平安と驚きの神

イースター音楽礼拝(春の召天者記念礼拝)
聖歌隊合唱 「たぐいなき愛」
メッセージ 「平安と驚きの神」
聖書 ヨハネによる福音書20章19-20節ほか

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:20 弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。(詳訳聖書)

19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

イースター、おめでとうございます。
今週は礼拝に続き、祝賀会(歓迎会)、教会学校のお楽しみ会がもたれ、盛り上がりました。
すべての恵みに感謝します。

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イースター音楽礼拝



次の日曜日はイースター音楽礼拝です。
聖歌隊がキリストの十字架と復活「たぐいなき愛の物語」を歌います。
ぜひお出かけください。

合唱 シエキナ聖歌隊(名古屋教会)
聖書の話し 宮本博文牧師

礼拝後、軽食会、歓迎会あり。
春の召天者記念礼拝も行われます。

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絶望はとなりのひとに聞いた



6回に及ぶイエスへの審問の中で、夜が明けるのを待つわずかな時間の出来事を伝える場所があります。これは聖書には書かれていないことですが、伝説によると、そのわずかな時間、イエスはカイアファの屋敷にある地下牢に収監されたと言うのです。
今は地下牢に下りる階段もありますが、そこは縦穴式の地下牢で、丸い穴から下につり降ろされると、もはや自力で這い上がることはできませんでした。まだ花冷えのする季節、その冷たく、狭く、薄暗い地下牢にイエスは一人つり降ろされ、一睡もできないまま朝を迎えたのです。その顔には殴られた痕が青あざとなって残っていました。
以前、ある牧師が、聖地巡礼でこの地下牢を訪れた時の印象を証ししてくださったことがあります。この地下牢では詩編88編が朗読されることになっているそうです。詩編88編は、詩編の中で最悪の詩編です。多くの詩編は、苦悩の叫びから始まりますが、やがて悲しみを克服し、希望を見いだして終わります。しかし、この詩編は、解決のないまま、悩みで始まり、嘆きで終わるのです。

88:4 わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。
88:5 穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ・・・
88:7 あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。
88:9 ・・・わたしは閉じ込められて、出られません。
88:10 ・・・来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び/あなたに向かって手を広げています。
88:15 ・・・主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。
88:19 ・・・今、わたしに親しいのは暗闇だけです。

その牧師は声を震わせながら、次のように証しされました。「地下牢の片隅に詩編88編が開かれており、それを私が読むことになった。ところが、読み進むにつれて、これは私のかつての姿であるとの感動が突き上げてきた。恐るべき魂の暗闇に突き落とされた日のことを思い出しながら、キリストがこの地下牢のように深い穴から、私を贖い出すことができたのは、キリストご自身が、この深い穴の底まで降ってくださったからでした」と。
だとすれば、詩編88編は、ほんとうに希望のない詩編でしょうか。キリストが地下牢のように深い絶望の穴から、私たちを贖い出すことができるのは、キリストご自身が、この深い穴の底まで降ってくださったからなのです。やなせたかしさんの詩を思い出します。「絶望のとなりにだれかがそっと腰かけた。絶望はとなりのひとに聞いた。『あなたはいったい誰ですか』。となりのひとはほほえんだ。『私の名前は希望です』。」
たとえ、どんな絶望的な状況に置かれていたとしても、主には望みがあります。

今日は聖金曜日、次の日曜日は復活祭です。

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過越の小羊なるイエスとの出会い

今週も祈祷会を大切に。今週は受難週の黙想会でした。
御言葉をシェアします。ルカによる福音書22章ほか。

22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」

コリントの信徒への手紙一
5:7 キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

私たちのためにすでに屠られた過越の小羊を信仰によって受け取りましょう。

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ローマの法廷へ



最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で捕らえられたイエスに対する裁判が続きます。イエスの裁判については、四福音書を総合的に見ると、その詳細がわかります。繰り返しますが、イエスは、ゲッセマネでの逮捕後、翌朝までに、少なくとも6回の審問を受けていることがわかります。ユダヤ人による宗教裁判が3回、ローマによる政治裁判が3回です。
まず、ヨハネだけが記す、大祭司カイアファのしゅうとアンナスによる予備審問。彼は元大祭司で陰の権力者でした。その後、時の大祭司カイアファの屋敷で、最高法院のメンバーを招集して行われた深夜の裁判。この裁判は明らかに非合法なものでした。規定によれば、最高法院の裁判は、神殿内の「裁きの部屋」で行われることになっており、朝のいけにえが捧げられる午前9時よりも前に、行ってはならないことになっていたからです。それから、ヨハネ福音書には記されていませんが、少し時間をおいて、夜明けを待って再び開かれた最高法院で、イエスの死が結審します。これは深夜に行われた審議を少しでも正当化するための形式的な集まりにすぎませんでした。
ヨハネには、「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」と記されているだけですが、他の3つの福音書は「夜が明けると」という共通のキーワードを用いて、祭司長、長老、律法学者たち、つまり最高法院全体でイエスを殺そうと相談した後、イエスを縛って総督ピラトに渡したということが書かれています。このようにして、法廷は宗教裁判から政治裁判へと移っていきます。ではなぜピラトのもとに連れて行く必要があったのでしょうか。イエスを死刑にするためには、ローマの許可を必要としたからです。それは、イエスの死のほんの少し前のことだったようですが、ユダヤの最高法院は、死刑執行権をローマに剥奪されていたのです。ここに歴史の不思議な巡り合わせがあります。あるいは、神のご計画があると言った方がよいでしょうか。
もしユダヤの最高法院に死刑執行権があったとしたら、どうなっていたでしょう。イエスはまちがいなく、石打の刑で処刑されていました。もしイエスが石打の刑で死んでいたとするなら、イエスの死は贖罪の死とはなり得なかったのです。なぜなら、その死が贖罪の死となるためには、二つの条件が満たされる必要があったからです。イエスの死が、過越祭の期間の死であることと、木に架けられた呪いの死であることです。
もう少しヨハネ福音書を見ておきましょう。「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」彼らは、異邦人の家に入ると宗教的に汚れてしまうという、言い伝えに過ぎない掟に縛られ、総督官邸に入ろうとはしませんでした。過越の食事ができなくなると困るという理由です。彼らは、このような細かい掟を守ることを大事にしながら、愚かにも神から遣わされたメシア、神の御子を殺すという大罪を犯そうとしていることに気が付きませんでした。

今週は受難週です。今週も大切なことを大切に。

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私の名前は希望です

棕櫚の聖日(聖餐式)
礼拝メッセージ 「私の名前は希望です」
聖書 ヨハネによる福音書18章28-30節
ヨハネによる福音書シリーズ(158)

18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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鶏鳴



ヨハネは、最高法院による宗教裁判と並行して起きたペトロの否認を、アンナスによる予審をはさむ形で、2ヶ所に分けて記しています。初めに第1の否認だけを記しましたが、続く箇所に第2、第3の否認が記されています。
ちょうど今頃の季節、花冷えのする夜でした。大祭司の屋敷の中庭で、そこに集まっていた人たちに紛れ、火に当たっているペトロに突然、声がかかりました。「お前もあの男の弟子の一人ではないか。」ペトロは前の時よりも語気を強め、その声を打ち消して「違う」と否定しました。それから、少し時間をおいて、「大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」が来て、「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか」と言いました。
ゲッセマネの園での騒動を覚えているでしょうか。イエスが捕らえられようとする中、ただ一人、ペトロだけが剣を振るって立ち向かいました。そして、大祭司の下役に怪我をさせてしまったのです。その下役の名はマルコスであったと、名前まで記録されていたのは、ペトロの否認の伏線でした。「お前、あの現場にいただろう。俺は見ていたんだよ。」絶体絶命、もう逃げられません。それでも、ペトロはその声を再び打ち消しました。
ヨハネはその時のペトロの発言をあえて記さず、その後のペトロの立ち直りに関しては、復活の後の出来事として感動的に描いていますが、ルカ福音書のカメラは、この時のワンシーンをまるで一枚の写真に収めるかのように切り抜いています。それは彼が3度目にイエスを知らないと言い、鶏が鳴き出した瞬間でした。ルカ福音書22章61節、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」
このルカの証言に従うなら、鶏の声と最後の晩餐の席で語られたイエスの言葉を結びつけたのは、イエスの愛にあふれる眼差しでした。ペトロは、「今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。深夜に鳴り響いた鶏の声も、イエスの眼差しも、神がペトロを眠りから目覚めさせ、もう一度はじめからやり直させるために備えられた神の恵みだったのです。
今日の写真は鶏鳴教会(ペトロの否認の現場、カイアファの屋敷跡に立つ記念教会)の尖塔に立つ十字架です。私たちの心を呼びさます声が聞こえますように。

次の日曜日は教会暦で棕櫚の聖日。キリストの最期の一週間(受難週)が始まります。

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祈りのチャレンジ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヤコブの手紙から。

1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

5:16 …正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

今週は『あかしびと』の巻頭のことばからのお勧めでした。
「祈れ! 祈れ!」との声が響きます。

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挫折のすすめ



新年度がスタートしました。名古屋教会も実習生を迎えての一年がスタートし、私個人としても今月から新しいチャレンジが始まっています。期待と不安の中で、この季節に毎年のようにお伝えしているメッセージは、渡辺和子シスターの本で有名になった「置かれた場所で咲きなさい」との言葉です。
この言葉は、次のように続きます。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに行き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。どんな所に置かれても、花を咲かせる心を持ち続けることができれば幸いです。
渡辺和子先生の書物に、「挫折のすすめ」という話しがありますので、少し紹介したいと思います。
「毎年四月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
これは、私自身が今まで何回か、第二志望を余儀なくされて思うことです。
まず、小学校。・・・」という話しから始まって、大学受験、修道会入会の話しが続きます。
ほんとうはそこに入りたいと願っていた修道会があったのですが、間際になって断られます。理由は、当時29歳で、年を取り過ぎていると判断されたことと、口紅を付け、ピンクや赤のセータを着て、派手な生活をしていると思われたためだったそうです。修道会入りが遅れたのは、年を取ったお母さまのそばにいてあげたかったこと、また医学部に進んだお兄さまの卒業と結婚をサポートするためだったのですが、残念ながら入会は叶いませんでした。
その後、ある方の勧めで、まったく見も知らぬノートルダム修道女会の門を叩くことになりました。シスターの言葉です。「第一志望ばかりが自分にとって最良とは限らない。挫折したからこそ出会えるものがある。挫折は自分を鍛え、きっと成長させてくれる。」
新年度のスタートに「挫折のすすめ」はふさわしくないでしょうか。でもきっと、これから何度も挫けそうになる私たちにとって、この季節にこそ必要な勧めなのだと思います。聖書にもこう書かれています。「わたしたちは知っています。苦難は(挫折は)忍耐を、忍耐は練達を(磨かれた品性を)、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことが(失望させることが)ありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

今日は地域の先生方との集まりが持たれました。若い先生方を迎え、こちらも新しいスタートです。
初心に帰って、今週も大切なことを大切に。

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もう一度はじめから

礼拝メッセージ 「もう一度はじめから(挫折のすすめ)」
聖書 ヨハネによる福音書18章25-27節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(157)

18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ルカによる福音書
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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