手
戦火に焼かれた町で、教会堂の再建がいち早く始まりました。瓦礫と化した会堂を取り崩して、片付けていると、両の手を失ったキリストの御像が出てきました。やがて、新会堂が完成しました。新しくキリスト像を建てようという話が出たとき、両手を失った御像があることを思い出し、取り出してきました。人々は、この痛ましいイエス像を見ていましたが、結局それをそのまま使うことになりました。そして、台座にこう刻みました。 "Christ Has No Hands But Ours" (イエスは手を持っていない。私たちのほかに)と。

イエスは私たちに触れ、私たちを癒されただけではなく、癒された私たちの手を通して、多くの人に触れたいと願っているのだ。主が重い皮膚病の男に触れたとき、彼の人生が全く変えられたように、主は私たちのこの手を通して、多くの人に触れ、世界を変えようとしておられるのだ。
今週、私たちがだれかによって、キリストの手となることができるように。
「主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人々を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日私のこの手をお使いください。」 Mother Teresa

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倉庫

warehouse
ロンドン在住のビジネスマン、リンゼー・クレッグは、自分が所有する空き倉庫を売ろうとしていました。その倉庫は傷みが激しく、かなりの修理を必要としていました。泥棒が入ったため、扉が破損し、窓ガラスは割れ、内部にはゴミが散乱した状態でした。ひとりの買い手が現れたとき、リンゼーはこう言いました。「物件を渡す前に、破損箇所の修理をささせていただきます。」するとその買い手は、「その必要はありません。私が欲しいのはこの土地だからです。ここに全く新しい建物を建てるつもりです」と言いました。

私たちの人生にも、これと同じ事が起こります。私たちは、自分の人生を修復しようとしますが、神はそれには関心を示されず、「私は新しい人生を造り出そう」と言われます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しくつくられた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」競灰螢鵐硲気裡隠
明日は5月の最後の礼拝です。明日も主の新しさに期待しましょう。

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使用可能

net
イエスはシモンの舟に乗り、そこから群集に向かって語り始めました。
どうしてシモンの舟が用いられたかわかりますか? そこにシモンの舟があったからです。彼の舟が岸につながれたばかりで、利用可能であったからです。
英語で「available」と言えば、「利用できる」とか「使用可能な」という意味ですが、多くの人は神に用いられるために経験や能力、才能や賜物、そして強い信仰が必要であり、それがなければ用いられないと考えています。
しかし、主はいつ、私たちが持っていないものを求められたでしょうか。主はいつもそこにあるもの、使用可能なものを用いられるのです。
舟は教会のシンボルですが、同時にシモンの生活を支えているもの、彼の日常そのものでした。この舟が、その日、神の言葉が語れる講壇となろうとは、いったい誰が想像できたでしょう。ある説教者が言いました。「あなたの舟も神の聖なる講壇となろう。」どうか私の舟(生活)が神の講壇となりますように。用意はできていますか?「主がお入り用なのです。」

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Call of Jesus

ANGEL
多くの人がカルカッタの人々と貧民街の死に行く人々を見たから、私が憐れみの心を抱き、愛の実践をしたと思っているでしょうが、そうではありません。そうではなく、すべての始まりはイエスの呼びかけ(Call of Jesus)であったのです。
---Mother Teresa

私たちは何ごとにも理由を求めます。保証がないと不安です。見てからでないと始められないのです。しかし、信仰はいつも聞くことから始まります。そして、聞くことはキリストの言葉によるのです(ローマ10の17)。理由がなくても、保証がなくても、「ただあなたのお言葉だから」、それだけでいいのです。時にはためらいも、躊躇も、戸惑いもあるかもしれません。しかし、あなたが人生における奇跡の大漁を期待するなら、常識さえもくつがえす、神の現実とその言葉を信じることです。
神の憐れみの大海が広がっています。お言葉に従い、その深みに漕ぎ出し、網を降ろすなら、何かが起こるのです。私たちの常識やプライドという網が破れるほど、すばらしい神の奇跡が。今週も主を期待しつつ。

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ためらい

hosanna
英国の大伝道者ジョン・ウエスレーは、1783年5月24日の日記にこう記しています。「私は今日、かなりためらいながらアルダスゲート通りの集会に出席した」と。それは彼がアメリカでの挫折と失敗を経験した直後のことでしたが、「かなりためらいながら」出席した、その一回の集会で彼は聖霊の刷新を経験し、新たに生まれ変わりました。この日が、ウエスレーの聖化(メソジスト)運動の原点となります。今日、「かなりためらいながら」ここに来られた方があるなら、今日はその人のためのアルダスゲートの集会です。

昨日は大阪の高槻にある聖イエス会ホサナ教会でもたれたペンテコステ聖会に招かれ、メッセージを語らせていただきました。この教会でメッセージを語るのは3度目、11年ぶりの訪問でした。田んぼの中に立っていたはずの教会が、都市開発で辺りは様変わりし、住宅密集地となっていたのに驚きました。時の流れは早いです。この教会の佐藤捷雄牧師ご夫妻には中学生の頃から、何かとお世話になってきました。特に高校一年の夏、私は佐藤牧師の集会で伝道者としての召し出しをいただきました。あの集会がなければ、今日の私はなかったかもしれません。あの夜、かなりためらいながら出席した一回の集会で、私も神さまに捕らえていただいたのです。

今日は岐阜の先生方と勉強会。明日は教会で母の集い、水曜日は名東区、金曜日は南区の家庭集会。木曜日は定期の祈祷会。そして、土曜日はハッピーサタデーです。人生が変えられるようなすばらしい集会が続きますように。

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確認

spring
あなたがたが祈るときは、奥まった部屋に入り、隠れたところにおられるあなたの父(神)に祈りなさい。---マタイによる福音書6の6

朝、静まって祈るとき、二つのことを確認しましょう。
第一に、神の確認です。祈りを始める前に、神の現存を確認します。イエスであっても、このことを抜きにしては何も始められませんでした。心のプラグをいのちの源である神に接続しましょう。「神は私のうちに、私は神のうちに」と。
第二に、使命の確認です。それは計画の決定と言うこともできます。祈りのうちに、一日のスケジュールを確認し、そのために祈ります。また、今日出会うことになっている人たちのために執り成し祈ります。闇雲に、惰性的に一日を過ごしてしまわないように、祈りの中で優先順位を確かめることが必要です。
一日のひとつひとつの営みが、この密室での営みから始められますように。密室において与えられた恵みの露が、知恵が、力が、壷の油が満ちるように十分に満ちたと感じられるなら、いのちに溢れた一日となるでしょう。

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Come and Go

welcome
ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされてきたのだ。---ルカによる福音書4の43

宣教に対する熱い思いを語られたイエスが、宣教に出て行く前にされたことがありました。イエスの秘密、それは宣教に出て行く前に、父なる神の前で静かな時を過ごし、たくさん祈られということです。
伝道に出て行く前に(人の前に立つ前に)すべきことがあります。Go(出て行く)の前にすべきこと、それはComeです。主が「私のもとに来なさい」と言われたComeです。私たちのComeがGoを決定するのです。私たちが神の前に立つ(座する)静思のときのクオリティが、私たちの働きのインパクトとなるからです。「Come unto me」私のもとに来なさい。そして、「Go in to the world」全世界に入り込んで行きなさい。Come and Go! この順番が大切なのです。

昨日は礼拝の後、近くの公園で、2年ぶりに名古屋に戻って来られた伊藤エリ子先生を歓迎する会がもたれました。春の気持ちの良い空の下、楽しいひと時でした。

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行列

医者であるルカは、シモンの姑の病状を「高い熱に苦しんでいた」と記しましたが、二つの考えがあります。一つはマラリヤのような生死に関わる大病であったという考えと、もう一つはちょっと風邪をこじらせて寝込んでいたという考えです。案外、後者だったのかも知れません。しかし、どちらにも意味があります。私たちが抱えている問題がどんなに大きくても、その病が難病奇病、不治の病であったとしても、主には癒す準備があるということ。また、私たちの心配ごとが、人に話すのも恥ずかしいほど小さな悩みであったとしても、主にはそれを癒す準備があるということです。そうです。イエスには大きすぎる問題も、小さすぎる問題もないのです。

昨日の礼拝で、先日の京都の聖会で紹介していただいた証をDVDで見させていただきました。海外の有名大学で長年に渡り教鞭を執られたTさんが、不思議な神の導きにより、昨年の秋、60歳にして神学院に入学されたという証です。数年前にフランスのアルスにある聖ヴィアンネーの司祭館を訪れたそうです。そこには当時のままの司祭の住まいが残っており、壁には司祭の一日のスケジュール表が掛けてありました。スケジュール表には、一日に16時間以上も告解室に座っている司祭の一日が細かく記されていました。その時に、Tさんの目には司祭に自らの罪を告白し、祈ってもらうために並んでいる人々の列が見えたそうです。当時、フランスは革命の後で、教会は閉鎖され、人々の心は神からは離れていました。そのような中、だれに強要されるのでもなく、司祭に話を聞いてもらいたい、そして祈ってもらいたいと熱望する人々の行列ができたというのです。Tさんはこう言いました。「聞いてもらうことを必要としている人には耳となり、受け入れられずに愛に飢えている人々には愛を与える存在となりたい」と。今という時代の人々が神のもとに立ち帰るために、最も確かな方法がここにあると思いました。それこそ、一人一人に手を置いて祈られたイエスの宣教でもあったのです。

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真実と和解

春の音楽礼拝
「マンデラの名もなき看守」という映画が5月から公開されます。南アフリカ共和国初の黒人の大統領であり、ノーベル平和賞の受賞者でもあるネルソン・マンデラの生涯を映画化したものです。白人優位、人種差別で知られたアパルトヘイト政策に毅然として立ち向かったマンデラは27年に渡る投獄生活の後、ついに大統領となります。「この国に必要なのは正義ではなく、憐れみである」と語った彼は「真実と和解の協議会」を設立しました。それは、加害者が真実を全て告白し、被害者に謝罪することによって恩赦を受けるというものでした。ある公聴会のこと、元警官のバンデ・ブロイクという白人が被告席に着きました。彼は18歳の黒人の少年を拳銃で撃ち殺し、火で焼いて燃やしました。数年後、その少年の父親も彼に捕らえられ、母親の見ている前で焼き殺されます。委員長が母親に「何か言いたいことは」と尋ねると、彼女は落ち着いた調子で言いました。「どうか、主人を焼いた場所の灰を持って来てください。」それから言葉を続けました。「私はバンデ・ブロイクさんに家族を奪われました。でも私にはまだ愛がたくさん残っています。ですから、月に二回、私の家に来て一緒に過ごしてください。そうすれば私はブロイクさんの母親のようになれるかもしれません。そして、ブロイクさんが神に赦されていること、そして私も彼を赦していることを知ってほしいのです。」そう言って、委員長に「彼を抱きしめてもいいでしょうか」と尋ね、被告席に近づきました。その時、そこにいた人々の口から期せずして「アメージング・グレース」が歌い始められ、バンデ・ブロイク自身は思いがけない出来事に気を失ってしまったと言われています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
---コリントの信徒への手紙二5の20

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視点

No Wonder They Call Him the Savior
"No Wonder They Call Him the Savior" by Max Lucado

昨日に続き、ミニ合宿で語ったメッセージを短くシェアーします。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。---ルカ23の34
主が十字架上で語られた7つのことばの最初のことばです。主はアダム以来、全人類のすべての罪を私たちに代わり父なる神に謝罪してくださいました。イエスは「言われた」という表現には、未完了過去という独特な時制が使われています。未完了過去とは、ある動作がまだ完了していない状態、継続、反復されていることを表します。ですから、イエスはこの祈りを一度だけではなく、何度も何度もくり返し、今も祈り続けているということになります。あのパッションという映画では実際にイエスが何度もこの言葉を口にしていて、感動しました。私が弱さのために、また無知なために、罪や過ちをくり返す数だけ、イエスはこの祈りを祈り続けていてくださるのです。

今日の一枚はクリスチャン・ベストセラーのマックス・ルケードの「No Wonder They Call Him the Savior」です。鬼才サルバドール・ダリの「十字架の聖ヨハネの十字架」が使われています。この絵は十字架の聖ヨハネというカルメル会の修道士のスケッチからインスピレーションを受けて描かれたものと言われていますが、父なる神の視点で十字架が描かれています。父なる神は苦しみもだえつつ、罪人の赦しを祈る御子の姿をこのような角度からご覧になられたのでしょうか。その光景は二千年後の今日も変わってはいないのです。

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