失敗学

今日は教会で婦人の集いがもたれました。「聖書流・生き方」シリーズの5回目で「失敗学の法則」について学びました。失敗学という学問を定義すると「過去の失敗例をデータベース化し、それを社会の発展のために役立てる方策を研究する」ということになります。失敗の多い私たちですが、失敗を失敗で終わらせない聖書的な生き方を身につけたいものです。

1800年代半ば、アメリカにこういう男がいました。
青年時代に、田舎で苦労して店を出したが経営不振で閉店。
器材を買って測量技士の仕事を始めたが、それも失敗。
器材を売り払っても借金が残った。
元手いらずの仕事を探して、軍隊に志願。
運よく隊長に任命されたが、すぐに兵卒に降格となり、最後は除隊処分。
愛する女性と婚約にまでこぎつけて喜んでいたが、相手は急死。
苦労の末、独学で弁護士になったが、開店休業状態。
正義感が厚かったので政治家になる決心をしたが、立候補するたびに落選。
その後も、落ちたり当選したりをくり返したが、
ついに1861年、アメリカ合衆国第16代大統領に選ばれる。
この男の名は、奴隷解放の立役者、アブラハム・リーンカーンだ。
失敗の中にこそ「成功の種」があることを覚えよう。

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When God Run

ケーキ
まだ遠く離れていたのに、父は彼を認め、哀れに思って走りよ・・・

イエス・キリストの時代、中東では一家の家長が、人前で「走る」ことはなかった。
ドタバタと落ち着かない様は、父としての威厳を損なうと考えられていたからだ。
実際、当時の衣装は長衣で、それを着たまま走ることはできない。長衣を腰まで捲り上げて走ったのだ。愛する息子をめざしてまっしぐらに走る父の姿。聖書の中で最もアクティブな神の愛を表現している場面であろう。
父は息子の首を抱き、何度も何度も口づけをして言ったにちがいない。「おかえり。おかえり」と。これが福音なのだ。

When He ran to me, took me in His arms Held my head to His chest, said my son's come home again Lifted my face, wiped the tears from my eyes With forgiveness in His voice He said Son, do you know I still love You.

昨日の夕方、バースデーケーキが届き感激でした。ありがとうございました。

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サイズ

Narnia
C.S.ルイスの「ナルニア国物語」がディズニーによって映画化されています。今年は第2章「カスピアン王子の角笛」が上映されました。年内にもDVDが出るようです。物語の中で、ルーシーという登場人物の少女が久しぶりにナルニア国に戻り、アスラン(キリストを暗示しているライオン)と再会する場面があります。ルーシーはアスランにこう言います。「アスラン、大きくなったのね。」するとアスランがこう答えます。「ルーシー、それは君が成長した証拠だ。年毎に君が成長するにつれて私が大きく見えるのだよ」と。

私たちもまた、このような体験をします。日々、キリストを知れば知るほど、その恵みを体験すればするほど、キリストが偉大に見えてくるのです。あなたの目にキリストはどのようなサイズに映っていますか?

明日は9月のオープン礼拝、夏の終わりのコンサートです。ぜひ、お出掛けください。礼拝後、ささやかな昼食を用意していますので、日曜の昼下がり、教会でのんびり、お過ごしくださいませ。ご来会をお待ちしております。

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教訓

Rainbow
有名なノアの箱舟の物語をご存知ですか? 創世記7〜8章をお読みください。
ノアから学ぶ教訓です。

1、船に乗り遅れないように。
2、人は皆、同じ船に乗るのです。
3、前もって計画するように。ノアは雨が降る前から箱舟を造り始めました。
4、いつも体調を整えておくように。600歳になってから、大きな仕事を任されることもあるのですから。
5、人の批判に耳を傾けないように。なすべき仕事を速やかに行うように。
6、あなたの将来を低地ではなく、高台に築くように。
7、安全のために、ふたり(ペア)で旅をするように。
8、速いことが常に長所だとは限りません。カタツムリもチータも、ともに箱舟に入ることが出来たのですから。
9、ストレスを感じる時は、少しの時間、のんびりと浮かんでいたらどうですか。
10、箱船を造ったのは素人で、タイタニックを造ったのはプロでした。
11、嵐がいかに大きくとも、神が共にいるなら、その先には必ず虹を見ます。

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臨在

presence
あなたは、日常生活の中に臨在されるキリストを知っていますか。
マルコの福音書に、「・・・あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。・・・イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」(16の6〜7)という言葉があります。
この言葉は私にとって祝福となっています。私は日常活動の中で、私が出席するすべての会議、人との出会い、訪問に、よみがえりの主が共におられることを意識します。私がその場に行く前に、キリストはすでにそこに行っておられ、私を待っていてくださるのです。最近では、仕事を始める前に、マルコ福音書16の6〜7を黙想する習慣が付きました。そしてこう祈るのです。
「主よ、私はこれから○○街の○○番地に向かいます。そこで○○さんに会いますが、これはあなたが用意された出会いであることを感謝します。」
「主よ、きょうは入院中の○○さんを訪問します。そこにあなたがいてくださることを感謝します。」その場に着くと、私は自分の思いに関心を払うよりも、キリストの臨在に関心を払い、キリストの命じることに敏感に応答する状態になっています。

主よ、今日も私の行く先々にご一緒してください。

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確信


「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも・・・。」
メシアの露払い的存在として、その到来を民衆に告げ知らせた洗礼者ヨハネが獄中からイエスに伝言した言葉です。どうして、そのように尋ねたのか、どうも腑に落ちません。聖霊に導かれ、胸を張って「見よ、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを指差して紹介したヨハネです。ルカ福音書には、ヨハネが生まれる前から、エリサベトの胎にいる時に、マリアの訪問を受け、主の母上が来られたことを喜び踊ったと書かれているほどです。この期に及んで、いたずらにイエスがメシアであるかどうかを疑ったとは考えられません。彼は自分の死が近いことを感じ、イエスこそ「来るべき方(メシア)」であることを、イエス御自身の口から聞きたかっただけなのです。そう思えば、ヨハネの伝言は疑問文というより、告白文であったのかもしれません。それなら、どう訳せばよいでしょうか。ヨハネは二人の弟子を遣わして、こう告白しました。「あなたこそ来るべき方です。あなたのほかに、私たちはだれを待つべきでしょう。」
私たちは信仰がぶれたり、ひるんだりすることがあります。薄氷の上を歩くような、頼りなく、おぼつかない信仰しか持ち合わせていないかもしれません。しかし、聖書は勧めます。「あなたの確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いがあるから」(ヘブライ11の35)と。

高校生大会に参加されたみなさんへ
今日から新学期という方が多いと思います。昨日の夜、「全国高校生大会、その後」というレポートをまとめながら、感動を新たにしました。夏休み前のあなたと、大会後のあなたはまるで別人のようでしたね。ヤコブがイスラエルに変えられたように。
新学期、神の恵みを体験したあなたを通して、あなたの学校に、あなたのクラスに、神の祝福が広げられていきますように。祈っています。

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天下一

茶
茶の道は形ではなく心だという話。
茶道家の千利休が、宇治の茶師・上林竹庵から茶会の招きを受けた。利休は数人の門弟を連れて竹庵の家を訪れた。竹庵はたいそう喜んで、さっそく利休たちを茶室に通し、みずから茶を点てて客にすすめた。だが、あまりに緊張したせいか手元がふるえ、茶杓が手の上から滑り落ちたり、茶碗を倒したり、さんざんな不手際を演じた。利休の門弟たちは互いに袖を引き合い、腹の中で冷笑していた。
ところが、茶会がすむと正客の利休が、「きょうのお亭主のお手前は、天下一でござった」と言って、賞賛した。
帰り道、門弟のひとりが利休に尋ねた。「あのような無様なお手前を、なにゆえ天下一などと言ってお褒めなされたか。」
「上林竹庵は、この利休に手前を見せようと思って我々を招いたのではない。ただ一服の茶をふるまおうとして招いたのだ。それゆえ、湯の冷めぬうちにと思い、不手際も気に留めずただ一心に茶を点てた。その心意気を褒めたのである。」

明日は8月最後の聖日です。たとえ人の目には無作法があっても、格好が悪くても、真心のこもった礼拝を捧げましょう。一期一会、天下一の礼拝を。

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見えざる手

Hand of God
「見えざる手」とは、英語で「インビジブル・ハンド(invisible hand)と言います。『国富論』を書いたアダム・スミスは、社会の繁栄を予定調和的に約束する神の摂理のことを、「見えざる手」と名付けました。スミスの経済理論に関しては、賛否両論あるでしょうが、「見えざる手」という造語は見事なものです。
ルツ記のルツがボアズの畑に行ったのは、この「見えざる手」に導かれたからです。「見えざる手」は、きょうも私たちの人生に働いています。日常生活の中に、「見えざる手」を見る人は幸いです。今日も神の「見えざる手」を発見しましょう。

昨夜、名古屋も激しい雷雨に見舞われました。最近、よく耳にする「ゲリラ豪雨」というやつです。各地で避難勧告が出され、眠れぬ夜を過ごされた方も多かったかもしれません。朝は青空も見え、落ち着いたように思えますが、しばらくは注意が必要ということです。教会員のみなさんも守られています。

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「もう泣かなくともよい。」主の言葉には慰めがあります。悲嘆に暮れているやもめに、泣いてはいけないと言っているのではありません。泣くのが間違っていると言うのでもありません。「私に涙をぬぐわせてください」と言っているのです。
涙が止まらないことがあります。もう泣くのを止めようと涙を禁じている人があります。でも、主の前で泣いてもいいのです。いや、どうせ泣くなら主の前で泣けばいいのです。主はあなたと共に泣いてくださり、その目から涙をぬぐってくださるからです。「もう泣かなくともよい」という主の言葉を聞いて、見上げた寡婦が見たもの、それはキリストの涙だったのではないでしょうか。
私たちの主は、このようなお方なのです。

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憐れみ

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
岩波書店が出している聖書では、「主は彼女を見て、…腸がちぎれる想いに駆られ」と訳していました。「憐れみ」、英語の聖書では、コンパッションとかシンパシー(共感)と訳されますが、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」という言葉で、福音書の中だけで12回使われています。ひとつの例外を除けば、どれもイエスの心情、あるいは神の人間に対する痛み、感情(God feeling)を表現する文脈で使われています。それは、腸(内臓)に棒を突っ込んでかき回すという意味で、「断腸の思い」とも訳すことのできる言葉です。
他の箇所ですが、リビングバイブルはこの言葉をみごとに訳しています。「イエスの心はずきずきと痛みました。」愛そのものであられるキリストは、この泣き悲しむ婦人を見て、深い同情を寄せつつ、その悲しみを担われたのです(イザヤ53の3)。

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