人生、それは出会いの場



昨日は聖イエス会を創立した大槻先生の記念日でした。大槻先生は「人生、それは出会いの場」というメッセージの中に、第2代国連事務総長ダグ・ハマーショルドと宗教学者マルチン・ブーバーとの出会いのことを記しています。ハマーショルドは1956年のスエズ動乱に国連軍を派遣して平和維持機構をつくり、1957年にはコンゴ独立後の紛争解決に尽力し、ノーベル平和賞を受賞していますが、彼は敬虔なクリスチャンで、亡くなる2ヶ月前の日記にこう記しています。感動的な祈りです。
「神よ、私たちを憐れみたまえ。私たちの努力を憐れみたまえ。私たちが愛と信仰とに満ち、正義を尊び、へりくだって御前に出で、おのれを捨てて忠実を守り、勇気をもって、あなたの御足の後について行けますように。そして、私たちが静けさのうちに、あなたに出会えますように。あなたの御姿が見えるように、きよい心を与えたまえ。御言葉が聞けるように、慎ましい心を与えたまえ。あなたにお仕えできるように、愛する心を与えたまえ。あなたのうちに生きられるように、信じる力を与えたまえ。アーメン。」
彼が亡くなる前夜、宿泊したホテルのベッドの脇には、トマス・ア・ケンピスの著書「キリストに倣う(イミタチオ・クリスティ)」が残されていたそうです。この書は中世ヨーロッパで愛された信仰訓練のための黙想書で、今も世界中のクリスチャンが愛読しています。ハマーショルドは、マルチン・ブーバーとの出会いを通して、また中世の霊的書物との出会いを通して、その信仰を深めていったのでしょう。

今週も大切なことを大切に。

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新しい掟



イエス・キリストが十字架にかけられる前夜、最後の晩餐の席でのことです。イエスは自分に残されている時間が少ないことを強く意識しながら、その時間を大切に使われます。まず弟子たちの足を洗い、身をもって愛と謙遜の模範をお示しになりました。そして、ユダが出て行くと、「人の子は栄光を受けた」と前置きされ、弟子たちに「新しい掟」を語られました。
「新しい掟」とは何でしょう。聖書に出て来る「掟」とは、旧約聖書の律法のことですが、イエスは自らが「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われた旧約の律法に、まるで新しい1ページを書き加えるかのような発言をされたことになります。ある時、律法の専門家がイエスのもとに来て尋ねました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」するとイエスは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は(つまり旧約聖書は)この二つの掟に基づいている」とお答えになりました。
神を愛し、神に愛されている自分を愛し、その愛で他者を愛する。三つの愛です。この三つの愛を集約して、イエスは「新しい掟」を語られたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。
二つの新しさがあります。一つは「わたしがあなたがたを愛したように」という愛の標準です。もう一つは、「互いに」という言葉です。「隣人」という場合、隣人は私から見て隣の人。つまり私が出発点なのですが、「互いに」という場合は、出発点が私だけではありません。私たちが出発点です。「Identity(自己、自我)」という言葉はよく使われますが、こんな言葉を聞きました。「WEdentity」、これは造語ですが、私と他者という考えを超えて、私たちと考えて生きるということです。
十字架の死を目前にして、イエスが直々に命じられた新しい掟。イエスが愛したように、私たちが互いに愛し合うこと、ここに聖書全体がかかっているというのです。キリスト教は愛の宗教です。言うは易く行うは難し、自らの愛の乏しさに泣きたくなることもありますが、そんな時、あのメッセージを思い出しましょう。「自分には愛がないと思う人は、愛が一番たくさんある所に行き、そこにとどまりましょう。愛が一番たくさんある所、それは十字架です。」さあ、十字架に帰り、イエスが愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。

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シャボン玉



この夏、105歳で召された聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明先生が、105歳になって出版された自叙伝「僕は頑固な子どもだった」に、先生の『いのちの授業」に出た子どもたちの手紙が載っていました。

まず、女の子の手紙から。「私は日野原先生の授業を受けて初めて聴診器で心臓の音を聞きました。『ドンドン、ドンドン、ドン』と同じ間隔の音が聞こえました。その時、『聞こえた、聞こえた、よかった』と思いました。心臓は、生まれてから今まで、泣いている時、笑っている時、楽しい時、しょんぼりしている時、どんな時でも休むことなく動いているんだと思いました。そして、家族の心臓の音を考えてみました。お父さんの心臓は、きっと、やさしい音もするけれど、こわーい音がする時もあると思います。お兄ちゃんの心臓は、きっと、のんびりした音がすると思います。
そして、先生のお話で、生きていることは心も生きているんだと教えていただきました。正しい心、強い心、やさしい心、いろんなすてきな心を持って大きくなりたいと思いました。」
もう一通は男の子からの手紙です。「日野原先生お元気ですか。ぼくは、100歳以上生き、子孫たちの顔を見てみたいです。・・・話しで大切だと思ったのは戦争です。人の命をなくしてしまうからです。だからこのようなことが起こらないようにしなければならないのは『ぼくたち』です。ぼくたちが守らなければ子孫が困ります。・・・先生の演説の最後『シャボン玉』の歌が心に残りました。」

ここから日野原先生の言葉。「私は授業の終わりに、子どもたちと一緒に『シャボン玉』の歌を歌うことにしている。歌う前にこの歌詞について(野口雨情のことを)話すのだ。屋根まで飛んで、壊れて消えてしまうシャボン玉は、実は生まれて間もない子どもが死んでしまうという悲しい物語。自分に与えられている時間はやはり限りがあるけれど、その時間を大切に生きてほしいと言う思いが込められている(ある意味で祈りの歌である)ことを。」
日野原先生は、「いのちの授業」の中で、いのちとは時間であること。その時間には限りがあること。それを知っている人だけが、いのちの使い方を考え、変えることができると教え続けられましたが、ヨハネによる福音書の13章以下は、十字架の前夜、イエス・キリストが残された大切な時間を使って、弟子たちにされた最後の「いのちの授業」だったのではないでしょうか。イエスはいのちの使い方が教えてくださいます。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」

今週も大切なことを大切に。

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夜であった



ヨハネ福音書の13章21節からの「裏切りの予告」と小見出しが付けられている部分は、恵まれる内容のない箇所のように思われるかも知れませんが、ここにも深い神の愛を見いだすことができます。13章の冒頭で、イエスが世にいる弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」、最後まで、徹底的に、とことん愛し通されたという御言葉を学びましたが、ユダはどうだったのかという疑問を抱きます。しかし、「裏切りの予告」の記事におけるイエスの言葉と仕草を見る限り、イエスがユダを最後まで、この上なく愛し通されたと言わざるを得ません。
イエスは弟子たちの足を洗い、大切な決別の説教を始める前に、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と予告しました。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、この予告がなされた場面を描いたものです。弟子たちは落ち着かない様子で「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い出します。
ここで大切なのが席順です。ダ・ヴィンチの絵は西洋化されたテーブルを描いた、それも横一列というあまりにも不自然な構図ですが、実際はコの字型の低いテーブルを、イエスを含め13人が囲んでいただろうと考えられています。当時の習慣では、左肘を着いて、足を横に投げ出すように、過越の食事をしていましたが、2番が主人の席、その両隣が主賓の席と決まっていました。ペトロはその席を期待していましたが、実際には末席に座らされていたようです。イエスの右側、1番の席には、イエスの愛しておられた弟子と自らを紹介するヨハネが座っていたました。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」とある通りです。それだと、ペトロと向かい合う席に座っていたことになりますが、ペトロは裏切り者が誰なのか、イエスに尋ねるようにヨハネに合図を送りました。ヨハネは、その合図に気付き、イエスの胸もとに寄りかかった状態で、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねます。するとイエスは小さな声で答えました。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。」
すでにイエスは18節でも、ご自分が裏切られることについて詩編の言葉を引用して語られていました。「しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」と。これは詩編41編10節の引用ですが、サムエル記下15章に記されている故事が背景にあります。あのダビデ王が、息子アブサロムのクーデーターによって失脚させられたとき、ダビデの腹心の友であったアヒトフェルがアブサロムに寝返えり、ダビデにかかとを上げたのです。そこでイエスは、パン切れを浸して取り、左側の席に座っていたであろうイスカリオテのユダに、それを渡されました。ダビデはキリストのシンボルですが、キリストもダビデと同じように、腹心の友と思っていたユダの裏切りを経験されます。
この一切れのパンを浸して与えるという行為は、主人が大切な客人に対して示すもてなしの行為であり、特別なことでした。ですから、それは「ユダよ、私はあなたをこの上なく愛している。私のもとに帰って来てほしい」という最後の訴えでだったのです。なんという愛でしょう。しかし、ユダは「これを受け取った者が裏切り者だ」とささやくイエスの声を傍で聞きながら、なにくわぬ顔でそれを受け取ったのです。その結果、ユダは、愛には愛を持って応えることのできなかった残念な人になってしまいました。イエスは彼に「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました。ユダはすぐに出て行きました。ヨハネはその場面を印象的に描きます。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった」と。

今週も大切なことを大切に。

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基督のまねび



キリストこそ、謙遜と愛の模範です。イエスは言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を残したのである。」ペトロも言いました。「あなたがたが召されたのはこのためです。キリストは・・・その・・・模範を残されたからです。」
「模範」と訳されている言葉は、ギリシア語の「ヒュポグラモン」という言葉で、当時の子どもたちが字を学ぶ方法から来ていると言われています。子どもの頃、点字で書かれた文字をなぞって新しい字の書き方を覚えたり、習字の時間に先生が書いてくださったお手本に紙を重ねて、それを写したりしたことがあるのではないでしょうか。それがここで言われている「模範」という意味です。
修道者トマス・ア・ケンピスが記したと言われる『キリストにならう(イミタチオ・クリスティ)』は、古くは『基督のまねび』という題でも出版されていた中世の古典的な黙想書です。「学ぶ」の語源が「真似る」なのはよく知られた話しですね。キリストに倣うとは、キリストに学び、真似ることです。この本の冒頭にこう記されています。「私たちの第一のつとめは、イエス・キリストのご生活を黙想することにある。・・・キリストのみことばを十分理解し、それを味わおうとする人は、自分の全生涯を、キリストに一致させるようにと、努めなければならない。」
ペトロの勧めは続きます。「皆互いに謙遜を身に付けなさい。なぜなら、『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者に恵みをお与えになる』からです。」ここで使われている「身に付ける」という言葉は、やはり僕がエプロンを身に着ける場合に用いられる言葉で、キリストの洗足を思い出させます。詳訳聖書はその意味を詳しく伝えています。「あなたがたは、みな互いに謙そんを〈家僕の服を着るように〉身に着けなさい《高慢や尊大から解き放たれて、謙そんの衣をどうしてもあなたがたから脱がせることができなくなるほどしっかりと身に付けなさい》」と。
イエスの模範に倣いましょう。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。」Amen

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したとおり、するように



私の母教会である高松教会のメンバーで、聖イエス会の初期の時代からの信徒であられたT先生は、すでに故人ですが、開業医で内科のお医者さまでした。先生の病院を通して、多くの方が信仰に導かれました。私の家族もそうです。T先生は私の憧れのクリスチャンです。熱烈なタイプではなく、穏やかな誰からも慕われるような存在でした。ある年の受難週のことでした。聖餐式の前に、洗足式をすることになり、牧師も含め、信徒一同が互いに足を洗い合いましたが、T先生は、背広の上着を脱ぎ、タオルを腰に巻いて、前に座っている人の足を洗われたのです。たまたまその場に居合わせたのですが、今もその姿を忘れることができません。
イエスは弟子たちの足を洗った後、上着を着て、再び席について、「わたしがしたことが分かるか」と語り始められました。ペトロの足を洗うか、洗わないかというやり取りの中で、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われていた「後で」というのが、キリストの十字架と復活を意味しているとするなら、ここで「わたしがしていることが分かるか」と尋ねられるのは、どこか矛盾していることになります。ですから、13節以下の、イエスご自身が、どうして弟子たちの足を洗ったのかということを説明している内容については、後の時代に書き足されたのではないかという考えがあります。そうかもしれません。しかし、後で分かる意味と、今すぐ分かる意味があったとしても、おかしくはありません。
イエスは言われました。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
「互いに足を洗い合う」と言うことについては、この後、34節を見ると、「新しい掟を与える」と前置きがあり、「互いに愛し合いなさい」という言葉に言い換えられています。ですから、洗足とは、愛と謙遜の模範であって、私たちはそうするようにと召されているということです。しかも、「したこと」ではなく、「したとおりに」、つまり外側だけ真似るのではなく、内側から真似ることが求められているのです。
あの夜、誰よりも洗足の意義を学んだであろうペトロはこう勧めています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。・・・神の僕として行動しなさい。・・・あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

今週も大切なことを大切に。

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諸人登山



私たちの神は、遠くて近い神です。イザヤ書にこう書かれています。「57:15 わたしは高く聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住む。」「高く」、英語の「High」は、地上から「遠く」という使い方もします。一方で、「共に」という言葉を、ある英語の聖書では「Nigh」「近く」と訳していました。私たちの神は、「遠く」聖なる所にいます神であると同時に、心砕けて、へりくだる者の「近く」におられる神なのです。エフェソ2章17節にはこう記されています、「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました」と。
海外でも有名な葛飾北斎の「富嶽三十六景」。富嶽とは富士山の別名で、どれも美しい36景ですが、実は裏富士と呼ばれる十景を含め全46作あることが知られています。江戸時代の風景画浮世絵師であった北斎は、ゴッホなど西洋の画家にも影響を与え、リヴィエールは本作に触発され「エッフェル塔三十六景」を描いたほどです。最も有名な「神奈川沖浪裏」は、相模湾の高波の裏に見る富士山を描いたものです。
富嶽三十六景は、どの絵にも富士山が描かれているのですが、どこを探しても富士山が見あたらない絵が一つあります。「諸人登山」という一枚です。富士を遠くに探しても見つからないのは、これが富士登山の絵だからです。この岩だらけの地面こそが富士山なのです。富士山が、あまりにも大きく、そして近くてその存在に気づけないのです。
私たちの信仰もよく似ているのではないでしょうか。神があまりに大きく、近すぎて見えないのです。試練の高波の向うに神を見ることも大切ですが、自らの足もとに神を発見し、その神と共に、高い山に上る人は何と幸いでしょう。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」
今日、私たちの足もとに、富士山よりも大いなる神の山、イエス・キリストがおられます。「わたしは遠く聖なるところに住み、また心砕けて、へりくだる者の近くに住む。」「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」だから今、私たちの足を洗っていただきましょう。まだ全部が分からなくても、素直な心になり、洗っていただきましょう。

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全身清いのだ



ペトロが「手も頭も」と言ったことに対する、イエスの答えです。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだ・・・。」一見自然な文脈に思えますが、実は「足だけ洗えば」という一句が、新約聖書の重要な写本には抜けていて、初代の教父たちも、この言葉について何の言及もしていないことから、原本にはなかったのではないかとも言われています。実際、キリストの洗足は、罪の全き清めの象徴であって、後日、何かを付け足さなければならないようなものではないはずです。
エフェソの信徒への手紙には、何と記されていたでしょう。5章26節以下、「キリストがそうなさったのは、言葉の伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 ・・・栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」また、ヘブライ人への手紙10章10節にはこう記されています。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。」一度だけで十分でした。足りないものは何もなかったのです。
ところが、相当古い写本から、「足だけ洗えば」という一句が挿入されるようになります。沐浴後は足だけ洗うのが当時の習慣であったということもあるようですが、霊的なことを言えば、救われた後に犯す罪の問題が、この一句を必要としたようです。当時の指導者たちは、聖霊を受けた後に犯す罪を、「足の裏につく塵」と呼んでいます。ですから、私たちの弱さのゆえに、罪をくり返すことはありますが、だからと言って罪の原因、原罪を清めるキリストの全き救いそのものが不完全ということにはならないのです。「一度だけ(Once and for all)」とは、けりを付けるという意味です。 一度だけで十分でした。「既に体を洗った者は、全身清いのだ。あなたがたは清いのだ。」
ヨハネはこれらのことを踏まえて、晩年、彼の手紙の中で次のように勧めました。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださります」と。ヨハネの手紙一1章9節、この聖書箇所の覚え方は「119」です。キリストの救いは完全無欠です。でも日々足の裏につく塵は「119」まで。

今週も大切なことを大切に。

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神の身分と僕の身分



イエス・キリストこそ、すべての支配者、王の王です。しかし同時に、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗われた僕です。ヨハネによれば、イエスは「御自分の時が来たことを悟り、・・・父(なる神)がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」、この洗足という、本来奴隷のなすべき仕事をなされました。そこには何と大きなギャップがあることでしょうか。このギャップこそ、キリストの特徴です。
フィリピの信徒への手紙にはこう記されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・僕の身分になり・・・」。
詳訳聖書は味わい深いです。「2:6 〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、2:7 かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ、人間のさまになられました〈人間としてお生まれになりました〉。2:8 彼は、人間の姿でお現れになったのち、〔さらになお〕ご自身を低くして〈へりくだって〉、死に至るまで、しかも〔あの〕十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました。」
最後の言葉は、ヨハネ福音書13章1節にも通じます。「イエスは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(とことん、最後まで)愛し抜かれた。」これが神のなされたことです。神は、そこまでしても、あなたの足を洗い、あなたとかかわりを持ちたかったのです。
この場面での、ペトロの発言や態度は、彼の性格をよく表しています。彼の席が13番目だったとしたら、足を洗ってもらったのも最後だったでしょう。どれくらい待たされたでしょうか。ようやく自分の番が回ってきたとき、彼はずっと我慢していた思いをいっきに吐き出しました。彼は、どうしてあなたが私の足を洗うのかと抵抗したり、私の足は洗わないでいいと拒絶したり、洗わないと関係がなくなると言われると、手も頭も洗ってほしいと要求したり、とにかく極端です。しかし、9節を最後に、彼が何も言わなくなるのは、彼がここで未だ見ぬ我と出会ったからではないでしょうか。
そんな彼がしなければならなかったことは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。だから今は何も言わないで、あなたの足を洗わせなさい」と言われるイエスの前に、汚れたままの足を素直に差し出すことだけでした。

「The Servant(しもべ)」という題が付けられている絵があります。この人はビジネスマンでしょうか。立派な革の椅子に座っています。彼は頭を抱えていますが、取引に失敗したのでしょうか。それとも家庭に問題があるのでしょうか。きっと誰の人生にも、こんな風に頭を抱えこんでしまうようなことがあるのだと思います。しかし、その時こそ、私たちの足もとにイエス・キリストがいてくださるのです。この方こそ、未見の我ならぬ、未見の神です。世界の王の王である方が僕の手ぬぐいを腰に巻き、あなたの足を洗うために、ひざまずいておられます。

今日は「山の日」、名前が好きです。

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未見の我



渡辺和子先生の「面倒だから、しよう」に、相田みつをさんの詩が紹介されていました。

トマトがね、トマトのままでいれば、ほんものなんだよ、
トマトをメロンに見せようとするから、偽物になるんだよ。
みんなそれぞれにほんものなのに、骨を折って偽物になりたがる。

渡辺和子先生の文章です。
若い人はよく“自分探し”という言葉を使いますが、自分というものは、押し入れを開ければ見つかるようなものではありません。自分探しとは、私は一体どういう人間なのだろうと言うことを絶えず模索することです。失敗をしたら、その失敗をしっかりと受けとめ、成功をしたら、私にもこんないいところがあるのかと今まで気付かなかった自分に気付くこと。・・・

未見の我という言葉があります。私たちは、自分自身を全部知っているわけではありません。いろいろな人との出会いやさまざまな経験を通じて「未だ見ざる我」に気付きながら、パーソナリティを自分らしく作っていくことが、大事なのです。

先生らしい文章に心が和みます。
私たちも聖書が教えてくれる「未見の我」、ほんとうの自分と出会えますように。

昨日は礼拝後に、福井県の高浜に移動、子どもたちのミニキャンプを持ちました。
台風の予報もあったので、到着後、すぐに海水浴へ。楽しい時間を過ごすことができました。
今日は朝からあいにくの雨模様でしたが、大槻筆子先生の足跡を辿り、早めに名古屋に戻って来ました。
高浜に導いてくださった主に感謝。

今週も大切なことを大切に。

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