み心なのですか




来年1月の『ぶどう樹』に瞬きの詩人、水野源三さんのことを書きました。今年もクリスマスのシーズンに源三さんの詩を聖歌隊が賛美しています。曲の雰囲気もありますが、歌われている歌詞がすばらしいです。源三さんの詩が醸し出す温もり、静けさ、安らぎ、星を見上げる宇宙大の広がり、そんな詩がどれも瞬きから生まれたとは誰が想像できるでしょう。
源三さんは、長野県坂城町で生まれ、小学4年生の時、集団赤痢からの高熱が続き、脳性麻痺となり、見ること聞くこと以外、何もできなくなりました。瞬きで、わずかに意思を伝えるだけの暗闇に突きおとされた源三さんは、何度も死を願いました。ところが、彼の母に手渡された一冊の聖書が、彼に光をもたらしたのです。母が仕事の合間にめくってくれる聖書を、彼は読み、やがてルーテル・アワーというキリスト教のラジオ番組を通して、信仰に導かれます。あるとき、彼の母うめじさんが、50音図を書いて、彼の瞬きが示す字を拾ってつなげてみると、なんとそれが詩になっていたというのです。
源三さんは詠います。「今きいたこと、見たこと、心に感じたこと、忘れないうちに、消えないうちに、主のうるわしいみわざを、賛美する詩をつくる」と。そんな一瞬の、瞬きの中から生み出された源三さんの詩、祈り、信仰の言葉、メッセージに心を洗われます。
クリスマスの季節に書かれた詩も多く見られますが、その一つを紹介します。「み心なのですか」という短い詩です。「父なる神様、私たちを罪より救うため、ユダヤのベツレヘムに今宵お生まれになった御子イエス様を、十字架にかけるのがみ心なのですか。避けられないのですか。ちがう方法はなかったのですか。」
ヨハネによる福音書を5年かけて、19章まで学んできました。のこり2章は年が明けてから、3月中に終わらせたいと思っていますが、もう少しだけキリストの埋葬に触れておきたいと思います。「アドベントにキリストの埋葬ですか?」と言われそうですが、ベツレヘムからカルバリーまで、そこに示された神の愛を発見したいと思います。

今週も大切なことを大切に。

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ベツレヘムからカルバリーまで

待降節第1週
礼拝メッセージ 「ベツレヘムからカルバリーまで」
聖書 ヨハネによる福音書19章38-42節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(183)

19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

今日から待降節、クリスマスを待ち望みます。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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12月のオープン礼拝



次の日曜日から12月、教会のカレンダーも待降節を迎えます。
今年もクリスマスを待ち望むシーズンがやって来ました。
12月は毎週、教会は初めてと言われる方にもわかりやすいオープン礼拝です。
ぜひお誘い合わせて、教会でのクリスマスの祝い方をお楽しみください。
みなさまのご来会を心からお待ちしております。

22日の礼拝はクリスマスの祝賀礼拝、聖歌隊によるキャンドルサービスと聖誕劇による音楽礼拝です。
フルートとヴァイオリンの素敵な演奏もあります。ぜひお出かけください。

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王の埋葬



かつて夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモもイエスの埋葬に加わりました。ある聖書注解者は「ヨセフの良き模範が、ニコデモの忠誠心を焚きつけたのであろう」と解説しています。彼は、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラ(およそ33キロ)持って来ました。没薬は、イエスの誕生の折に、東方の賢者が献げたものの一つですが、死者に塗る防腐剤であり、沈香は香料の一種です。彼らは十字架のもとでイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包みました。
「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」と普通に記されていますが、イエスは冒瀆罪、反逆者との汚名を着せられ、罪人の一人として十字架刑に処せられました。通常では、死刑囚の遺体は粗末に扱われ、谷間に投げ捨てられて野獣の餌食になることもありました。罪人として処罰された者は、死んだ後も辱めを受け続けなければならなかったのです。ところが、アリマタヤのヨセフとニコデモの登場により、イエスはユダヤ人の埋葬の習慣に従い、しかも信じられないほど豪華な埋葬が粛々と執り行われたのです。
百リトラは33キロほどですが、ベタニヤのマリアがイエスの足に注いだ香油が、300デナリオンでした。1デナリオンが労働者の1日の賃金というのですから、ほぼ年収に相当しますが、ニコデモが持参した没薬の額は、その数百倍にもなると言われています。これほどおびただしい没薬、沈香、香料、亜麻布を用いて埋葬されたイエスとは、一体どなたなのでしょう。イエスこそ、まさにユダヤ人の王、いいえ、王の中の王(King of Kings)であったというのが、ヨハネがここで私たちに伝えたかったメッセージなのです。ヨハネによる福音書が伝えるイエスのご受難の物語を統べくくるに当たって、私たちはイエスをどのように礼拝するべきでしょうか。
パウロの言葉を借りましょう。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が(あなたの舌が)、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」アーメン。

次の日曜日から12月、教会のカレンダーでも待降節に入ります。クリスマスを待ち望むシーズンです。
今年のクリスマスは教会で。

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帰るべき家、ベツレヘム。

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルツ記の1章から。

1:1 士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。

1:6 ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。
1:7 ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。
1:7 故国ユダに帰る道すがら、
1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。

1:14 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。…
1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」

今日は先日届いた『あかしびと』の11月号の記事をいくつか紹介した後、アドベントを迎える備えにルツ記から、短くお勧めをさせていただきました。

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弟子となしたまえ



イエスの葬りについては、四福音書すべてに記されていますが、ヨハネの視点はユニークです。ヨハネは18章から長く続いた受難の物語をここで統べくくりますが、ここまでヨハネがくどいほどにこだわってきたフレーズがあります。「ユダヤ人の王」という言葉です。ローマ総督ピラトはイエスに対する審問において、何度も「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねました。ローマ兵が、茨で編んだ冠をイエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせる場面でも、イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれます。極めつきは、十字架の上に掲げられた罪状書きです。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。ヨハネが伝える葬り、彼は誰の葬りについて私たちに伝えようとしているのでしょうか。
イエスは午後3時に息を引き取られましたが、日没が近づいていました。日が沈むと、過越祭の特別な安息日が始まります。遺体をそのままにしておけなかったユダヤ人の指導者たちは、囚人の足を折るようにピラトに願い出ましたが、ここにもう一人、イエスの遺体のことでピラトのもとに出て行った人がいました。ヨハネは彼のことを「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と紹介しています。ルカの福音書によれば、彼はユダヤの最高法院の議員であり、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意していなかった。・・・神の国を待ち望んでいたのである」と記されています。マルコは、彼が「勇気を出して(口語訳では「大胆にも」)」イエスの遺体を渡してくれるように願ったと記しています。
まるで隠れキリシタンのように、自らの信仰をひた隠しにしていたヨセフが、ここに至ってイエスの弟子であることを明らかにし、勇気を奮い起こして大胆に立ち上がったのです。イエスの死が、イエスの弟子である彼を奮い立たせたのです。
「弟子となしたまえ、わが主よ。心の底より、弟子となしたまえ、わが主よ」と祈ります。

今週も大切なことを大切に。

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王の王の葬り

健康感謝礼拝
礼拝メッセージ 「王の王の葬り」
聖書 ヨハネによる福音書19章38-42節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(182)

19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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自分たちの突き刺した者を見る



イエスが十字架に付けられたのは過越祭の特別な安息日に入る準備の日でしたが、過越祭の安息日に、十字架に付けられた囚人の遺体を残したままにしておけなかったユダヤ人の指導者たちは、囚人の足を折ってから死体を取り降ろすようにピラトに願い出ました。ピラトがそれを承諾したので、兵士たちは、息の残っていた二人の囚人の足を折りましたが、イエスの足は折りませんでした。しかし、兵士の一人が、足を折る代わりに、槍でイエスのわき腹を突き刺すと、裂かれたイエスの御傷から、血と水とが流れ出たのです。それを証言するヨハネの意図は、それが聖書に書かれていることの成就であったという点にありました。「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」
「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」という言葉は旧約聖書ゼカリヤ書12章10節の引用ですが、ヨハネは黙示録の1章でも、この言葉に言及しています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは」と。
ゼカリヤ書12章には、終末におけるイスラエルの霊的回復のプロセスが示されており、終末の預言の中でも最も大切な箇所です。終わりの日に、エルサレム問題が、世界最終戦争の導火線となり、国々がエルサレムを攻撃します。その時、エルサレムを持ち上げようとする者は皆、致命傷を受けると教えられているように、神の特別な介入によって、イスラエルは奇跡的に救われるのです。そして、イスラエルの霊的回復が始まります。12章10節、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」真理の御霊である聖霊が注がれる時、何が起こるのでしょう。「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」十字架の前夜、イエスが語っておられたように、聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにし、彼らを十字架に付けられたキリストのもとに導くのです。かくして、ゼカリヤの預言は13章に続くのです。「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。」裂かれたイエスの御傷は、罪と汚れを清める一つの泉となりました。

聖イエス会では11月23日を健康感謝の日と定め、神の恵みに感謝します。

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キリストの内にいる者と

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
フィリピの信徒への手紙3章から。

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

今週は神学生が『言泉集』から、御言葉の恵みを分かち合ってくださいました。
キリストを知り、キリストの内にいる者とされた恵みに感謝。もっともっと深く知ることができますように。

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間を隔てている壁



昨日の礼拝、司会をしたH神学生が、先日参加した教会音楽部セミナーの恵みを証しした後、聖歌隊が「イェルシャライム・シェル・ザハヴ(黄金のエルサレム)」を歌いました。聖イエス会でこのイスラエルの歌がヘブライ語で歌われるようになったのはいつからかわかりませんが、1970年の3月に、神戸にあるシナゴグ(ユダヤ教の会堂)の献堂式祝賀会に、大槻先生と聖歌隊が招待され、そこで「イェルシャライム・シェル・ザハブ」を歌ったという記録が残っています。来年で50年になりますが、その頃からずっと歌い継がれている曲です。
今年はベルリンの壁が壊されて30年という話題がニュースになっていましたが、50年前の集会の後、大槻先生が「ユダヤ教とキリスト教との出会い」という意義深いメッセージを語っておられます。異邦人のクリスチャンが歌うヘブライ語の歌にユダヤ教徒が熱狂した様子は、ユダヤ教とキリスト教の断絶の壁を打ち破ったという内容です。メッセージはエフェソの信徒への手紙の言葉で終わります。「かつては遠く離れていたあなたがたが、今は、キリスト・イエスの血を通して近いものとされたのです。なぜなら、彼(キリスト)は私たちの平和、私たちの一致と調和のきずなであるからです。彼はユダヤ人と異邦人の両者を一つにして、私たちの間を隔てる壁である敵意を取りこわし撤去されたのです。そしてまた、ご自身の十字架によって一つのからだに統一されたものとしてユダヤ人と異邦人との双方を神に和解させようと意図されたのです。彼(キリスト)はその十字架によって相互間の不和を滅ぼされ、反目を終結させられたのです。」

今週も大切なことを大切に。

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