私にとって、フランシスコは

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書6章から。

6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。

今週も『あかしびと』から一つの記事を紹介しわかち合った後、先週学んだ巻頭のことばを発展させ、『言泉集』から「私にとって、フランシスコは」というメッセージを学び、聖イエス会の霊性の基礎がどこから来ているのかを教えられました。「キリスト者はキリストのごとく」と言われてもそれは高嶺の花のように思えますが、「だれでも、十分に修行を積めば、・・・なれる」との言葉に励まされました。

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一枚の洗礼証明書



12月の『ぶどう樹』が届いています。表紙で使っているクリスマスの降誕セット(プレゼピオ)の写真は、毎年名古屋教会の玄関に飾られている人形です。 来週からアドベントに入りますが、ぜひ祈りを持って、『ぶどう樹』とクリスマスの案内を手渡し、どなたかを教会に誘っていただければ感謝です。
クリスマスと言えば、昨年のクリスマス、12月25日に天に召されたAさんの記念会が、土曜日の午後に蟹江で持たれました。昨年のクリスマスの行事が全部終わって、26日の朝、電話が入り、葬儀の依頼を受け、蟹江の葬儀場に出かけました。安らかに眠っているAさんを囲み、二人の若い子どもさんとお母さまと共に祈りの時を持ち、葬儀の打ち合わせをしました。
私にとっては面識のない方でしたが、亡くなる前日、Aさんが大切に取っていた「洗礼証明書」を娘さんが発見し、お母さんがこの教会に通っていたことがわかりました。もしこの一枚の洗礼証明書が見つかっていなければ、葬儀を依頼されることもなかったと思うと、主の導きを感じます。亡くなる前に、親子で「葬儀はどうしたらいいの?」という話しもしていたそうですが、「キリスト教式でしてほしい」との希望でした。
式の準備のため、何人かの方にAさんのことを尋ねたところ、ある年のクリスマスに、青年会で演じた「クリスマスキャロル」の主役を自ら買って出たことがあったという話しを伺いました。そこで前夜式では、クリスマスの賛美歌を歌い、ディケンズの「クリスマスキャロル」の話しをしました。自分の過去、現在、未来を旅するスクルージ。みすぼらしい墓石に自分の名前を見つけた彼は、「どうか墓石に刻まれている私の名前をスポンジで消すことができると言ってください!」とすすり泣きますが、やがて夢から覚めたスクルージはこう言います。「私は鳥の羽のように軽く、天使のように幸せだ!さあ、みんなとクリスマスを祝おう!」、スクルージは生まれ変わったのです。
Aさんの家では、クリスマスを特別な日としてお祝いしてきたそうです。この物語がAさんの心に生き続けていたのかも知れません。教会暦では次の日曜日から待降節(アドベント)です。

今週も大切なことを大切に。

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山々が生まれる前から

礼拝メッセージ「山々が生まれる前から」
聖書 ヨハネによる福音書17章24-26節、箴言8:22-31、詩編90:2ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(147)

17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

箴言
8:22 主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
8:23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
8:24 わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
8:25 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。
8:26 大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。
8:27 わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
8:28 主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき
8:29 この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。
8:30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
8:31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。

詩編
90:1 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:2 山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。

コロサイの信徒への手紙
1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
1:17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

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美しい門で



私がまだ岐阜にいた頃、ボストン大学のL教授が杉原千畝さんの取材に来られました。名古屋で歓迎集会が持たれたのですが、L教授は創世記28章、ヤコブの物語から御言葉を引用され、「まことに主がこの場所におられたのに、わたしはそれを知らなかった」と感動のあいさつをされました。御言葉はこう続きます。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、これは天の門だ」と。きっと教授は、名古屋教会の講壇に立ち、ヤコブが見た天と地をつなぐ梯子を感じたのでしょう。
イエス・キリストこそ天と地をつなぐ梯子、天の門です。聖書の中に登場する有名な「門」と聞いて、使徒言行録の3章に出て来る「美しい門」と呼ばれたエルサレム神殿の門を思い出される方もあるかも知れません。ペンテコステの直後、聖霊に満たされたペトロとヨハネが生まれながら足の不自由な男を癒した奇跡の舞台です。
聖書にはこう書かれています。「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」リビングバイブルでは、「もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました」と訳されていますが、門のそば、もうすぐ宮だという所に、彼はいたのです。
ヨハネ福音書の10章で、イエスは「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と語られましたが、門を出入りするとは、イスラエルの人々にとって、日々の暮らしを表し、生きるということを意味していました。朝、門から自分の家を出て、夕べに門を通って帰ることが、人生だと考えられていたのです。詩編121編に、「主はあなたの出ると入るとを守られる」と歌われているのも同じことです。
WHOは健康について、身体的にも、精神的にも、社会的にも完全で良好な状態にあることと提唱しますが、聖書的に、この完全で良好な状態とは、キリストという美しい門を出入りする人、神の現存の中に生きる人なのです。ですから、大切なことは毎日、イエス・キリストという美しい門を通って、神の神殿、神の現存の中に入ることです。あなたは今日、どこにいるのでしょうか。門のそばでしょうか。もうすぐ宮だという所でしょうか。今日、神殿の中に入って行きましょう。

今日は勤労感謝の日ですが、教会では健康感謝の日とも呼び、一年の恵みに感謝します。
心も体もキリストにあって健やかでありますように。

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主の現存を見る生活

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。マタイによる福音書の6章から。

6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

先週、『あかしびと』の11月号が届きましたので、今日は「巻頭のことば」からお勧め。

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望むらくは



イエスは祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」新共同訳聖書では訳されていないのですが、原文には「お願いします」という言葉があって、それがイエスのたっての願いであったことがわかります。文語訳聖書の「望むらくは」という訳は印象的です。イエスは強く望まれたのです。「(わたしを信じるすべての人たちを)わたしのいる所に、共におらせてください」と。
ヨハネの黙示録にはこう書かれています。3章21節、「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。「勝利を得る者」については、ヨハネの手紙にはこう書かれています。「だれが世に打ち勝つのか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」と。その人を私は自分の座に共に座らせようと言われるのです。それは信じられないような、嘘のような話しです。でも嘘ではありません。覚えていますか。十字架の上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願った一人の犯罪人に向かって、イエスは言われました。「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と。
イエスの祈りは続きます。「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」ここにおいて、イエスの祈りは頂点に達します。ロゴス(キリスト)が受肉する前の、永遠の神としてのあるがままの栄光を、至福直観において彼らに見せてください、それがイエスの望みであったのです。

今週も大切なことを大切に。

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天の門

礼拝メッセージ 「天の門」
聖書 ヨハネによる福音書17章24-26節ほか

17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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共に座っている

会堂のベンチ

アダムが失楽園した日から、神はずっとあなたが、あなたの帰るべき場所に帰って来ることを、そこにあなたが座っていることを願っておられます。それこそ、キリストにおいて完成する神の救いです。イエスは祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」
共に座る幸いについて、ダビデがこう歌っています。詩編133編です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」これは「都に上る歌」ですから、久々に再会した兄弟たちと神殿を詣でる喜びが歌われていると思っていましたが、こんな文章を読んで印象が変わりました。

このダビデの詩は私の好きな詩のひとつで、読むたびごとに必ず心の中に、ある情景が浮かんでくるのです。それはこんな情景です。
一日の仕事を終え、夕食時を迎えた家族が食卓を囲んで共に座り、父親が食前の感謝の祈りと家族が一日を無事に送れたことのお礼を神さまに申し上げている・・・そこには主にある深い平安と静かな喜びがあふれているのです。
また、こんな情景も浮かんできます。教会の兄弟姉妹が礼拝堂に集い、共に座って心からの礼拝をささげている。皆が唯一の神さまを仰ぎ、一つの心で賛美し、感謝の祈り、あるいは赦しを求める悔い改めの祈りをささげている。そこには「御国を来たらせたまえ」と祈りながら地上を旅する神の民に与えられる深い神の恵みと、心の底から湧き出るような清らかな喜びが満ちている・・・。
わたしたちは聖日ごとに主にある兄弟姉妹と共に礼拝を守り続けられることの素晴らしさを素直に感謝したい。共に座って祈りをささげ、礼拝をささげられることを大切にしていきたいと思います。なぜなら、心ならずも共に座れない、座れなくなってしまった人たちが現実に多くいることを知っているからです。・・・・・・
この詩の作者ダビデは、自分の傲慢の罪のゆえにバテシバ事件を起こし、王位継承をめぐって愛する息子アブサロムを失います。イスラエルの王になったものの、幸せな家庭をつくれなかった人です。ですからこの詩の奥には、共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になってほしいとの切なる願いが秘められていることを、私は強く感じるのです。

今年も残り1ヶ月半、共に座れなくなった者たちが赦しあうことによって、再び共に座って祈り、礼拝をささげる者になれますように。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

18日の礼拝は、健康感謝礼拝です。

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あなたがたの命であるキリスト

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コロサイの信徒への手紙3章から。

3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

今週は『言泉集』から、秋に学ぶべきメッセージを学ばせていただきました。

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家から、湯気が消えようとしている。



有名なコピーライターの岩崎俊一さんをご存知ですか。トヨタ自動車の初代プリウスの「21世紀に間に合った」とか、資生堂の「美しい50代がふえると日本は変わると思う」、ミツカンの「やがて、いのちに変わるもの」など、どれも岩崎さんの言葉です。岩崎さんのエッセイ集から一文紹介します。「家から、湯気が消えようとしている。」

幸福は、ごはんが炊かれる場所にある。
これは5年前、とあるお弁当屋さんのために書いたキャッチフレーズである。これをもし50年以上前に書いていたとしたら、果たしてこのコピーは成立するだろうか。
しない、と思う。
どの家もごはんを炊いていたからだ。どの家も夕暮れになると、主婦は食事の準備に立ち、手の空いた子は風呂焚きや駅前の魚屋へのお使いを言いつかり、いそいそと家路に急ぐ父親たちは窓から流れる夕餉の匂いに出迎えられた。みんながそんなふうに力を合わせ、一日の終わりに家族が集まるための準備に熱中したのである。
今とは違い、それはどこにでもある風景で、あまりにもあたり前過ぎて、それを殊更あたたかさとか幸福感に結びつけて考える人はいなかった。
しかし、いろいろな時代を体験してきた今ならわかるが、あれは心と物のバランスがとれたいい時代だった。平和で、つつましく、食べるものに困らず、ほしいものに振り回されず、人と人、家族とガッチリ絡み合い、助け合い、喧嘩し合い、ガチンコで向き合っていた贅沢な時代だった。・・・
しかし、どんなに懐かしがろうが恋しかろうが、二度とあの時代は戻って来ない。なぜなら、僕たちはあまりにもいろんなことを知り過ぎた。過剰な情報と、うんざりするくらい便利な道具を持ち過ぎた。目の前に、味わい深いがとても手間のかかるものと、味わいは薄いが超がつくほど便利なものを見せられたら、誰だって後者に手を伸ばすだろう。・・・

そうだったなあとうなずいている方もいるでしょう。確かにそんな時代がありました。岩崎さんは「二度とあの時代は戻って来ない」と言っていますが、それではちょっと寂しい感じがします。消してはならない湯気があるからです。ところで、「湯気の立つ家に帰ろう」とは、聖書の中心的なメッセージです。家とは、あなたの帰るべき場所、あなたの居るべき場所、神の家、教会です。
放蕩息子の譬えを覚えていますか。息子の帰りを喜ぶ父は僕に命じました。「食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」そして、湯気の立つような神の家での祝宴が始まりました。

今週も大切なことを大切に。

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