渇きは終わった



イエスは、人類が自らの罪の罰として当然受けなければならなかった裁きを、代わりに十字架の上でお受けになりました。イエスが十字架上で経験された苦しみは、肉体の苦しみ以上に、また人々から受ける辱め以上に、人間の罪がもたらす悲惨な現実としての裁きである父なる神との断絶でした。それはあのぶどうの木の譬えにあるように、枝が樹から切り離され、いのちの源を断たれて枯れ木となるという、霊的な死、霊的な渇きでもありました。神との断絶を経験し、まさに地獄において味わわれた渇きだったのです。
ルカによる福音書16章に出てくる「金持ちとラザロ」の譬えを覚えていますか。生前、毎日贅沢に暮らしていた金持ちと、彼の家の門前でおこぼれを恵んでもらっていたラザロ、この二人が死にました。ラザロはアブラハムの懐(天国)に移され、金持ちは陰府(死者の世界)でさいなまれていました。両者の間には深い淵があって行き来できません。金持ちは、ラザロがアブラハムの懐にいるのを見て願います。「ラザロの指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中で悶え苦しんでいます。」イエスが味わわれたのは、この渇きです。
私たちは、罪がもたらす悲惨についてそれほどの自覚はありません。神から永遠に引き離され、見捨てられるということがどれほど恐ろしいことであり、どれほどの渇きを私たちに与えるものであるかがわかっていません。実際、それは終わりの日まで保留されていて、誰もそれを味わっていませんが、イエスはそれを先取りして味わわれたのです。
この第4、第5の言葉に続く、十字架上の第6の言葉は「成し遂げられた(完了した。終わった)」です。それは、この誰もが経験しなければならない「渇き」が終わったという意味です。イエスが十字架の上で渇き、呪われた者となってくださったので、その渇きは、呪いはすでに終わったのです。

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仮庵祭とキリスト

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書7章から。

7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

イスラエルでは新年を迎え、今週は仮庵祭が祝われています。
秋の祭りである仮庵祭の意味を深めながら、秋の教会行事のために祈りを積みました。

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霊的な暗闇と渇き



ヨハネは十字架の傍らで、イエスが十字架上で語られた7つの言葉を聞きましたが、彼はその中から、第3の言葉、第5の言葉、第6の言葉の3つを選んで福音書に記しています。第5の言葉はこうです。「この後(すなわち第3の言葉を語られた後、ほんとうは第4の言葉があるのですが)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」
ヨハネが聞いた「渇く」という言葉は、イエスが神の子であり、人の子でもあるという神学を一貫して述べてきたヨハネにとって重要でした。人の子であるイエスは、文字どおり、激しい肉体の渇き、焼けるような喉の渇きを訴えられたからです。しかし、ヨハネはそれを「こうして、聖書が実現した」とも記しています。つまり、救い主が「渇く」と言うことは、聖書に書かれていたことの成就だったのです。
詩編には、やがて来られるメシアのひな型と言われるダビデが経験した苦難が随所に記されています。実際に、ダビデが受けた苦難は、やがて来られるメシアの受ける苦難を映し出していました。弟子に裏切られること、下着がくじ引きでわけられること、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びまでダビデの経験として詩編に出て来ます。そして、詩編69編にはこう記されています。「叫び続けて疲れ、喉は涸れ(のどは渇き)、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。」「人は私に苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と。
ここに人々の敵意とあざけりに疲れ果て、渇きを訴える主の僕メシアの姿を見ます。ダビデはそのとき、深い沼にはまり込み、極度の渇きを覚えていました。神に叫んでも叫んでも答えてもらえず、疲れ果て喉は涸れてしまいました。これは、神との親しい交わりを失われ、恐ろしいほどの孤独の中に引きずり込まれていくような霊的な暗闇の経験です。ダビデも、イエスもその暗闇、渇きを経験したのです。実は、それが十字架の第4の言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

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わたしは、かわく

礼拝メッセージ 「わたしは、かわく(後編)」
ヨハネによる福音書シリーズ(178)
聖書 ヨハネによる福音書19章28-30節、詩編69編

19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

69:3 わたしは深い沼にはまり込み
足がかりもありません。・・・
69:4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ
わたしの神を待ち望むあまり
目は衰えてしまいました。・・・
69:21 嘲りに心を打ち砕かれ
わたしは無力になりました。
望んでいた同情は得られず
慰めてくれる人も見いだせません。
69:22 人はわたしに苦いものを食べさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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水を飲ませてください



もう1人の女性がいます。名前はわかりませんが、人は彼女を「サマリアの女」と呼びます。ヨハネによる福音書の4章を開くと、いつもそこに彼女がいます。シカルという町の井戸のほとりで彼女を待っていたのはイエス・キリストでした。彼女はどのような女性だったのでしょうか。作家の三浦綾子さんが、『生きること思うこと』の中に、こんなことを書いています。

聖書の中に出て来る女性の中で、だれが好きかと尋ねられることがしばしばある。私はためらわず、サマリアの女と答える。すると、たいていの人は、「へえー、あのサマリアの女ですか」と、げせない顔をする。それも道理、このサマリアの女とは、海千山千のしたたか者らしいのである。聖書によれば、この女性は昼の12時頃、水くみに井戸に行ったと書いてある。その時間は、当時決して水をくむ時間ではなかった。彼女は人の来ない時間に、こっそり水をくまなければならない、肩身のせまい思いをして暮らしていた女性である。
イエスはこの女と井戸端で会われた。そして、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」とおっしゃった。彼女は、「私には夫はありません」と答えた。するとイエスは、「あなたに夫がないというのは、もっとものことである。あなたには、もと5人の夫があったが、いまのはあなたの夫ではない」と、ズバリ図星を指されたのである。…
5人も夫がいたというのは、不運というより、ふしだらであったという印象を私たちに抱かせる。…彼女の評判ははなはだしく悪かったであろうことは想像に難くない。…こんな評判の悪い女が好きだというのだから、人が驚くのは無理もない。私も、かなり評判の悪い時代があった。…そんなことで、評判の悪かったこのサマリアの女に、ひどく親近感を覚えるのである。

みなさんは、いかがでしょうか。この女性にはいろいろと問題があったのは事実です。いろいろ想像できますが、ひとつだけ確かなことは、彼女は満たされない心を持っていたということです。彼女が水をくみに来たヤコブの井戸は相当深い井戸だったようですが、その井戸と同じように、彼女の悩み、問題、悲しみ、後悔と涙、そして罪も実に深いものでした。
私はこの人に会ったことがあります。どこで会ったと思いますか。彼女は鏡の中にいました。普通、鏡の前に行くときは灯りを付けるものですが、鏡に映る自分を見るのがためらわれて、灯りも付けずに鏡の前に立たれたことがあるでしょうか。何かむなしくて、何か満たされないものがあって、周りに誰もいないことを確認しなければ、灯りを付けることができない自分。サマリアの女はそこにいたのです。ですから、イエスとサマリアの女の物語は、私の物語なのです。
物語は最後、満たされない心を抱いて井戸にやって来た彼女が、水がめをそこに置いて、町の中に飛び込んで行きます。そして、彼女をとおして、サマリアの町が変えられていくのですが、二人の会話の始まりはこうです。「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」そう、「水を飲ませてください」から始まったのです。別の言い方をすれば、「I Thirst(わたしは渇く)」です。
この言葉が彼女を変え、サマリアの町さえも変えていきました。イエスは、あなたが渇きを癒そうとやって来る井戸のほとりで、今日もあなたを待っています。あなたにも聞こえるでしょうか。イエスの声が。「I Thirst(わたしは渇く)」。
しかし、イエスは自ら「渇く」と言いながら、私たちを尽きることのない命の泉に招いてくださるのです。「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

台風接近中。みなさま、お気をつけください。

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愛の神秘体

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
申命記1章、5章とヨハネによる福音書13章から。

1:5 ・・・わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
1:7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
5:33 あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。

13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

今週も京都秋期聖会のメッセージを学びました。

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じっとしていられない



昨日の礼拝で、イエス・キリストが十字架の上で語られた7つの言葉の中から、ヨハネによる福音書に記されている第5の言葉、第6の言葉を読んでいただきました。詳しくは後日お話ししますが、昨日は第5の言葉、「渇く」というキリストの言葉を聞いた2人の女性を紹介しました。
1人目の女性は、18歳の時に修道女となり、その年にインドに渡りました。彼女はカルカッタ(現在のコルカタ)の学校で教鞭をとっていましたが、38歳の時に転機が訪れました。1946年9月のことです。彼女の生涯は、後に映画化されていますが、その映画ではそのシーンが印象的に描かれていました。ダージリンの駅で瀕死の状態で倒れている病人が彼女を手招きします。そして、彼女に言うのです。「I Thirst(わたしは、かわく)」と。その声に導かれ、彼女は修道院を離れて、貧しい人々の中に飛び込んで行きました。もうおわかりでしょうか。マザー・テレサのことです。彼女は、幾多の困難を乗り越え、ついにその働きは、多くの人に感動を与え、世界を動かします。しかし、その始まりは、「わたしは渇く」という十字架の言葉だったのです。その声を聞いた人は、愛に渇くイエスの渇きを癒すために、じっとしていることができません。十字架の言葉は神の力です。「わたしは、かわく」と、イエスはあなたの愛に渇いておられます。

秋の音楽礼拝には、たくさんの方にお越しいただき感謝でした。賛美もヴァイオリンとフルートの演奏の素敵でした。

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わたしは、かわく

秋の音楽礼拝
メッセージ 「わたしは、かわく(I THIRST)
ヨハネによる福音書シリーズ(177)
聖書 ヨハネによる福音書19章28-30節

19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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10月のオープン礼拝(秋の音楽礼拝)



次の日曜日は10月のオープン礼拝、秋の音楽礼拝です。
聖歌隊の合唱、ヴァイオリンとフルートの演奏ほか、音楽に満ちた礼拝です。

オープン価格は毎月第1日曜日、教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。
日曜の朝10時30分から。弥富公園東、丘の上の教会。
ぜひお出かけください。

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新しい家族



イエスは十字架の上から、母と愛弟子に、それぞれ「御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です」と語りかけていますが、これは彼らがお互いを新しい眼差しのもとに、見つめ合うことを教えています。イエスは十字架の上で、「わたしを見なさい」とは言われずに、十字架をとおして、互いを見つめ合うことを教えてくださったのです。
ヨハネはその書簡の中で教会のメンバーに訴えました。「わたしたちが神の愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、…神の愛がわたしたちの内で全うされるのです。」人々は私たちをとおして、神を見るのです。
イエスの言葉を受けて、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とありますが、「そのとき」とは、いつのことでしょうか。文字どおり、イエスがこの言葉を語られた時と読むこともできますが、ヨハネ福音書がくり返し述べてきた大切な時があったことを思い出します。イエスが「わたしの時」と「人の子が栄光を受ける時」と語られた十字架の贖いが成し遂げられる時のことです。
整理します。ここに出てくる母マリアは、「母なる教会」という言い方があるように教会のシンボルです。そして、イエスの愛する弟子とは、その教会に連なるすべてのクリスチャン、私たち一人一人のことです。イエスは十字架の上で、子を失う母マリアに対して、「御覧なさい。あなたの子です」と、この後、十字架によって救われている神の子どもたちをお与えになりました。それから弟子に(私たちに)言われました。「見なさい。あなたの母です」と。
これは単なる親子関係を言っているのではなく(それだけでも驚くべきことですが)、弟子ヨハネからすれば、イエスの兄弟(家族)にしてもらったということです。この神の国の養子縁組が、十字架のもとで結ばれ、神の国の新しい家族が、十字架のもとで生まれたのです。ここに十字架のもとで生まれた「愛に生きる共同体」のはじまりを見るのです。

次の日曜日は、10月のオープン礼拝、秋の音楽礼拝です。

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