キリストに一致する切り札

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書6章から。

6:48 わたしは命のパンである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。

先週の祈祷会から、春の音楽礼拝で演奏していただく「マタイ受難曲」の予習をしています。
今日は49曲と68曲を聞いていただきました。バッハの聖書解釈、理解の深さに感動します。
マタイ受難曲を学んだ後、今日は『あかしびと21』201号の「巻頭のことば」から、御言葉を学びました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

春の音楽礼拝



次の日曜日(4月23日)は、春の音楽礼拝です。
チェンバロ奏者の三宅眞理子さんをお迎えしてのクラッシック・コンサートです。
美しい古楽器の音色をお楽しみください。

バッハ作曲
プレリュード
フランス風序曲より
マタイ受難曲より
主よ、人の望みの喜びよ

三宅さんは数年前からご主人が制作されたチェンバロを持って、全国の小さな教会を巡ってコンサートを開いておられます。
ご主人のチェンバロ制作秘話も感動のです。聖歌隊の合唱、聖書からのショートメッセージ。
春の一日、教会堂に響く古楽器の調べに耳を傾けてください。
ご来会をお待ちしております。

4月23日(日)午前11時スタート 入場無料

弥富公園東・丘の上の教会です。
お子さま連れも歓迎します。
駐車場はありますが、駐められない場合は弥富通り沿いのコインパーキングをご利用ください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

私の名前は希望です



漫画「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんの詩集から。

絶望のとなりにだれかがそっと腰かけた。
絶望はとなりのひとに聞いた。
「あなたはいったい誰ですか。」
となりのひとはほほえんだ。
「私の名前は希望です。」

イースターにふさわしいメッセージではないでしょうか。
ヨハネが記すイースターの夜の記事があります。その夜、弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけ、絶望の中に座り込んでいました。するとそこへイエスが来てその真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。イエスは手と脇の傷を弟子たちにお見せになりました。弟子たちは、主を見て喜びました。詳訳聖書は、その喜びを「弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた」と訳し、欣喜雀躍する弟子たちの姿を生き生きと描いています。復活であり、命であるキリストとの出会いこそ、私たちの喜びと希望の源なのです。

次の日曜日は、春の音楽礼拝。チェンバロ奏者の三宅眞理子さんをお迎えし、古楽器の美しい音色を教会堂に響かせていただきます。土曜日は志摩にある小さな教会でも演奏をしてくださることになっています。ぜひお出かけください。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

絶望のとなり

イースター礼拝(春の召天者記念礼拝)
礼拝メッセージ 「絶望のとなり」
聖書 ヨハネによる福音書20の19〜23ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(番外編)

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

イースター、おめでとうございます。
今週も礼拝の恵みに感謝。 

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

なぜ?



マリアがナルドの香油をイエスに注いだ時、マタイの記事によれば、弟子たちが彼女の行為を「なぜ、こんな無駄なことをするのか」と叱責していますが、イエスは、マリアがした以上のことを、これからしようとしていました。イエスはその命までも、弟子たちのために、そして私たちのために注ぎ尽くし、使い果たそうとしておられたのです。それは無駄なことだったのでしょうか。いいえ無駄ではありませんでした。
もう一つの「なぜ」があります。ヨハネは、ここであのイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を300デナリオンで売って」と言った言葉を記録しています。彼は、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたとも書かれています。彼の「なぜ」は、やがてイエスを銀貨30枚で売ってしまう、怖ろしい「なぜ」です。「なぜ」という問いかけは、動機を探る時に大切ですが、「なぜ」と言いながら冷静に計算を始めてしまうと、できなくなることが多くなるのではないでしょうか。そして、いつの間にか、大切な香りを失ってしまうのです。
人生にはいつでもできることと、たった一回しかできないことがあるのです。マリアは、やがて私たちのためにその命を惜しみなく献げ尽くしてくださるイエスを思い、イエスに葬りの備えとしてこの油を注いだのです。その時の状況をヨハネは「家は香油の香りでいっぱいになった」と美しく表現しています。計算高い私たちは、時に人と比較したり、過去と比較したりしながら、最小限にキリストと教会に献げるにはどうしたらよいかと間違ったことを考えます。しかし、そんなクリスチャンには、そんな教会には香りがありません。
先日、教区の先生方の集まりが持たれました。神学院の開校70年と言うことで、先生方と献身の証しを分かち合いましたが、今年暦年50年を迎えられたN先生が最後に、「皆さんにお願いがあります」と前置きされて、「どうぞ福音の香りを失わないでください」とおっしゃいました。いろいろな意味があると思いますが、キリストのために献げ尽くした人にしか醸し出せない福音の香りを大切にしたいと思いました。「いとも良きものをイエスに献げよ。熱き汝が心、若き力を。」

次の日曜日はイースター礼拝です。ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

十字架の黙想・第13日

今週も祈祷会を大切に。今週は受難週、『十字架の黙想』から学びました。
御言葉をシェアします。イザヤ53章。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

主の愛が、わたしの憎しみと入れ替わり、主の謙遜がわたしの傲慢と入れ替わり、主の忍耐がわたしの短気と入れ替わるようにと心から祈る。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

愛の本質



ヨハネ福音書は21章ありますが、12章からキリストの最後の一週間が始まります。ですから、ヨハネは福音書の半分を費やして、キリストの最後の一週間を記録していることになります。ここにヨハネが本当に伝えたかったことが記されているのです。12章は、11章の続きの記事で、ラザロを囲む食卓でなされた事件から始まります。よく知られたイエスへの油注ぎの物語です。共観福音書にも見られる記事ですが、それぞれシチュエーションが異なります。詳しくは改めて説明します。
3節を御覧ください。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」ここで彼女が惜しみなく注いだナルドの香油とは、どれほど高価なものであったのでしょうか。イスカリオテのユダはそれを300デナリオンで売れると見積もっています。1リトラが300グラムほどなので、量は小さいペットボトルくらいということになります。1グラムで1デナリオンということです。1デナリオンは労働者の1日の賃金ですから、300日分の賃金、年収に相当する額と考えられます。仮に1日1万円で計算すれば300万円です。
パンの奇跡の場面を思い出せるでしょうか。イエスと弟子たちが、どうしたら群衆に食物を与えることができるかと話していた時、弟子のフィリポが「200デナリオンのパンがあっても足りない」と答えています。そこにいたのは男だけで5000人、女性や子どもを含めればその倍はいたにちがいありません。すると300デナリオンとなれば、祐に1万人の給食を準備できるほどの額であったということです。それを高く売って、貧しい人に施すことができたと言われても無理からぬことでした。
普通は、香水のように一滴か二滴かをたらして使うものを、彼女は何を血迷ったのか、たった一回で使い切ってしまったのです。マルコでは、壺を「壊して(割って)」と書かれています。その壺というのも、高価なものであったと思われますが、この愚かとさえ思える行為の中に、愛の本質を見ることができるのです。愛は計算しません。損得を考えません。愛は最大限に与え、すべてを与えた後で、もっと与えたいと望むものなのです。

桜がきれいですね。今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ナルドの香油

棕櫚の聖日(聖餐式)
礼拝メッセージ 「ナルドの香油・前編」
聖書 ヨハネによる福音書12の1〜8
ヨハネによる福音書シリーズ(86)

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

今日は棕櫚の聖日、今日から受難週、キリストの最後の1週間が始まります。
今日はメッセージの前に、ロゴス神学院開校70周年を記念して、春の京都聖会で紹介さしていただいた映像を見せていただき、神学院のために祈りました。メッセージの後は聖餐の恵みにあずかり、今週は受難週を過ごします。今週も礼拝の恵みに感謝です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

民の代わりに死に



イエスの友ラザロの復活について、時間をかけて学んできました。福音記者ヨハネは、随分と長い前置きしながら、復活の場面は簡潔に描き、更にこの奇跡のために、ユダヤの最高法院(わかりやすく言えば国会のようなもの)が招集され、ある決議がなされたという事実を再び紙面を割いて伝えています。
ユダヤの最高法院、サンヘドリンと呼ばれる議会は70名から構成されていましたが、多くはサドカイ派と言われる一派で、エルサレムに住む祭司や富裕層からなる特権階級の人々でした。イエスとの衝突をくり返してきたファリサイ派の人々は、イエスが安息日を無視し、自分を神の子と呼んだことでイエスを憎んでいましたが、サドカイ派の人々は、イエスの言動については、この時まで、ある意味無関心でした。ところが、ラザロの復活のうわさがエルサレムに広まるにつれて危機感を覚え、ファリサイ派と結託することになったのです。
彼らは言います。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」つまり、このままイエスを放っておけば、ユダヤの議会は民衆に対する指導的な立場を失い、すべてをローマに乗っ取られてしまうかも知れないという懸念を、彼らは抱いていたということです。
そこで発言したのが、この後、キリストの受難劇で大きな役割を果たすことになる「その年」の大祭司カイアファです。ヨハネはここで「その年」という言葉をくり返し使い、「その年」が特別な年であったことを印象づけようとします。「その年」の大祭司がカイアファだったのです。モーセの律法によれば、本来、大祭司という職は終身制でしたが、イエスの時代には、ローマ帝国の支配下にあって、次々と大祭司が代わっています。そのような中、カイアファのしゅうとアンナスの一族が、ローマ政府におもねり、長い間、実権を握っていたのです。アンナスの娘婿であったカイアファは狡猾な人物で、18年その職に就いていました。それは異例の長さでした。
カイアファの言葉です。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」イエス一人を殺し、この国を救おうという彼の提案は、そこに集まり、イエスの問題で手をこまねいていた議会を忖度しての政治的な発言でしたが、誰にとって好都合かというと、「あなたがたに」とってというのですから、それは自己保身によるものでした。彼らが守りたかったのは、彼らの立場であり、既得権だったのです。そこで、ラザロの復活の直後、「その日」イエスの死が決定されました。もう過越祭が近づいていました。ラザロの死と復活は、キリストの死と復活の序曲であったと話してきましたが、ラザロが復活したその日、すでにイエスの死が、議会では決定したのです。
カイアファの言葉ですが、過越祭を目前にして、カイアファは、大祭司の特別な務めのことを思って、このような発言をしたのではないでしょうか。過越祭には全イスラエルを代表して、一年の一度だけ、大祭司が神殿の至聖所に小羊の血を携えて入り、民のために祈りました。一匹の小羊は民の身代わりの犠牲でした。ヘブライ人への手紙には、真の大祭司であるイエス・キリストのことがくり返し記されています。「キリストは・・・動物の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度だけ聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」と。
やがて、イエスの死を目撃したヨハネは、声を大にして叫びます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいまいた。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
春の京都聖会のロゴス神学院開校70周年記念集会で次のように教えていただきました。「自分には愛がないと思う人は、愛が一番たくさんある所に行き、そこにとどまりなさい。愛が一番たくさんある所、それは十字架です。」
「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国の道である十字架、私のすべてである十字架。」
「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。

次の日曜日は棕櫚の聖日、受難週に入ります。今年は16日がイースター(復活祭)です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

「主はすべてだ。」このひと言に尽きる

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コロサイの信徒への手紙3章から。

3:11 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

旧約聖書続編シラ書
43:27 「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。

今週も春の京都聖会からメッセージを学ばせていただきました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me