、過越祭の前のことである」と仕切り直すかのような前置きで始まります。ヨハネ福音書は、12章で、キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたことが記され、続いて「一粒の麦」の譬えが語られました。すでにキリストの最後の一週間、受難週に入っているわけですが、ヨハネは他の福音書のように、その週の出来事については触れずに、13章では十字架の前夜、あの最後の晩餐の席まで話しをスキップさせます。つまり、ここではもうキリストの最後の24時間に突入しているのです。ヨハネは、ここに、最後の晩餐の席でなされた信じられない出来事をまるでビデオで収めるかのように事細かに記録しました。僕となって弟子たちの足を洗うイエスの姿です。これもキリストの勇気でした。

今週も大切なことを大切に。

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アニー マアミン



昨日の礼拝で、ホロコースト記念館のポーランド、イスラエル研修旅行に参加されたMさんから報告を聞きました。行く先々で疲労感を覚え、嫌悪感や虚しさを感じ、言葉を失うばかりであったと率直に語りながら、その暗い現実に光を投げかけたコルチャック先生、シンドラー、コルベ神父の足跡を辿ったこと、そこで受けた印章を中心に報告してくださり、感謝でした。
また、ホロコーストの地で、多くのユダヤ人と出会い、共に「アニーマアミン」というメシア(救世主)待望の歌を歌ったという報告は感動でした。『あかしびと』の最新号に、その「アニーマアミン」という歌のことが紹介されていますが、この伝統的なユダヤ教の祈りに、メロディーが付けられて最初に歌われたのは、ホロコーストのただ中においてだったそうです。収容所に向かうぎゅうぎゅう詰めの列車の中で、どんなことがあっても信仰を持ち続けることができるようにと、一人のラビが「アニーマアミン」を歌い始め、それが生存者によって歌い継がれてきました。その歌を、ホロコーストの地で、クリスチャンの私たちとイスラエルの人々が声を合わせて歌うとは、何という不思議でしょう。そもそもキリスト教とユダヤ教は、誰がメシアなのかということで絶えず言い争ってきましたが、もうメシアが誰であるかを論じるのをやめて、メシアの来臨を共に祈ろう、メシアがおいでになれば、すべてがわかるからということです。

アニーマアミン(わたしは信じる)
わたしはメシアがおいでになることを 全き信仰をもって信じます。
たとえ彼が遅くなられても それでもなおわたしは信じます。
わたしは毎日 彼が来られるのを待ち続けます。

今週も大切なことを大切に。

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叫び



ヨハネ福音書は、13章から舞台を最後の晩餐の席に移しますが、その前に、これまでに記してきたことを12章の最後にまとめます。まず、ヨハネは自分の言葉で、これまでを振り返り、結局、ユダヤ人はイエスの行われたしるし見ても信じることができなかったということを、イザヤの預言を引用しながら述べた後、次に44節から、イエスの言葉として、これまでを振り返っています。
「イエスは叫んで、こう言われた」とありますが、どこで、誰に向かって語られているかは記されていません。ですから『叫んだ』というのは、イエスが主張してきた事柄、福音の内容について、くり返し語り続けて来たこと、今もその声が響いているという意味です。ここに記されていることは、今までどこかで語られて来たことでした。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。」さらに、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」これまでくり返し主張して来られた、この後もくり返し語られる父と子の一体性ということです。
そして、46節、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」闇と光というテーマも、ヨハネが好んで用いてきたイエスのメッセージです。その叫びが聞こえてきます。「言(キリスト)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように・・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」
イエスの叫びは続きます。47節以下、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者(不信仰に留まる者)に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」この後、その理由が語られていますが、救いと裁き、命と死の境界線は、イエスが語られる神の言葉を聞いて信じるか、信じないかだということです。
イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と。

今週も大切なことを大切に。

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聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな




イザヤは旧約最大の預言者、旧約の最高峰です。一方、ヨハネは新約の最高峰です。旧新約聖書の双璧が、イエスの栄光を証言しています。ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見た」と言っている、イザヤ書6章でイザヤは何を見たのでしょうか。その日、イザヤは高く天にある御座に座しておられる主の栄光を見ました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」紀元前742年、神の寵愛を受けながら、最後に傲慢によって失脚したウジヤが死にました。彼が統治した半世紀、国は非常に栄えていただけに、彼の死は国家を不安に陥れました。その年のことです。イザヤが引き寄せられるように神殿に入ると、神殿は主の栄光に満たされていました。そして彼は天使の賛美を聞いたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」と。ここで3度くり返して、「聖なる」と歌われていますが、ヘブライ語では最も強い強調法です。聖書には、様々な神の性質が述べられていますが、3度くり返して使われるのは「聖」だけです。神は愛、愛、愛とはどこにも書かれていません。神は義、義、義とも、神は恵み、恵み、恵みとも書かれていません。しかし、旧新約聖書に1度ずつ(新約は黙示録の4章に)、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と連呼する礼拝の光景が描かれています。
その栄光の目の当たりにしたイザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中住む者」と。「災いだ」、英語では、Woe is me(私は災いだ)です。前のページを見ると、5章には「災いだ」と5回もくり返されていますが、どれも他者を呪い、裁く言葉です。「災いの原因はあなただ」と言っていたイザヤが、神の清さに触れられた時、思わずその口から漏らしたのが、「私こそ災いであった」という言葉だったのです。
イエスと共に漁に出、二層の舟が魚でいっぱいになるのを見せられたシモンは言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と。偉大な使徒パウロも、晩年、神の栄光を知れば知るほど、こう言わざるを得ませんでした。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たるものです」と。
これは単なるネガティヴ広告ではありません。自分をおとしめるだけで終わらないのです。神の清さに触れられ、「私は災いだ」と叫ぶ唇を、聖なる神は、祭壇から取った炭火を持って清めてくださったのです。祭壇とは、いけにえがささげられる場所、すなわちキリストの十字架を表す場所です。「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたのあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」と。まさに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、・・・イエスについて語ったのである」ということです。そして、そのとき、彼は主の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と懇願される主の御声を。
この夏、これまで越えられなかった信仰の一線を乗り越えて、私たちもイザヤと共に、この震える手を上げながら答えようではありませんか。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。

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信仰の一線



中学生のプロ棋士、藤井聡太四段が時の人になっていますが、
将棋好きという先生からこんな話しを聞きました。
あの中田重治先生の言葉だそうです。

「歩も死線を越えれば金になる。」

「歩」は前に一つずつしか進めない駒ですが、敵陣に入ると「金」なります。
「歩」の成金(と金)というのは、普通の「金」よりも価値があって、
勝敗を左右することさえあるというわけです。
私たちが、たとえ「歩」のように地味な存在であっても、
あるラインを越えると「金」になれるとすれば、それは大きな励ましです。
この夏、今まで越えられなかった信仰の一線を越え、自分を越えるなら、
敵陣ではなく、神の御心の中に入って行き、
私たちも神に用いられる存在としていただけるのです。

今週も大切なことを大切に。
今日は岐阜で祈り会です。

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福音には、神の義が



1517年10月31日、ビッテンベルグの城門に95カ条の提題という、神学的な問いかけがルターによってなされました。彼は、まさかその日が宗教改革記念日になるとは考えてもいなかったでしょう。宗教改革のきっかけになった御言葉がありました。詩編31編1節の言葉です。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(口語訳)。これが、宗教改革の歴史の中で、ルターの「一点突破」と呼ばれる御言葉です。(新共同訳では「恵みの御業によってわたしを助けてください」と訳されていますが、それにも意味があります。)神の義とは、神の正義、清さであって、私たち罪人と神を隔てるものであり、その義のゆえに、私たちは裁かれ、罰せられるのですから、罪ある者にとって神の義は恐ろしいものだったのです。
ルターは、神の義が私たちを裁くのではなく、「助ける」と書かれていることに違和感を感じますが、ついにルターの研究の中心となる、ローマの信徒への手紙1章17節に目が開かれ、福音の理解は一点突破から全面展開していきます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」彼はこの途轍もない発見を、「修道院の塔の小部屋において得た」と言ったことから、これを「塔の体験」と呼びます。
そうです。イエス・キリストが、一粒の麦となり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという、この福音の中に神の義は現されました。聖書は言います。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである。」
私たちは罪人でしたが、神の目から見て正しい者、義人にしていただきました。ルターの言葉です。「キリストは十字架の上で、自分ではないもの(罪人)になられた。それは、私たちが自分ではないもの(義人)となるためであった。」
イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と。ヨハネはイエスの言葉に説明を加えます。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」ギリシア人の来訪から始まった一連の記事でしたが、ここに彼らへの答えがありました。「すべての人を」、詳訳聖書では「ユダヤ人はもちろん、異邦人も、私のところに引き寄せよう」と訳されています。イエスが十字架に上げられるとき、すべての人が十字架のもとに引き寄せられ、神の愛を体験するようになるのです。この福音にこそ、神の義は示されたのです。

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最後の人



今年はルターによるドイツにおける宗教改革から500年目の年に当たっています。二つの「R」ということが強調されていると聞きました。福音の素晴らしさを再発見(Rediscovery)し、決意も新たに再スタート(Restart)することです。今年の下半期(10月31日が宗教改革記念日)は、そのことを願いながら、宗教改革の話題をちりばめてメッセージをしたいと思っています。
宗教改革の功績の一つは、すべての人が自分の言葉で聖書が読めるようになったことです。当時はラテン語が読めなければ聖書が読めませんでした。ルターを遡ること150年前、イギリスのウィクリフという人物は、宗教改革に先駆け、聖書翻訳に着手しています。その働きから、今日も彼の名が付けられたウィクリフ聖書翻訳協会という団体があります。聖書翻訳の仕事は、骨の折れる途轍もない仕事です。例えば、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」という御言葉がありますが、日本人はこの状況を頭でイメージし、罪の赦しがどんなものかを理解できます。しかし、雪を知らないアフリカの人にはそれがわからないのです。どう訳したかというと、「綿花のように」と訳したそうです。これだとアフリカの人でもわかります。
ウィクリフの人が、これもアフリカのカレ族のために聖書を訳していた時のことです。「慰め」という言葉をどう訳するかで思案していました。そんなある日、カレ族の人が列を作り、頭に籠を載せて歩いている様子を見ましたが、最後の人だけ頭に何も載せていないことに気がつきます。どの列を見ても同じです。理由を尋ねると、「列の誰かが疲れて倒れたら、すぐにその人のところに駆け寄って、その荷物を代わりに運ぶ人が列の後ろにいる」と聞き、ウィクリフの人は、これこそ「慰め」だと言って、「最後の人(傍らに共に倒れてくれる人)」と訳したそうです。
今年の初めに、イザヤ書の52章から、「しんがりとなる神」のいうメッセージを語りました。しんがりとは、最後尾で戦いを続ける部隊のことです。その言葉には「集める」という意味がありますが、しんがりを守るとは、最後尾で戦いを続けると共に、自軍が散らかしたものをほったらかしにせず集めることです。戦場では、負傷兵や遺体を引きずってでも連れ帰らなければならないように、私たちの人生の恥も失敗も傷も、神が全部背負ってくださるというのが、しんがり、「最後の人」です。そして、その最大の業は、イザヤ53章、イエス・キリストの十字架だったのです。

今週も大切なことを大切に。

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御創



昨日、今年の上半期最後の礼拝は、岐阜教会でメッセージを語らせていただきました。
以前、ブログでも紹介しましたが、新聞のコラムで読んだ「創」の話しから始めました。

「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
『十字架の黙想』の第1日に記されている聖イグナチオの「十字架に向かう祈り」を思い出します。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版では常用漢字の「傷」になりましたが、
文語版では「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
だれでもキリストの十字架の御創に接ぎ木されるなら、その人は新創造された者。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しい。

今日から京都でもたれるセミナーに参加します。
今週も大切なことを大切に。

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