答えてください

祭壇
エリヤとバアルの預言者との対決が始まります。「あなたがたは、あなたがたの神バアルの名を呼びなさい。私は私の神、主の御名を呼びましょう。そして、火をもって答える神を神としましょう。」バアルとアシュラの預言者850人は狂ったように叫び踊りました。しかし、何の声もなく、答えるものもなく、顧みるものもありませんでした。いよいよエリヤの番です。彼はまず、崩された祭壇を修復しています。それは神との関係の回復を意味していますが、カルメル山に起きたイスラエルの歴史を変える宗教改革は、神との関係の回復から始まったということです。
エリヤは祈りました。「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルではあなたが神であることを、また私があなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってすべてのことを行ったことを、今日知らせてください。主よ、私に答えてください。私に答えてください。主よ、この民にあなたが神であることを知らせてください。」
エリヤはこう祈っているのです。主よ、今まで私はあなたの言葉に従って来ました。それは不完全であったかもしれません。しかし、あなたの言葉を信じ、あなたの言葉を恥じることなく、あなたの言葉を実現させるために今日までやって来ました。今度はあなたが私に答えてくださる番です。
大胆な祈りですが、エリヤの御言葉に対する誠実さからあふれて来た祈りです。「エリヤも人なり、我も人なり」、私たちも御言葉の上に堅く立って、祈りましょう。

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」を私は求めている。主は今日も御自身の火を降す祭壇を探しておられます。そして、今日も、ここに一つの祭壇を見つけられました。壊れていた祭壇とはあなたのことです。さあ、共に祭壇を築き直し、勝利の方程式を信じ、主の言葉を実現させていきましょう。

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どっち

fence
昨日の続きです。カルメル山に集まって来たイスラエルの民を前にして、エリヤが語った言葉を聞いてください。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」

「どっちつかず」とは、英文では「フェンスの上に座る」という表現になっています。
一方の足をフェンスのこちら側に、もう一方をあちら側に降ろしている状態です。このようなダブル・マインド(ふたごころ)の状態を聖書は愚かな生き方だと言います。
イスラエルの民は、主なる神を完全に捨てていたわけではありません。真の神がだれであり、自分たちがどうしなければならないのかもよく聞いて、わかっていました。しかし、それを行おうとはしなかったのです。罪と快楽の生活を捨てることができなかったからです。
あなたはフェンスの上にまたがっていませんか?「主が神であるなら、主に従え。」良い決断をしましょう。

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One+God=V

向日葵
列王記上18章に記されている有名なカルメル山での戦いをご存知ですか?
神の預言者エリヤとバアルの預言者たちとの対決です。全国高校生大会で取り組んだ「燃えるたいまつ」のメッセージにも登場するストーリーです。
カルメル山は、イスラエルの北西、地中海を見下ろすなだらかな丘です。イスラエルと異教の地フェニキヤとの国境にあり、さながら光と闇、命と死の境界線での戦いという感じです。戦いの場所がカルメル山であると聞いたアハブ王はしめたと思ったでしょう。そこはバアルが住む山と言われていた、自分たちのホームグランドであったからです。しかもバアルの預言者450人と、バアルの妻であるアシュラの預言者400人。合わせて850人対エリヤ1人の戦いです。エリヤには勝ち目がないと思われました。しかし、この戦い、850対1に見えますが、実はそうではありません。正確には、850対1+神の戦いであったのです。神がご一緒でなければ、完全アウェイ、850対1の戦いにだれも勝つことはできません。
One+God=Victory。これこそ神の国の勝利の方程式なのです。
さあ、目の前に立ちはだかる問題に向かって大胆に宣言しましょう。「私には神がついています。神が私たちの味方であるなら、だれが私に敵対できようか。私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる。神には何でもできないことはありません」と。

全国高校生大会に参加された皆さん、お元気ですか? 大会の写真と感想文を特設サイトにアップしています。名古屋教会のHPのリンクからアクセスしてください。パスワードが必要です。パスワードは教会の先生に尋ねてください。

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The first stone

the first stone
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。
---ルカ6の37〜38

ヨハネによる福音書8章にこんなストーリーが記されています。姦通の現場で取り押さえられた女性を、人々が石で打ち殺そうとしています。イエスは彼らをたしなめて言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。人々はその言葉を聞くと、年寄りから始めて、一人一人その場を立ち去り、ついにイエスとその女だけになります。イエスが「婦人よ、あの人たち(あなたを裁き、罪に定めようとしたあの人たち)はどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と尋ねると、女は「主よ、だれも」と答えます。そこでイエスは言われました。「私もあなたを罪に定めない。あなたの恥ずかしい過去も、罪も過ちもここに置いて、さあ行きなさい。」
ある英語の聖書では、「罪のない者が、最初の石(The first stone)を投げなさい」と訳されています。こんな話を読みました。「人間関係に行き詰まり苦しんでいた私は、牧師に相談に行った。すると、牧師の書斎の机の上に、こぶしほどの石が一個置いてあるのに気がついた。石には「The first stone」と書かれていた。私は『この石は何ですか?』と尋ねてみた。牧師は、『それは、ヨハネ8章7節の石です。私が人を裁き、だれかに石を投げることがないように、ここに置いてあるのです』と答えた。牧師に相談に行った私だったが、もうそれ以上、何も聞く必要がなかった。」もし今日あなたがこぶしの中に石を握りしめているのなら、その石を誰かに投げつけようと思っているなら、今日主の声を聞いてください。「あなたがたの中で罪のない者が、石を投げなさい。」

全国高校生大会まで、あと1日。みんなで祈りましょう。

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太陽

over the river
ヤコブがペヌエル(=ヤボクの渡し)を過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。
---創世記32の32

どうしても渡ることのできなかったヤボクの浅瀬を、ヤコブは足を引きずりながら渡って行きます。主が彼の腿のつがい(体全体を支える所)に触ったからです。しかし、川を渡る彼の頭上には希望の朝を告げる太陽が昇っていました。もう以前のように自分の思うままに走り回ることはできませんが、彼は勝利と喜びに胸を躍らせながら川を越えて行きます。神と戦うほどの力があったとき、自分の力、自分の強さでは渡ることのできなかったその川を、今は足を引きずり、よろめきながらも、主の御名によりすがり、主の御名を唱えながら、一歩一歩進んで行くのです。さあ、今度はあなたの番です。神勝ちたもう。御名によりすがりつつ、あなたのヤボクの渡しを越えてください。あなたの上にもきっと太陽が昇るでしょう。

明日は7月のファミリー礼拝です。家族がそばにいない方もいると思いますが、教会は神の家、私たちは神の家族です。独りぼっちはいません。さあ、みんなで一緒に主を賛美し、心からの礼拝をお捧げしましょう。

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flag
お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。
---創世記32の29

主はヤコブ(押しのける者、騙し奪う者)の名を改め、イスラエルと名付けられました。イスラエルという国家の名前はここから取られています。イスラエルという名は、サラー(争う)とエル(神)という言葉から成っていますが、神があなたのために戦われるという意味です。それまで、ヤコブは自分のために、自分の力で、自分の欲するままに戦ってきました。しかし、この日から、神が彼のために戦われる人生、勝利の人生を生きるようになったのです。ある人が、イスラエルを「神勝ちたもう」と訳されておられましたが、すばらしい言葉です。私たちが神に降伏し、白旗を揚げるなら、その時、神はその戦いに勝ってくださり、勝利の旗を掲げてくださるのです。「わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった」(雅歌2の4口語訳)。

今日は伊勢での集会がもたれる。近鉄の特急で名駅から1時半間ほど、伊勢神宮内宮に程近い五十鈴川で下車。最近は三重県総合競技場の一室で集会がもたれている。会議室と呼ばれる部屋からは、グランドレベルだが、競技場が一望できる。広い。たぶん聖イエス会でもっとも大きな集会所だろう。いつかこういう場所に、主の勝利のフラッグを掲げたい。神勝ちたもう!

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格闘

相撲
そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。---創世記32の25

ヤボクの渡しで、それは起こりました(「渡し」とは川を渡る場所のことです)。その辺りは浅瀬になっていて、子供でも簡単に川を渡ることができたのですが、ヤコブはどうしてもこの川を越えることができませんでした。解決しなければならない問題を抱えていたからです。詳しくは創世記の27章あたりから、聖書を読んでください。ヤコブは、川のこちら側で一夜を明かします。すると、天の御使い(受肉前のキリストと言われています)が現れ、歴史上、最も偉大なレスリング・マッチが始まりました。今、名古屋では大相撲の夏場所の真っ只中ですが、その夜の両者の戦いは歴史に残る名勝負となりました。一進一退の攻防が繰り広げられ、取り組みは朝まで続きました。現代訳聖書には「それは神との祈りであった」と表現されています。
祈りの格闘とは、祈りの答えを見るまで得るまで、神に取り組む姿勢を教えていますが、少し角度を変えるとこうなるのかもしれません。ヤコブの祈りは、「私が」「私を」「私に」、どこまでも自分が中心の祈りだったのです。一歩も神に譲らない、神を寄り切るほどの強烈な自我に、さすがの神もお手上げの状態でした。もちろん、神が人に負けるはずはありません。「神の弱さは人よりも強い」と書かれている通りです。しかし、神は人が自我を押し通している間は、私たちとの争いに勝とうとはされないのです。かえって、私たちが自分の弱さを認め、明け渡していくときに、神は私たちとの戦いに勝利を治めてくださるのです。

ある聖徒の言葉です。「私たちクリスチャンは、自分が神に負け、神に譲り、神に支配された分だけ、その割合に比例して強くなれる。」ア−メン。

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ダイジョウブデス

nice
以前、天声人語に次のようは話が載っていました。
中国のゴルフ場では、日本人客のために中国人女性のキャディーがつきます。彼女たちは訓練を受けていて、片言の日本語を話します。彼女たちの話す決まったフレーズが2つ。1つが「センセイ、ダイジョウブデス」、もう1つが「ガンバリマショウ」です。打ち損なって林の中にボールが飛んでしまったとき、「センセイ、ダイジョウブデス」、こんな難しいところから打ち出せるかなあと思うと「ガンバリマショウ」と声がかかります。何とか打ち出してみると今度はバンカーへ。すると、すかさず「センセイ、ダイジョウブデス」。このゴルフ場へ行った人は、「励まされることがあんなにいいもんだとは知らなかった。それもたった2つの表現でね。だれがあんな上手い言葉を教えたのかな」と友人に話したそうです。
日本人は、「頑張って」という言葉が好きです。しかし、時としてこの言葉は大きなプレッシャーを与えます。キャディーが使った日本語のよいところは、「ガンバリマショウ」の前に、「ダイジョウブデス」という安心を与える言葉があることです。
イエス・キリストも私たちに安心を与える言葉を持っておられます。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14の27)

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中心

earth
平地の説教の続きです。病める人々に寄り添い、人の痛みを知る医者のルカは、マタイが記したあの8つの幸いの中から、貧しさ、飢え、涙、迫害の4つだけを記しています。それは多くの人が抱えている癒されぬ現実でした。
涙の預言者と呼ばれるエレミヤは、そのような癒されぬ痛みに泣いた人でした。彼が抱えていた痛みは、滅亡への一途をたどるエルサレムのことであり、自己中心な生き方を続ける同胞のことでした。彼は祈ります。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます」(エレミヤ17の14)。
シンプルですが、何とも言えない敬虔さと確信に満ちています。「主よ、あなたが」とは、「御心ならば」との神を中心に据えた誠実な祈りだからです。この祈りは、問題の根本にある自分中心から神中心への転換を呼びかけるものです。主よ、あなたに期待します。主よ、あなたの出番です。主よ、あなたが宇宙の中心です。あなたが歴史の中心です。あなたが私の人生、生活の中心です。
このお方を中心に据えるとき、神の恵みが伝えるもうひとつの物語が始まるのです。「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、・・・それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるもの≪もうひとつの物語≫である」(エレミヤ29の11)。

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ご馳走

dessert
人はパンだけで生きるのではないと言われますが、それは本当でしょうか。説教の価値について、こんな面白い話があります。

数年前、英国の週刊誌の編集長宛に、ある男性が手紙を書きました。この男性は、教会で聞いた説教を一つも覚えていないので説教は不要ではないか、と説教の価値に疑問を投げかけてきたのです。
「過去30年、教会の礼拝に通い続け、およそ3000回の説教を聞いてきたが、驚くことに私たちはそのうちの一つも思い出せない!」と彼は手紙に書いていました。
この手紙が公表されると、男性の疑問に返答しようと、たくさんの手紙が編集長に送られてきました。その中に一件の決着をつけてくれた一通の手紙がありました。そこには次のように書かれていました。
「私は結婚して30年になります。その間に食べた食事は3万2850回で、そのうちのほとんどは私の妻が調理してくれました。ところが私は突然、たった一つの食事のメニューも覚えていないことに気づかされたのです。しかし、覚えていなくても、一つ一つの食事によって私は栄養を与えられて養われてきました。それらの食事なしでは、もうずっと前に私は餓死していたことでしょう。」

エレミヤ書15の16、「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」神の言葉、説教は心のごはんです。毎週、宴会メニューでご馳走を用意しております。メニューを暗記する必要はありませんが、どうぞ、よく噛んでお召し上がりください。

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