信仰の一線



中学生のプロ棋士、藤井聡太四段が時の人になっていますが、
将棋好きという先生からこんな話しを聞きました。
あの中田重治先生の言葉だそうです。

「歩も死線を越えれば金になる。」

「歩」は前に一つずつしか進めない駒ですが、敵陣に入ると「金」なります。
「歩」の成金(と金)というのは、普通の「金」よりも価値があって、
勝敗を左右することさえあるというわけです。
私たちが、たとえ「歩」のように地味な存在であっても、
あるラインを越えると「金」になれるとすれば、それは大きな励ましです。
この夏、今まで越えられなかった信仰の一線を越え、自分を越えるなら、
敵陣ではなく、神の御心の中に入って行き、
私たちも神に用いられる存在としていただけるのです。

今週も大切なことを大切に。
今日は岐阜で祈り会です。

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福音には、神の義が



1517年10月31日、ビッテンベルグの城門に95カ条の提題という、神学的な問いかけがルターによってなされました。彼は、まさかその日が宗教改革記念日になるとは考えてもいなかったでしょう。宗教改革のきっかけになった御言葉がありました。詩編31編1節の言葉です。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(口語訳)。これが、宗教改革の歴史の中で、ルターの「一点突破」と呼ばれる御言葉です。(新共同訳では「恵みの御業によってわたしを助けてください」と訳されていますが、それにも意味があります。)神の義とは、神の正義、清さであって、私たち罪人と神を隔てるものであり、その義のゆえに、私たちは裁かれ、罰せられるのですから、罪ある者にとって神の義は恐ろしいものだったのです。
ルターは、神の義が私たちを裁くのではなく、「助ける」と書かれていることに違和感を感じますが、ついにルターの研究の中心となる、ローマの信徒への手紙1章17節に目が開かれ、福音の理解は一点突破から全面展開していきます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」彼はこの途轍もない発見を、「修道院の塔の小部屋において得た」と言ったことから、これを「塔の体験」と呼びます。
そうです。イエス・キリストが、一粒の麦となり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったという、この福音の中に神の義は現されました。聖書は言います。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのである。」
私たちは罪人でしたが、神の目から見て正しい者、義人にしていただきました。ルターの言葉です。「キリストは十字架の上で、自分ではないもの(罪人)になられた。それは、私たちが自分ではないもの(義人)となるためであった。」
イエスは言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と。ヨハネはイエスの言葉に説明を加えます。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」ギリシア人の来訪から始まった一連の記事でしたが、ここに彼らへの答えがありました。「すべての人を」、詳訳聖書では「ユダヤ人はもちろん、異邦人も、私のところに引き寄せよう」と訳されています。イエスが十字架に上げられるとき、すべての人が十字架のもとに引き寄せられ、神の愛を体験するようになるのです。この福音にこそ、神の義は示されたのです。

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最後の人



今年はルターによるドイツにおける宗教改革から500年目の年に当たっています。二つの「R」ということが強調されていると聞きました。福音の素晴らしさを再発見(Rediscovery)し、決意も新たに再スタート(Restart)することです。今年の下半期(10月31日が宗教改革記念日)は、そのことを願いながら、宗教改革の話題をちりばめてメッセージをしたいと思っています。
宗教改革の功績の一つは、すべての人が自分の言葉で聖書が読めるようになったことです。当時はラテン語が読めなければ聖書が読めませんでした。ルターを遡ること150年前、イギリスのウィクリフという人物は、宗教改革に先駆け、聖書翻訳に着手しています。その働きから、今日も彼の名が付けられたウィクリフ聖書翻訳協会という団体があります。聖書翻訳の仕事は、骨の折れる途轍もない仕事です。例えば、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」という御言葉がありますが、日本人はこの状況を頭でイメージし、罪の赦しがどんなものかを理解できます。しかし、雪を知らないアフリカの人にはそれがわからないのです。どう訳したかというと、「綿花のように」と訳したそうです。これだとアフリカの人でもわかります。
ウィクリフの人が、これもアフリカのカレ族のために聖書を訳していた時のことです。「慰め」という言葉をどう訳するかで思案していました。そんなある日、カレ族の人が列を作り、頭に籠を載せて歩いている様子を見ましたが、最後の人だけ頭に何も載せていないことに気がつきます。どの列を見ても同じです。理由を尋ねると、「列の誰かが疲れて倒れたら、すぐにその人のところに駆け寄って、その荷物を代わりに運ぶ人が列の後ろにいる」と聞き、ウィクリフの人は、これこそ「慰め」だと言って、「最後の人(傍らに共に倒れてくれる人)」と訳したそうです。
今年の初めに、イザヤ書の52章から、「しんがりとなる神」のいうメッセージを語りました。しんがりとは、最後尾で戦いを続ける部隊のことです。その言葉には「集める」という意味がありますが、しんがりを守るとは、最後尾で戦いを続けると共に、自軍が散らかしたものをほったらかしにせず集めることです。戦場では、負傷兵や遺体を引きずってでも連れ帰らなければならないように、私たちの人生の恥も失敗も傷も、神が全部背負ってくださるというのが、しんがり、「最後の人」です。そして、その最大の業は、イザヤ53章、イエス・キリストの十字架だったのです。

今週も大切なことを大切に。

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御創



昨日、今年の上半期最後の礼拝は、岐阜教会でメッセージを語らせていただきました。
以前、ブログでも紹介しましたが、新聞のコラムで読んだ「創」の話しから始めました。

「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
『十字架の黙想』の第1日に記されている聖イグナチオの「十字架に向かう祈り」を思い出します。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版では常用漢字の「傷」になりましたが、
文語版では「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
だれでもキリストの十字架の御創に接ぎ木されるなら、その人は新創造された者。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しい。

今日から京都でもたれるセミナーに参加します。
今週も大切なことを大切に。

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尊い一粒の麦よ



聖イエス会の情報誌『あかしびと』で、「すばらしいクリスチャンたち」という連載が続いていますが、まもなく届く7月号に、今年は没後80年と言うことで、重利清子ちゃんのことが紹介されています。
「今年(2017年)は、重利清子ちゃん没後80周年にあたります。神を見、『平安』という言葉を遺して天に召された清子ちゃんの存在は、聖イエス会にとって『恩寵』そのものであるといえます」と書き出される文章を読みながら、聖イエス会に重利清子ちゃんを与えてくださった神に感謝の思いを新たにしました。
1929(昭和4)年、中国の瀋陽(当時の満州・奉天)で生まれた清子ちゃんは、生まれつき体が弱く、右足が不自由で、学校の行き帰りにはいつもいじめにあい、8歳にして、すでに生きることの苦しみと悲しみを味わっていましたが、教会に導かれ、聖書を通して、神の愛を知りました。1937(昭和12)年12月、風邪がもとで、床に伏していた清子ちゃんは、祈りの中で突然こう言って顔を輝かせました。「もうだいじょうぶ。清子はエス様を見たからうれしい!」と。その3日後の12月12日、「平安、平安、平安」と、3度くり返して、清子ちゃんは8歳と10カ月の生涯を終えて、愛し慕ったキリストのもとへ召されていきました。
清子ちゃんの言葉とその姿は、聖イエス会の創立者である大槻牧師を、神との出会いに導きました。そして今、御名による神との出会いの体験は、イエスを神の子メシアと信じる、私たち一人一人にも与えられているのです。大槻牧師は、清子ちゃんの葬儀に「一粒の麦」という告別説教を語り、最後にこう言っています。
「私たちは何のために選ばれ、召されたのか。それは『一粒の麦』となるためである。・・・私たちは、なぜ神の栄光を充分に現すことができないのか。それは、徹底的に自己を十字架につけて、全く死に切っていないからである。自分を捨て、十字架を負い、主に従うこれ以外に、神の栄光を拝する道は絶対にないのである。
清子ちゃんは、一粒の麦として散ったのである。・・・尊い、尊い一粒の麦よ! すでに種は地にまかれた。清子ちゃんは、清きが故に、良き種として選ばれ、神の栄光のためにまかれたのである。主は必ず、この尊い選ばれた一粒の麦を祝し、豊かな収穫を、リバイバルを与えてくださると、信じて疑わない。ああ、一粒の麦は地に落ちた。やがて春が来ると、この一粒の麦は芽を出し、多くの果を結ぶであろう。」

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ゲッセマネの祈りと主の祈り



「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されます。
この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されていないのですが、ヨハネはその代わりに、「一粒の麦」の譬えに続けて、心を騒がせ、苦悶するキリストの姿をここに描きます。
十字架の前夜、ゲッセマネの園で、血の汗を流し、もだえ、七転八倒の苦しみを経験されたイエスは、全人類の罪が盛られた杯を前に、「この杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、同時に「私の願いのままにではなく、御心のままになさってください」と祈りました。キリストは、最初の人アダムの罪から始まり、カインの殺人罪、そして、最後の人の最後の罪に至るまで、全人類の(私の、あなたの)過去、現在、そしてこれから犯すであろう罪まで、すべての罪を背負い、一粒の麦となって死んでくださったのです。
私たちは、「御心がなりますように」と祈るようにしばしば教えられますが、それは「御名の栄光を現してください」との祈りでもあるのです。そして、それはイエスが教えてくださったあの「主の祈り」そのままです。「父よ、御名が崇められますように。御心が行われますように。」このキリストの心を心とできますように。

今日は地区の先生方の集まりが持たれました。ちょうど台湾の卓枝安牧師が亡くなられて50日目、卓牧師のことを親しく聞かせていただく時が与えられ感謝でした。

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化学反応



アメリカのNASAでも働いていた韓国の科学者でキム・ヨンギルという方の証しを読みました。
彼は無神論者でしたが、神について知りたいと思い、聖書を開きヨハネによる福音書から読み始めました。最初のつまずきが、カナの婚礼の奇跡でした。彼の分析では、化学方程式がH20からC2H5OHエタノールに一瞬にして変わったということだが、元素を変化させるためには核融合が必要で、それは常温では起こり得ない。その後も、科学者目線での分析を続けますが、奥様やNASAで働く多くのクリスチャンたちの祈りによって、ついに彼も神のシントロピーを体験し、キリストを信じます。(シントロピーとはエントロピーの反対で、無秩序な状態から秩序ある状態への転換を言います。)それこそ水がぶどう酒に換えられるにも優る奇跡でした。聖会の恵みを噛みしめています。常温では起こりえない核融合、御言葉による化学反応が、私のうちにも起こりますように。

先日、聖会に来ていただいた竹内牧師は京都府の北部・綾部市にある教会の牧師ですが、次の日曜日はそちらの教会で、チェンバロコンサートが催されます。お近くの方がありましたら、ぜひお出かけください。

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慰め主



ペンテコステの恵みに満ちた聖会を導いていただきました。新しく導かれている方々も、御名を呼びたくなるようなメッセージと証しで、祈りを受けながら、涙をぬぐっていました。御名を崇めながら、聖霊が心に深くしみ込みますように。
聖会前、今回の聖会のために祈っていると、聖霊が「慰め主」と呼ばれていることに目が開かれました。私たちが使っている聖書では、「弁護者」と訳され、多くの日本語の聖書で「助け主」と訳されている言葉です。詳訳聖書はさすがに超詳しいです。「しかし、慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉、すなわち、父が私の名によって〈私の代わりに、私を代表し、私に代わって働くために〉つかわされる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教えてくださる。また彼は私があなたたちに語った事をことごとく思い起こさせ〈思い出させ、記憶によみがえらせ〉てくださる。」イエス・キリストが「私の代わりにつかわされる聖霊」と言っているお方は、「慰め主」です。単に、可愛そうだねと言って同情するだけではありません。聖書学者のバークレーによれが、ラテン語の「フォルティス」は落胆している人に再び勇気を与える慰めと言う意味だと解説されていました。慰め主は、助言者であり、助け主であり、執りなす者、弁護者、激励者、援助者ですから、勇気をもたらす慰めが与えられるのです。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍に引き寄せ、抱きかかえてくれる存在という意味です。英語で慰めを「comforter」、掛け布団と呼ぶのはそのためかも知れません。今週も慰め主である聖霊が共にいてくださいます。

今週も大切なことを大切に。

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両手でいただきなさい



カトリックのシスター渡辺和子さんがベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』にこんな文章を記しておられます。
「人は、生きたように死ぬ」ともいいますが、これは必ずしもそうではなく、生涯を弱者のために尽くした人が、理不尽としか思えない死を遂げることもあります。それならば「いい加減に」生きてもいいではないかというのも、一理あります。が、反対に、わからないからこそ、「ていねいに」生きることもできるのです。・・・では、ていねいに生きるとは、どういう生き方なのでしょう。数年前、私は「ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい」という言葉に出合いました。そしてこれは、私に、ていねいに生きる一つのヒントになりました。誰が考えてもよいもの、ありがたいもの、例えば賞状、卒業証書、花束などを両手でいただくのには、何の抵抗もないでしょう。しかし、自分がほしくないものだと、そうはいきません。拒否したい、突き返したいようなものが差し出された時、果たして、それを受け止めるだけでなく、両手でいただく心になれるのだろうか、と私は、自分に問いかけ続けています。・・・
何事もリハーサルをしておくと、本番も落ち着いていられるように、大きな死のリハーサルとして、小さな死を、生きている間にしておくことができます。小さな死とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」ように、私たちの小さな死は、いのちを生むのです。
自分ファーストな私たちには、どこを探してもそんな崇高な愛は見当たりません。しかし、ペンテコステの朝、一粒の麦となられたキリストの死と復活を通して、弟子たちの上に注がれた聖霊は、今日も信じるすべての人に注がれ、どんな人でも愛の人に変えることができるのです。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。さあ、両手を差し出して受け取りましょう。来てください愛の聖霊、求める者を訪れ、心に満ちてください。

次の日曜日は、ペンテコステ記念の聖会です。慰め主なる聖霊を待ち望みます。

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最古の職業?



先週土曜日の中日春秋から。
旧約聖書の創世記をめぐる、こんなジョークがある。三人の男が言い争っている。医者と建築家と政治家が、自分たちの職業のうち最古の職業はどれかを論じているのだ。「神はアダムの肋骨からイブを作られた。これは手術ではないか」と医者が主張すると、建築家が反論する。「神はまず、混沌からこの世界を構築された。建築こそ一番古い」。「なるほど」と政治家が口を開いた。「ところで、その混沌をつくったのは誰だね?」「誰だね?」と聞かれて、いま真っ先にその顔が浮かぶ政治家が、またしても特大の混沌をつくった。地球温暖化対策の世界的な枠組み「パリ協定」から離脱すると宣言したのだ。・・・
この後、アメリカのトランプ大統領のことが書かれています。自国第一主義(アメリカ・ファースト)を掲げて大統領に選ばれた指導者だけではなく、くり返し忖度の有無が話題になっている日本のトップも、隣国アジアの国々のトップも、次々と新たな混沌を作り出しています。国益を優先する自国第一主義はある意味、当たり前のことでしょうが、大局を見失うと、ただの独りよがりになり、新たな混沌をつくり出すだけです。
イエス・キリストが教えてくださった「一粒の麦」の譬えは、そんな自分勝手な私たちに、自分に死に、他者を生かすという神の国の生き方を、自らがモデルとなりつつ示してくださったものです。共観福音書では、もう少し早い時点で、イエスが受難の予告をされ、その直後に、イエスに従おうとする者の覚悟が語られますが、ヨハネは同じ内容を、十字架の死を目前にしたこのタイミングで、とても印象的に語ります。
一粒の麦の譬えは、自然界の事実です。一粒の麦が地に落ちて発芽する事実を、麦が「死ぬ」と表現することで、これをイエスの死と重ね合わせ、イエスの死が持つ意義を語っています。つまり、イエスが死ぬことによって、多くの人が真実の命に生きるようになるという福音の奥義が、この譬えによって宣言されているのです。

今日は京都でロゴス社の編集会議。
今週も大切なことを大切に。

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