鳥になれたら



テニスプレイヤー、錦織圭選手の専属コーチをしているマイケル・チャン氏は敬虔なクリスチャンです。台湾系のアメリカ人の方ですが、現役時代は史上最年少、17歳で世界四大大会の一つ、全仏オープンで優勝し活躍しました。彼の自伝にこんなことが書かれています。

これまで少なくとも、千回以上の取材を受けてきましたが、人生で一番大切なことは何かと聞かれたことはありませんでした。記者たちは、私の答えとは関係なしに、自分たちが書きたいことだけを書くのが常でした。・・・自分の素顔とは、私がクリスチャンであるということです。試合が終わると決まって感謝し、神に栄光をささげる私のインタビューを、皆さんは耳にしたことがあるかもしれません。実はこれが自分なのです。華々しく活躍していた選手時代も引退後も、変わらない「本当の自分」とは、一貫してクリスチャンだということです。

素敵な証しだと思いませんか。そして、彼がキリストを心に迎えた日のことが次のように紹介されています。14歳の時に、ある出来事がきっかけとなり、彼は祖母からプレゼントされた聖書を読み始めます。その聖書は学生聖書で頁ごとに、質問やショートメッセージが記されていました。ある日の箇所にこんな物語が載っていました。

アメリカのラジオ放送のアナウンサーであるポール・ハービーキャスターは、宗教に疑いを持っていた農夫を引き合いにして、現代の譬え話を紹介しました。ある寒さの厳しい冬の日、農夫は自分の台所のドアを時折、何者かが叩くような音がするのを聞きました。窓辺に行ってみると、それは凍えそうになっている雀たちで、家の暖につられて集まってはガラスに当たる音だったのです。農夫はかわいそうに思い、納屋の前に積もった雪をかいて、そっとドアを開け、中に小さな明かりを灯し、雀が暖をとれるように干し草も用意してやりました。ところが、雀は農夫が家を出た途端に怖がってちりじりに飛んでしまい、暗闇で縮こまるのでした。
農夫はさまざまな方法で、雀を納屋に入れてやろうと試みました。納屋の入口がわかるように、クラッカーの粉を凍てついた地面に蒔いたり、納屋の後ろから鳥たちを追い込んで、入口の方に行かせようとしたり。しかし、鳥たちは農夫が巨大な化け物であるかのように怯え、自分たちを助けようとしていることを理解しません。
あきらめた農夫は家の中に戻り、窓から気の毒な雀たちを見守りました。その鳥たちを見守りながら、彼は青い空に突然稲妻が光ったかのように、一つの考えがひらめきました。もし、私が鳥になり、仲間として雀たちを安全な暖かい所に誘導できたなら。一瞬でもいいから鳥になれたなら、私の存在を怖がらずに後に続くだろうと。そう思ううちに、もう一つの考えが浮かびました。そう、その農夫は、なぜ神の子イエス・キリストが人となられたのかを理解したのでした。

マイケル・チャンは、その場にひざまずき、こころを静め祈りました。「イエスさま、私の心の中にお入りください。あなたの目的のために私を変えてください」と。

今週も大切なことを大切に。

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続・聖なる道

礼拝メッセージ 「続・聖なる道」
聖書 ヨハネによる福音書16章25-30節
ヨハネによる福音書シリーズ(132)

16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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聖なる道



イエスの名によって祈る祈りが、イエスの祈りとなる以上、イエスの名によって祈る者は、もう一人のイエスでなければなりません。果たして私のような人間が、もう一人のイエスとなり得るのでしょうか。そこでこの夏、お勧めしたいのが『聖なる道』です。1977年、『言泉集』第2巻の発刊に合わせて、大槻牧師が書き下ろされた31日で味わう黙想書です。以前、ポケット版で出版されたことがありましたが、今回、大槻牧師の内住80周年を記念し、『十字架の黙想(平成版)』と同じ文庫サイズで、一部改訂版として出版されました。『十字架の黙想』と合わせて、聖イエス会の信徒必読、必携の書です。

「聖なる道」は、聖霊を受けた者が、日々の霊的生活をいかに生きるべきかを学ぶための黙想書であり、聖人への道でもある。「もしわたしが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」との使徒パウロの勧告に従い、神によって生きることと、神と共に歩む霊的生活を修得することを目的としている。換言すれば、精神を神の現存に集中することである。
日記を買い求める人は多くあるが、1月1日から、12月31日まで書き続ける人は、必ずしも多くはない。霊的生活において最も重要なことは、日々―生涯、祈りをもって完遂することである。

『聖なる道』の目次です。第1日「主イエス・キリストを知る」、第2日「キリストのうちに」、第3日「わたしは彼のもの」、続いて「わが花嫁は閉じた園」「この宝」「わたしにあるものをあげよう」「わたしの証人」「わたしの契約」「生けるキリスト」、第10日「イスラエルのために」、更に「苦闘しながら」「あなたの愛は」「豊かなあがない」「心の深みまで新たにされ」。これで2週間、実際は1ヶ月分、31日まで続きます。どれも魅力にあふれた日課ではないでしょうか。この夏、イエスのようになるために、『聖なる道』に心新たに取り組みましょう。この道は生ける道であって、だれであっても、自分自身をゆだね、明け渡すなら、この道が私たちを導いて、もう一人のイエスに変えてくださるからです。

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アニーエルシャダイ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
創世記17章から。

17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。

『あかしびと』の最新号から巻頭のことばを学びました。
アブラハムが全能の神に従って歩んだ聖なる道を私たちも歩む者となれますように。

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わたしの名によって



ゲッセマネの園に向かう道すがら、イエスは弟子たちとの新しい関係について、また聖霊の派遣とその働きについて詳しく話されました。そして、「しばらくすると、わたしを見なくなるが、しばらくすると、わたしを見る」となぞかけのような言葉によって、やがてイエスの十字架と復活を通して、弟子たちに与えられる永遠の喜びについて語られました。イエスの十字架と復活、それは新しい時代の到来を告げる、全く新しい喜びをもたらすのです。イエスは、この全く新しい喜びがもたらされる理由として、弟子たちの祈りが変えられることを教えています。同じような内容が14章でも、15章でも触れられていますが、その間に深められてきた弟子たちとの対話によって、その意味も深められています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」「わたしの名によって願うならば」と言うところが、詳訳聖書ではこう訳されています。「私の父はあなたがたが私の名によって〔「私は有る」という者のすべてによって〕求めるものはなんでも与えてくださる。」イエスの十字架と復活、そして聖霊の派遣を通して、イエスの名によって祈る時代がやって来ます。24節も詳訳聖書で、「今まで、あなたたちは私の名によって〔「私は有る」という者のすべてにたよって〕何一つ願ったことはなかった。〔しかし今は〕願いなさい<絶えず願い続けなさい>。そうすればいただくことができる。」
なぜなら、イエス・キリストの名によって祈る祈りは、イエスの祈りとなるからです。聖霊を受けたペトロとヨハネは、イエスに言われたとおり、イエスの名によって、「私は有る」という者のすべてにたよって祈り、求め始めました。「金や銀はわたしにはないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。「すると、たちまち、(生まれながら足の不自由な)男は・・・躍り上がって立ち、歩き出した」のです。ペトロは御霊にあふれて言いました。「イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。」「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、・・・(何者にも)与えられていないのです」と。

今週も暑さが続くようです。水分、睡眠、御言葉をしっかりとって、元気にお過ごしください。
今週も大切なことを大切に。

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聖なる道

礼拝メッセージ 「聖なる道」
聖書 ヨハネによる福音書16章22-24節
ヨハネによる福音書シリーズ(131)

16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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滅ぼすなというしらべ



「新しい歌を主に向かって歌え」(詩編96:1)。聖書には「新しい歌」という言葉が9回出て来ます。詩編に6回、イザヤ書に1回、ヨハネの黙示録に2回です。新しい歌とは、新作、流行歌という意味ではありません。その時代、時代に生まれ歌われてきた、古くても新しい、主に贖われた者にしか歌えない救いの喜びと感謝に満ちた歌のことです。この歌を歌うためには、日々御霊にあふれて、救いの喜びを新たにする必要があります。
それと同時に、新しい歌とは終末論的な、救いの完成を見つめながら歌う歌です。義の太陽であるイエス・キリストを待ち望みつつ歌うしののめを呼び覚ます歌です。「わたしはしののめを呼びさまします」と歌ったのは、イスラエルの王であり、詩人でもあったダビデです。ダビデは、狂乱の殺人鬼と化したサウル王に追われ、洞窟の暗闇に身を隠しながら詩編57編を歌いました。この詩の表題には「滅ぼすなというしらべにあわせて歌われたダビデのミクタム」とあります。それがどのような調べであったのかはわからないのですが、悲しみに満ちたエレジーのような調子だったのではないでしょうか。そう考えてみると、聖書の中には、至るところに「滅ぼすなというしらべ」が流れています。聖書を読む人々が聞くべき神さまのエレジーです。しかし、その悲しみは喜びに変えられます。ダビデが暗い洞窟の中から、しののめを待ち望んだように、夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで(滅ぼすな!)、永遠の命を得るためである。」だから、「新しい歌を主に向かって歌え。・・・御救いの良い知らせ(福音)を告げよ。」

暑中お見舞い申し上げます。
厳しい暑さの毎日です。健康にはくれぐれもご留意ください。

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しののめを呼びさまします

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。詩編57編から。

57:1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。
ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。】
57:8 わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
57:9 目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。

口語訳
57:1 聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。
これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの。
57:7 神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
57:8 わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。堅琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。

今週は、火曜日に持たれた聖職者会で、合唱団でイスラエルコンサートツアーに参加された岐阜の松本先生にしていただいた報告を映像で見ていただいた後、今週の礼拝でも開いた詩編57編から御言葉をシェアしました。

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しばらくすると



ヨハネによる福音書が、多くのページを割いて記録したイエスの最後の教え。今それを読んでいる私たちにも神秘に満ちていますが、それが語られた日、弟子たちにはほとんど理解できないような内容でした。それをヨハネはすべてが終わった後で、深い理解のうちに伝えようと試みています。
三位一体の神秘もそうですが、その後の発言がさらに弟子たちを当惑させました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
時間的には、十字架の死と復活を預言した言葉として読むのが自然です。最初の「しばらく」はイエスの死が近づいていること、後の「しばらく」は三日目の復活です。しかし、弟子たちには何のことかわからず、互いに論じ合いました。そこで、イエスは、さらに詳しくこれから起ころうとすることを弟子たちに説明されたのです。「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。・・・はっきり言っておく(アーメン、アーメン)。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
まず、イエスの死、十字架によって、深い悲しみが弟子たちを襲うこと、世はそれを見て喜ぶこと(世とは神に敵対するサタンとその勢力のことです)、しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わること。それは子を産んだ女が、喜びのあまり陣痛の苦しみを忘れるようなもので、弟子たちの悲しみもイエスとの再会によって喜びに変えられると語られています。
そして結論。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
ここでやはり鍵になるのが、「しばらくすると、私を見るようになる」と語られた「しばらくすると(a little while)」ということです。時間的には、復活のキリストとの出会いと読むのが自然だと話しましたが、意見の分かれるところです。ある人は、再臨のキリストとの出会いを指していると考えます。それも預言的な解釈としては一理あります。しかし、文脈から言えば、直前まで、聖霊の働きについて話されていた訳ですから、またイエスが「父のもとに行く」と言われていたことも併せて語られていることから、やはり真理の御霊である聖霊が来られるときと読むのがイエスの真意に迫るように思います。
「しばらくするとわたしを見るようになる。」「わたしは再びあなたがたに会う。」この出会いは、復活のキリストとの出会い(40日間限定の数回の出会い)でも、いつとも知れない再臨のキリストとの出会いでもなく、聖霊によって、私たちの心に内住し現存されるキリストとの出会い、誰にも奪うことのできない永遠の出会いのことなのです。
「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」

今日は海の日。海が好きです。
今週も大切なことを大切に。

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新しい歌

礼拝メッセージ 「新しい歌」
聖書 ヨハネによる福音書16章16-22節
ヨハネによる福音書シリーズ(130)

16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

96:1 新しい歌を主に向かって歌え。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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