悲しみの歌は喜びの歌へ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。3つの詩編から。

詩編96編
96:1 新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。

詩編137編
137:1 バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
137:2 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
137:3 わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
137:4 どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
137:5 エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
137:6 わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。

詩編126編(口語訳)
126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

今週も秋期聖会のメッセージを学ばせていただきました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

テベリヤ教会献堂30周年記念礼拝



今週10月13日(土)、三重県は志摩市阿児町にあるテベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が開かれます。
平屋の赤い屋根に十字架の立つ小さな小さな教会が30年前に建ちました。1988年2月のことでした。さかのぼること更に12年、Mさんが「ここが私の神学校です」と縁あってその地に嫁いで行かれました。それから幾星霜にもわたる涙と文字どおりの献身の結晶として、神の教会が建てられたのです。30年前の春、私は神学院に入学し献身の道を歩み始めましたが、京都の聖会で、テベリヤ教会献堂の証しを伺い、いつかその教会に行ってみたいと思いました。卒業後、これも縁あって岐阜教会に遣わされ、その夏、初めてテベリヤ教会を訪れました。当時、私が中学生礼拝でお世話になった村上先生がそこにおられました。そして、15年前、名古屋教会に遣わされ、テベリヤ教会を兼牧することになります。ふり返ると一つ一つが不思議な主の導きでした。15年間、毎月往復6時間ほどの道のりを通い続けました。今も相変わらず小さな教会です。でも、いつ行っても恵みにあふれる集会がそこにあります。明日の集会を期待しつつ。

テベリヤ教会献堂30周年記念礼拝
2018年10月13日(土)午前11時から
メッセージ 「イエス・キリストの涙」伊藤嘉男牧師(豊田教会)
司会 宮本博文牧師(名古屋教会)
賛美 シエキナ聖歌隊(名古屋教会)

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

海嶺



愛知県知多郡の美浜町に小野浦と呼ばれる地区があります。日本で最初の和訳聖書の翻訳に協力した音吉、久吉のふるさとです。この二人に現在の名古屋市熱田区出身の岩吉が加わって、三人の「吉」ということで、「三吉」と呼ばれる若者たちによって、最初の日本語訳聖書が作られました。
経緯はこうです。天保三年(1832年)の秋、遠州沖で暴風に遭い、遭難した彼らは、難破船に乗ったまま1年2ヶ月をかけて太平洋を横断、命辛々カナダの沖合の小島に辿り着きます。やがてイギリス商船に拾われロンドンに、そしてついに日本をめざすことになりました。マカオまで戻って来た彼らは、そこでギュツラフという宣教師と出会い、聖書の和訳を手伝うことになります。そこで最初に和訳されたのが、いま私たちがシリーズで学んでいる『ヨハネによる福音書』でした。シンガポールで出版されたギュツラフ訳の聖書。「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まる1章1節は有名です。
先週の金曜日、日本聖書協会主催の聖書和訳頌徳記念式典というのが美浜町で持たれ、それに参加しました。今年は新しく建立された音吉像の除幕式があり、音吉の凛々しい姿に感動しました。音吉、久吉、岩吉の三人は、マカオで加わった四人の日本人漂流民と共に日本に向かいます。彼らが乗っていた船が歴史の授業で習うモリソン号事件のモリソン号でした。外国船の入国を認めない幕府はモリソン号を砲撃します。彼らは祖国を目の前にして、祖国に見捨てられてしまうのです。この出来事を題材にして書かれたのが、三浦綾子さんの「海嶺」で、彼らの数奇な運命をとおして、私たちをカシコイモノに導く長編です。
興味深いのは、最初に和訳された聖書箇所が、どうしてヨハネによる福音書だったのかということです。小説の中で、ある人がギュツラフに尋ねる場面があります。「なぜ、日本のためにヨハネ福音書を選ばれたのですか。マタイ伝やルカ伝の方が、訳すのが容易ではないですか。」彼は答えます。「確かにその通りかもしれません。しかし、3人と、マカオの寺院を巡った時、私は彼らがどこに行っても頭を下げることに気付いたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。私はあの『知られざる神』に手を合わせる記事を思い出しました。(使徒言行録17章に記されている出来事です。)それで私は、キリストが神であることを確実に伝えるヨハネ伝を選んだのです。」
まさにこのギュツラフの気持ちはアテネのアレオパゴスの丘で説教したパウロの心でした。パウロは言いました。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。確かにヨハネ福音書は、教会が誕生して半世紀が経ち、キリストの教えと、偽りの教えとの狭間で、どこが違うのかを明らかにするという目的を込めて書かれました。そこで何よりも先ずキリストが神であることを彼は証ししたかったのです。真っ直ぐに、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル。・・・カシコイモノ(キリスト)は神であった」と。
悩み多き人生という旅路、漂流生活もあります。思うように願うように行かない現実があります。信頼していたものから見捨てられるようなこともあるかも知れません。しかし、その旅の果てに、知られざる神ではなく、カシコイモノとの出会いがあるのです。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

砂漠が美しいのは

礼拝メッセージ 「砂漠が美しいのは」
聖書 ヨハネによる福音書17章15-19節
ヨハネによる福音書シリーズ(141)

17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

今週も礼拝の恵みに感謝。
嬉しい出会いに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

世にあって



「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」
有名な山上の説教の中でイエスは、「あなたがたは地の塩である。・・・ あなたがたは世の光である」と語られました。塩とは、溶け込むもの、見えなくなることで内側から味を変えていくものであり、光とは、誰にでも見えるものであり、外側に向かって拡散され周囲を照らすものです。イエスは私たちこそ、地の塩、世の光であると言われたのです。
パウロもこう言っています。「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、(ここです)世にあって星のように輝き、命の言をしっかりと保つでしょう。」なぜ「世にあって」なのでしょう。それはこの世でなければできない神の働きがあるからです。この地上でなければできない神の働きとは福音宣教の働きです。
キリストと共に十字架にかけられた犯罪人のことを覚えていますか。地獄行きが決まっていたようなあの男が、ただキリストの十字架を仰いだだけで、パラダイスを約束されたというあの物語です。福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。キリストの十字架を通して最初に救われたあの人はなんと幸いだったでしょう。しかし、彼のうちには一つだけ後悔があったように思います。すでに過去の過ちは赦されていました。感謝しかありません。でも、自分の口でその驚くべき神の恵みを伝えることができなかったという後悔です。天国に行ったら伝道しようと思っている人があるなら、それは愚かなことです。天国に行ってだれに伝道するというのでしょう。主を証しし、滅び行く魂が救われる喜びは、世にあるクリスチャンの特権です。そして、私たちにはまだそれができるのです。
秋期聖会でイザヤ書12章4節から、宣教の3つの基本的ステップについて教わりました。もう一度、チャレンジ!祈りと宣教です。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。」

次の日曜日は10月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

10月のオープン礼拝



次の日曜日は10月のオープン礼拝です。
「砂漠が美しいのは」と題して、きれいさと美しさの境目を聖書から学びます。

毎月第一日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

新しい時代を切り開く宣教

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
詩編96編ほか。

詩編
96:1 新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 国々に主の栄光を語り伝えよ。
諸国の民にその驚くべき御業を。

イザヤ書(新改訳)
12:4 「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。
そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。

サムエル記上(口語訳)
10:6 その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは変って新しい人となるでしょう。

今週も秋期聖会のメッセージを学ばせていただきました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

世にあって、世のものではない



大祭司であるイエスは「聖なる父よ、・・・御名によって彼らを守ってください。・・・わたしがお願いするのは、弟子たちを悪い者から守ってくださることです」と、くり返し弟子たちの保護を求めて祈りました。この日まで、イエスは彼らと共におられ、彼らを保護してきましたが、十字架と復活を経て、イエスが父のもとに帰る日が近づいていたからです。
ヨハネによる福音書17章には、「世」という言葉が16回も出て来ます。それは神を認めず、神に抵抗する勢力を指す言葉ですが、世はイエスを憎んだように、弟子たちを憎みます。そこでイエスは世に残して行く弟子たちの保護を求めたのです。ここで、素朴な疑問ですが、それならいっそのこと私たちも信じた瞬間、イエスと共に父のもとに行くことはできないでしょうか。多くの場合、それはできないようです。イエスはこう祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく(彼らには私に代わって、この世で果たさなければならない使命があるので)、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していいないのです。」ここに、世にあって、世のものではない(キリストにあって神のものである)クリスチャンの存在意義を見いだすことができるのです。
クリスチャンが陥りやすい2つの傾向があります。それは「純粋の孤立」と「妥協の埋没」です。前者は、信仰の純粋性を守ろうとする余り、いつのまにか周りから煙たがられて孤立してしまうことであり、後者は、この世と上手く付き合おうと妥協する余り、いつの間にかこの世に埋没してしまうことです。しかし、神の願いは、私たちがこの世から孤立するのでも、埋没するのでもなく、「地の塩」として「世の光」として、ある時は目立たず、ある時は大胆に生きることなのです。

今日は地域の先生方との集まりがありました。
今日から10月、今月も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

御名があがめられていることを

礼拝メッセージ 「御名があがめられていることを(地の塩、世の光)」
聖書 ヨハネによる福音書17章11-16節ほか

17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。


イザヤ書(新改訳)
12:4 主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。
そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。

今日は台風が接近している中でしたが、みなさん礼拝に集まって来られました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

keep on speaking



アメリカの宣教師ボブ・ピアスが、上海の宣教団体本部に泊まっていた時のことです。夜中に、同じ部屋に泊まっていた宣教師が、毛布にくるまって、声を殺して泣いているのに気がつきました。訳を尋ねると彼は答えました。
「私と妻はチベット国境で伝道していました。14年目に一人の受洗者が与えられました。21年目の今日は、8人の信者が与えられています。ところが、娘がハンセン氏病となってしまったので、妻と娘を国に帰すことになりました。明日は一人で、チベットに帰らなければなりません。」ピアスは「あなたは21年も国に帰っておられないのですか。すぐ小切手を書きますから、あなたもお帰りなさい」と言いましたが、彼はこう答えたのです。「いいえ先生、私は妻や娘との別れが辛くて泣いているのではありません。実は今、茨の冠をかぶった主イエスが、私の夢に現れて言われたのです。『さあ兄弟、明日は一緒にチベットに帰ろう。私と一緒にチベットに行ってくれるのは、お前だけなのだよ』と。私は我慢が出来なくなり泣いてしまったのです。」ピアスは感動し、ともに手を取って泣きながら、主を賛美し、祈り合ったというのです。
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と。「恐れるな」と言われている以上、パウロのうちには恐れがあったということです。事実、その頃のパウロは、アテネでのほろ苦い経験のために、意気消沈し、恐れに取り付かれ、ひどく不安であったと、手紙に記しています。百戦錬磨のパウロにも、言葉を失い、うなだれるような夜があったのです。しかし、主は言われました。「語り続けよ(keep on speaking)、わたしがあなたと共にいる」と。
旧約聖書を開けば、偉大な預言者たちの声が聞こえてきます。彼らは主の言葉を預かって語りました。みんなが弁の立つ人たちだったのではありませんでした。口の重い人も、語るべき言葉を持たない人もいました。その代表がモーセであり、エレミヤです。「私は口が重いのです。・・・私は若く経験がないのです。・・・何も話せません。・・・」と、彼らは断固主張しました。しかし、主はモーセに言われたのです。「わたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と。そこでエレミヤは言いました。「主の言葉がわたしの心のうちで、燃えさかる火のようで、もうしまっておくことができません」と。
主の声が響きます。「この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい。」「わたしがあなたと共にいる。」
もう一度、チャレンジ!祈りと宣教です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2018 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me