リベンジ

temptation
17世紀のイギリスの作家ジョン・ミルトンは、創世記3章のアダムがエデンの園を追放される物語を題材に「楽園喪失(失楽園)」を書きましたが、実はその続きがあります。それはイエスが荒野で誘惑を受ける物語を題材に書かれたもので「楽園の回復(復楽園)」という作品です。
アダムとエバは、エデンの園という最高に恵まれた何不自由のない環境において、ささいなことから始まったサタンとの会話から誘惑に陥り、ついに神の言葉を曲げるという罪を犯してしまいます。その結果、神の顔を避け、隠れなければならない事態になりました。聖書はこう言います。「一人の人(アダムの不従順)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」人類の悲劇がここに始まりました。しかし、神は愛です。聖書は続けてこう言っています。「一人(アダム)の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人(イエス)の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人(イエス)の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマの信徒への手紙5章より)
イエスは絶対に負けられないこの戦いにおいて、エデンの園での第一のアダムの敗北をみごとに償い、いのちの道を開いてくださったのです。荒野の誘惑において、エデンの園での雪辱(リベンジ)は成し遂げられた。

先週、教会員のお母様が急逝され、京都で葬儀がもたれました。日銀で38年勤め上げたキャリアウーマンですが、今から25年ほど前、何不自由のない日々の中で、魂の糧を求めて教会の戸をたたき、ついに魂の糧であるイエス・キリストを心に迎えられました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」「主よ、私たちはだれのところへ行きましょう。永遠の命の言はあなたの手の中にあります。あなたは神の聖者です。」

comments(1)  |  trackbacks(0)

edit  top

荒野の声

sound
荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘とはみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを見る。」

福音記者たちは異口同音に、洗礼者ヨハネのことをイザヤ書40章に登場する「荒れ野で叫ぶ者の声」と呼びます。その強烈な個性とは裏腹にただ「声」に徹することができた人、それが洗礼者ヨハネの魅力なのでしょう。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とは彼の真実な証です。彼はユダの荒れ野で、イザヤ書40章にある「慰めの詩」というサウンドを響かせました。それは新約時代の到来を告げるサウンドとなり、新しい生き方を求めていた人々の魂を揺り動かしたのです。
私たちへの神の召命は、この時代に対して主の声となることなのだと知りました。現代の社会という荒れ野で、不安や恐怖と隣り合わせで震えおののき、新しい生き方を求めている人に対する主の生きた声です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主を待ち望め。カヴェー・エル・アドナイ!

整えられるべき主の道とは、もちろん道路のことではありません。主を迎える人の心のことです。「谷」とは落ち込み凹んだ人の心、「山と丘」とは驕った人の心、「曲がった道」とは心の定まらない気の多い人の心、「でこぼこの道」とは感情の起伏の激しい人の心を指しているのかもしれません。さあ、主はもうすぐおいでになります。今こそ、一直線に神を求めましょう。

現在、今年の夏にもたれる全国高校生大会と宣教ボランティアの案内パンフレットを依頼されて作成中です。今日もM先生との打ち合わせがありました。主の声が若者の心に届く、インパクトのあるものができるようにお祈りください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

北風と太陽

good listener

イソップの「北風と太陽」をご存知ですか?

「ねえ、太陽くん。ぼくと君とどっちが強いと思う。」
北風が太陽に言いました。
「さあ、どっちかな?」太陽はにっこり。
その時、丘の向こうから、旅人が歩いて来ました。
「太陽くん、どっちが強いか、勝負しよう。
あの旅人のマントを脱がせた方が勝ちだ。
よーし、マントを吹き飛ばしてやる!」
北風は氷のように冷たい息をビュウと吹きました。
「うう・・・。なんて寒いんだろう!」
旅人はぶるぶる震えて、マントをおさえました。
「まだだな。もっと強く吹いてやる!」
北風が吹けば吹くほど、旅人がマントをぎゅっとおさえるので
マントはなかなか吹き飛びません。
「あれえ?おかしいなあ。」
「北風くん。こんどはぼくの番だよ。」
北風に代わって太陽が旅人をやさしく照らし始めました。
「おや? 風がやんだ! なんだかぽかぽかしてきたぞ。」
旅人は空を見上げて、大喜び。
「もっとあたたかくしてあげよう。」
太陽がますます強く照らしたので、
旅人はついにマントを脱いでしまいました。

固く閉ざされた人の心を開かせるのは愛だけです。たとえ凍りついたような心でも、太陽のように優しくあたたかな愛で包んであげられたら、必ずその心も開かれるでしょう。今週もあなたのすぐ近くにいる、あの人の隣りに座って、一緒にいてあげてください。話を聴くだけでいいのです。聴くことは愛することなのですから。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

リスニング

good listener
我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。
---エレミヤ書42の6

英語には2つの聞くがあります。「ヒアリング」と「リスニング」です。ヒアリングは自然に聞こえてくるもので、言葉を単なる音としてとらえます。しかし、リスニングは自分の意志で積極的に聞こうとすることで、言葉の意味を知ろうとします。漢字で書くと「聞く」と「聴く」の違いになります。「聴」という漢字は、古くは「聽」と書いたようですが、よく見ると「耳」と「十の目」と「心」の組み合わせです。つまり、「聴く」とは、耳を傾け心と目で言葉の意味を知ろうとすることなのです。
聖書の神は、常に語りかける存在です。ですから、聖書は「聴け」とくり返しています。語りかける神にお従いするため、毎日聖書を開き、耳を澄まてください。心と目で聴いてください。それは単なるリーディングでも、ヒアリングではありません。リスニングの時間です。さあ、今日も御言葉に傾聴し、聴従しましょう。
「主よ、お話しください。僕は聞いております。」サムエル上3の9

昨日は教区の先生方と、春休みに予定している小中学生のためのミニ合宿で利用する施設を見学しました。山間にある広々とした、とても立派な施設でした。「教会って楽しい!」「イエスさま、信じてよかった!」「こんなに良い仲間がいて、しあわせ!」とみんなが思ってくれるミニ合宿にしたいです。

comments(1)  |  trackbacks(0)

edit  top

聞き上手


ある調査によると、私たちの一日の時間の使い方は、
30%が話すこと、16%が読むこと、9%が書くこと、
そして、45%が聞くことだとか。
別の調査もある、
私たちは、言われたことの半分を耳にし、
その半分を注意深く聞き、その半分を理解し、
その半分を信じ、その半分しか覚えていない。
---「幸福セラピー」 Grenn Van Ekeren

イエスはナザレでの隠れた生活を通して、聞き従うことの訓練をお受けになられた。イエスは絶えず御父の声に耳を傾けた。両親の言葉に耳を傾けた。それは他者の声に耳を傾ける訓練でもあったのだと思う。だからこそ、救い主として宣教を始められた時、イエスはいつも人々の心の叫びに耳を傾けることができたのではないか。
上の調査を、60分話を聞く人に当てはめてみると、その半分の30分は耳を傾けて聞き、その半分の15分を理解し、その半分の約8分を信じ、その半分の4分しか覚えていない、ということになる。私たちは要するに聞くのが下手なのだ。聖書は変わりなき神の言葉。神は今も語り続けているが、私たちにはその半分の半分の半分の半分しか心に届いていない。だからもっと注意深く聖書から聴くことにしよう。そうすれば、他者の声にも、もっと耳を傾けられるようになるだろう。

最後にヤコブの言葉に耳を傾けよう。この早さはスピードではなく、優先順位だ。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」---ヤコブの手紙1の19

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

2月13日

San Damiano
主よ、あなたの火のような、蜜のような愛の力が、
わたしの心を、地上のあらゆるものから、離脱させますように。
そしてあなたが、わたしへの愛のために死んでくださったように、
わたしも、あなたへの愛のために死ぬことが出来ますように。
---聖フランシスコの小品集より「離脱を求める祈り」

かつて宴会好きで、騎士になることを夢見ていた若者がいた。
あの日、彼は廃墟と化したダミアノという教会で独り祈っていた。
屋根もない青天井の教会だ。心地よい風が頬をなでる。
ただ古びた十字架が雨ざらしのまま置かれていた。
何か話したいことがあるような表情に見えた。

遠くで雲雀が鳴いている。まるで歌っているようだ。
若者は目を閉じた。・・・静かだ。もう雲雀の声も聞こえなくなった。
彼は行くあてもなくこの教会にたどり着いた。
彼は行くべき道を求めていたのだ。彼は祈り始めた。

どれくらいの時間が過ぎただろう。
若者はただならぬ気配を感じ、目を静かに開けた。
誰もいない・・・。彼はあの古びた十字架をじっと見つめている。
その時だ! キリストの口が動いた。
若者はその声を聞いた。
「倒れかかっている私の教会を建て直せ。」
彼は「そうします」と答えた。そして、立ち上がった。
その時だ! 歴史は動いた。

キリストはずっと待っていたのだ。彼が来るのを。
キリストはずっと待っている。あなたが来るのを。
今日も、そして明日も。
---2月13日・記

comments(1)  |  trackbacks(0)

edit  top

始まり

なかよし
ユダヤ教のラビが弟子たちに質問した。
「夜の終わりと一日の始まりとの境は、どこで見きわめるのか。」
「それは遠くにいる動物が、どんなものであるか識別できる時です」
「遠くに立っている木が、何の木かわかる時です」
と同じような答えが返ってきた。
「いいや、そうではない」とラビ。
「男の顔を見たとき、それが兄弟たちであるとわかった時だ。
女の顔を見たとき、それが姉妹であるとわかった時だ。
お前たちが人を見て、兄弟姉妹と認めないなら、
太陽がどんなに昇っても、この世は夜のままなのだ。」

聖霊様によって心を一つにされるよう常に努力し、互いに仲良く暮らしなさい。
---エペソ4の3リビングバイブル
どうか、せっかく差し出された愛を拒まず、神様と和解してください。
---競灰螢鵐硲気裡横哀螢咼鵐哀丱ぅ屮
今日も和解の言葉を語り、赦し赦され、すべての人と和らぎを得ましょう。良き一日はそこから始まるのですから。

今晩は南区元塩町で家庭集会が、明日は長久手の児童館で月に一度の教会学校がもたれます。お近くの方があられましたら、足をお運びください。詳しくは教会の方までご連絡ください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

jeans

jeans
アメリカの教会で本当にあった話です。ある大学で開かれたクリスチャンの集まりで、一人の学生がイエス・キリストを信じました。彼の名はジム。彼はいつもシワシワのTシャツを着、穴のあいたジーンズを履いていました。それが彼のスタイルでした。次の日曜日、彼は大学の前にある教会に向かいました。
生まれて初めて教会です。その教会は保守派の教会で、みんなスーツにネクタイ、女性も正装が当たり前のオーソドックスな教会でした。ジムはそんなことも知らず、いつもの格好で礼拝堂の中に入ります。もう礼拝が始まる時間で礼拝堂は満席でした。ジムは通路を歩きながら、自分の席を探して前に進みます。
会衆はジムの姿を見て言いました。「なんだあの青年は。」「だらしのない格好をして。」「何をしに来たんだ。」ジムは講壇の前までやって来ると、そこに腰を下ろしました。それは大学でいつもやっていることで、彼にとっては特別なことではありません。会衆席からは冷たい視線がジムに向けられています。
その時です。一人の教会役員が立ち上がりジムに近づいて行きました。みんなは彼がこの青年を注意し、外につまみ出してくれるだろうと思いました。ところが、役員は講壇の前でおもむろにスーツを脱ぎ、ネクタイを緩めたかと思うと、ジムの隣に座ったのです。……ジムはもう一人ではありません。彼の隣りでいっしょに礼拝をしてくれる仲間が側にいたからです。
その日、講壇に上った牧師はこう語りました。「みなさんは、今日お話しする私のメッセージを何日かすれば忘れてしまうでしょう。しかし、今ここで見た光景は、このメッセージはいつまでも忘れることがないでしょう。」

今週、誰かが一人ぼっちでいるなら、その人の側に座ってあげましょう。
「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10の37)

comments(2)  |  trackbacks(0)

edit  top


ビリー・グラハムのクルセードがスコットランドのグラスゴーで開かれました。その日、その地区で日雇いの仕事をしている男が救われました。彼は貧しさから荒れた生活をしていましたが、イエスを信じ一変しました。日曜日には欠かさず教会に行き、多くの友人を教会に誘いました。ある日彼は仕事場で、頬に刀傷のあるいかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼なら相手にしなかったのですが、神によって変えられた彼は他の人々が寄りつかないような、この男と進んで仕事をしました。昼休みに二人は煉瓦の山に腰を下ろして、ぽつりぽつりと世間話を始めました。彼は「明日、おれと一緒に教会に行かないか」と顔に傷のある男を教会に誘いました。突然のことに、刀傷のある男は、「この俺が!!」と驚きました。そしてこの男は悲しそうに言いました。「俺なんか駄目さ。こんな傷のある男を誰が受け入れてくれると言うんだい。」しかし変えられた男は言いました。「安心しろ。俺たちを受け入れてくださるお方がいるんだよ。そのお方は十字架の上でもっとひどい傷を負われたんだ。俺たちのために。」

明日は2月のオープン礼拝です。どんな傷も凹みも必ず癒されます。ぜひ、日曜の朝、教会に足をお運びください。ご来会をお待ちしております。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

水面

新年聖会
「ぶどう酒なくば、喜びなし」とは、ユダヤの格言である。ぶどう酒は人生に喜びをもたらすものであり、ユダヤの祭儀には欠かすことのできないものだった。特に婚宴の席には。そのぶどう酒がその宴の最中に底をついてしまったら。
ヨハネ福音書のカナの婚礼のストーリーはまさにそんな話だ。このハプニングにいち早く気づいたマリアは「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに告げる。彼女は主を待ち望みつつ、召使たちに言う。「この方が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と。主の奇跡が始まった。「水がめに水をいっぱい入れなさい。」しもべたちは何が起こるのかもわからずに黙々と水を汲んだ。言われたとおりにかめの縁まで。主の御顔が水面(みずも)に映された。
ユニークな解説がある。地から湧いた水は創造主の御顔を拝し、顔を赤らめた。するとぶどう酒になった。そうことでもなかっただろうが、コック長のもとに運ばれた水は香り高いぶどう酒に変えられていた。しかも、初めのものよりも優った天来のぶどう酒に。これがイエスのなさった最初のしるしである。

昨日の聖会後、すぐに記していただいた感想文(fast impression)があります。ホットな感動が伝わってくる感想が多く、読んでいてとても恵まれます。多くの人がメッセージを語られる牧師のうちに主の御顔を拝したと記していました。それだけで、どんなに恵まれた聖会であったかがわかります。
水がぶどう酒に変えられたように、私たちの心の水面に主の御顔が映されるとき、私たちもきっと必ず変えられていくでしょう。感謝です。

comments(2)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me