涙と共に種を蒔く人、キリスト

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書11章から。

11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

今週も京都で語られたもう一つの新年メッセージをDVDで学ばせていただきました。

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大賀ハス



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、イエスはゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、天を仰いで祈られました。ヨハネによる福音書の17章全体が、その祈りになっています。イエスは、御自分のために、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、御自分を信じるようになるすべての者のためにここで祈られました。その最後の言葉はこうです。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」この一句に、イエスがその生涯を通してなされたことと、この後もなそうとしておられたこととが要約されています。
イエスは「御名を知らせました。これからも知らせます」と、まるで種を蒔くかのように、御名を知らせたと言っておられるのです。「涙と共に種を蒔く」と言われている種とは、神の言葉、イエスの御名のことです。実際、ヨハネは、彼が書いた手紙の中で、人を新たに生まれ変わらせる「神の種」という言葉を使っています。
種について、こんなエピソードがあります。1952年(昭和27年)のこと、関東学院大学の教授であった大賀一郎博士は、千葉県検見川遺跡を発掘調査中、地下6メートルの泥炭層で二千年前のものと思われるハスの種を発見し、その種から花を咲かせることに成功しました。キリストの時代に咲いていたその花は、大賀ハスと呼ばれるようになりました。
種というものは小さく、まるで死んだように見えるかも知れませんが、種の中には命が宿っているということです。しかし、その種も大賀博士と出会わなければ、いつまでも深い泥の中に埋もれたままだったかも知れません。私たちの内に与えられている御名も同じです。今年、復活であり、命であるキリストとの出会いによって、神の種が復活し、花を咲かせますように。

余談ですが、大賀博士は、あの内村鑑三の弟子で、札幌農学校で植物学者であったクラーク博士から学んだ内村鑑三に植物学の道に進むように勧められたということです。大賀博士の墓には「ハスの花に神の栄光をたたえて。大賀一郎、ここに眠る。復活のラッパの鳴らん時まで」と刻まれているそうです。

今週も大切なことを大切に。

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これからも知らせます

礼拝メッセージ 「これからも知らせます」
聖書 ヨハネによる福音書17章24-26節、マタイによる福音書13章1-8節
ヨハネによる福音書シリーズ(148)

17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

13:3 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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一対一の祈り



新年聖会で、ユダの王ヒゼキヤの祈りを学びました。彼は25歳で王となり、ユダに宗教改革をもたらし、民を主に立ち帰えらせた偉大な王でした。彼はその治世の第1年の第1の月に、神殿の扉を開いて修理を行っています。さて、彼が病床で預言者イザヤから死を宣告された時のことです。列王記によれば、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」と記されています。
ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、ただうろたえて絶望したのではなく、神に祈りました。ヒゼキヤが「顔を壁に向けて」祈ったのは、彼の置かれていた状況が壁に囲まれた八方塞がりのようだったということもありますが、他のものが自分の視野に入ってくるのを拒絶するかのように、ただ神に集中して祈ったという意味です。これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度です。私たちの人生にもヒゼキヤが経験したような壁を感じることあるでしょう。しかし、そのような時にしなければならないことは、ただ神のみに集中して祈るということです。ほんとうの祈りとは神に向かうこと、神に集中することです。
すると、イザヤが中庭を出ないうちに、ヒゼキヤへの神の言葉が臨みました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」と。神は、ヒゼキヤの祈りを聞き、その彼の涙を見て、死の病から復活させてくださったのです。
私たちも、どうにもならない現実に八方塞がりになることがありますが、その現実を一瞥したなら、次の瞬間、ヒゼキヤのように、神にフォーカスし、神以外のすべてをシャットアウトするべきです。今年、私と神、一対一の祈りが始まりますように。

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涙と共に種を蒔く

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書11章から。

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

今週は京都における新年聖会のメッセージをDVDで学ばせていただきました。
今年の基調メッセージを心に留め、今なすべきことに力を尽くすことができますように。

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あつかましいほどのしつこさ



以前、こんな夢をよく見ました。日曜の朝、会衆を前に講壇に立つまではよいのですが、メッセージが準備できていないことを思い出し、青くなるというものです。自分には答えがない。与えることができない。しかし、人々はパンを求めている、そのことに気づいたとき、祈りが生まれます。
新年聖会で教わった「真夜中の訪問者」と呼ばれる譬え話があります。真夜中が、霊的な暗闇を暗示しているとするなら、私たちの回りにも、何と多くの真夜中の訪問者がいることでしょうか。このような人々の必要に応じようとするなら、祈りを持って始める以外に方法はありません。
パンを借りに行った主人は、すぐにパンを手に入れたわけではありません。彼は一度は断られます。しかし、しつように頼み続け、ついに求めていたものを手に入れました。ここに継続した祈りの大切さを見ます。詳訳聖書の「あつかましいほどのしつこさ」という訳は大胆な訳だと思います。あきらめないで、熱心に、がむしゃらに、熱く求める、ただそれだけです。もちろん、熱心さによってではなく、信仰が見られているのですが、信仰があればあきらめないはずです。
今はとても便利な時代で、インスタントなものが満ちあふれています。しかし、祈りだけは即席で終わらせることができません。祈りとは、もっとコンスタントなものであるべきです。時には、集中した爆発的な祈りも必要でしょうが、地味に見えても粘り強く、切なる思いで、求め続けるということが祈りなのです。すぐにあきて投げ出したくなる短気な私たちですが、今年はもっと時間をかけて、根気強く求めてみましょう。
私たちの良き友である主は、「求めの切なるによりて、起きてその要する程の物を与えん」(ルカ11:8文語)です。

今週も大切なことを大切に。

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涙と共に種を蒔く

中部教区合同新年聖会
メッセージ「涙と共に種を蒔く」下谷正道牧師(小山教会)
聖書 詩編126編1-6節、ルカによる福音書11章5-13節ほか

126:1 都に上る歌。
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、
わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが、
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう。
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。
わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、
わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は、
喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
束ねた穂を背負い、
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

午後はサムエル記上30章から「ダビデと四百人」と題してメッセージが取り次がれました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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ラザロ、出て来なさい



「ラザロ、出て来なさい。」英語の聖書では、「Lazarus, Come Forth!」と訳されていますが、Forth というのは「の前へ(先へ)」という意味です。原文のギリシア語では、「エクソゥ(外へ)」という言葉が用いられています。
ラザロにとって、墓場は彼の終着駅だったのでしょうか。死んだらそれで終わりだったのでしょうか。いいえ、まだその先がありました。あの日、ラザロの名を呼び、「外に出て来なさい」と彼を呼ばれたイエスは、今日も私たちを呼んでおられるのです。「ラザロ、罪と不信仰の暗闇から出て来なさい。悲しみと絶望の淵から出て来なさい。古い自分自身から出て来なさい」と。
私たちは日頃から、さまざまな音や人の言葉に囲まれて生きています。人の言葉に傷つけられ、暴言や陰口に苦しんでいる人はいないでしょうか。でも一番よく聞く声は、意外に自分の声です。「ちぇっ」と舌打ちする時、誰かに言っているつもりで、実は自分に向かって、「やっぱりだめだ、どうせできやしない、もうおしまいだ」と言っているのです。そんな声に、やる気も自信も失い、一歩も前に、先に進めなくなっている人がいれば、その人こそラザロです。今年、どんな声よりもイエスの声を大きく聞きましょう。その声を何度も聞きましょう。イエスは「『彼らを信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」
「もう見ないでください。臭いますから」と言っているあなたが本当のあなたではありません。私たちは一人一人が、神にとって「この世で一番の奇跡」なのです。「わが目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「わが愛する者、美しいひと。」それが本当のあなたなのです。その本当のあなたに向かって、イエスは叫んでおられます。「ラザロ、出て来なさい。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。・・・マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
今年、ラザロの物語が、あなたと私の物語となりますように。

次の日曜日は、教区合同の新年聖会です。御言葉を待ち望みます。

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しつように頼めば

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書の11章から。

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

8節の「しつように頼めば」を詳訳聖書は「あつかましいほどのしつこさ」と訳しています。
新年聖会を前に、今年そのような祈りに導かれるように祈りを積みました。

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永遠の命に生きる希望



元旦礼拝から、今年の御名にちなんで、ヨハネ福音書の11章、ラザロの復活の奇跡を改めて学んでいます。先週は旧約聖書を引用して、この奇跡の背景に聖書が示す福音、氷をとかすドラマが語られているというメッセージをお伝えしました。昨日の礼拝では最初に、これまでのメッセージを踏まえて、「偉大な生涯の物語」から、ラザロの復活のシーンをダイジェストで見ていただきました。
聖書の記述通りではありませんが、ラザロの死を悼む人々、イエスの涙と息遣い、墓の前での祈り、ラザロを呼び出される声、墓から出て来たラザロ、それを見た人々の驚きと興奮、その喜びを告げる人々。
印象的なのはラザロの墓が、そびえ立つ大きな岩山の一部になっていることです。私には、あの岩山が、まるで難攻不落の死の王国を象徴しているように思えました。
誰も死を避けることはできません。しかし、多くの場合、人はできるだけ死を避けようとします。ホテル、マンション、駐車場、もちろん病院には、死を想起させる4号室や4階がないところがあります。苦しみに通じる9という数字も避ける場合があるようです。それらは忌み数と呼ばれ不吉な数字とされています。迷信と言いながら、その影響は小さくありません。しかし、真実の神であり、永遠の命であるイエス・キリストの出現は、人類の歴史、死の問題に根本的な変化をもたらしました。イエス・キリストの出現までは、人間にとって死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊を意味していましたが、キリストの出現は、人類に永遠の命と復活の希望をもたらしたのです。
聖書はこう言っています。ローマの信徒への手紙5章、「一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んできたように、死はすべての人に及んだのです。・・・しかし、神の恵みの賜物は罪とは比較になりません。・・・罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
蛇に睨まれた蛙のように、死の前に為す術もなく立ち尽くし、いつか死に呑み込まれていく私たちのために、イエス・キリストは十字架の死によって死を滅ぼし、私たちにも永遠の命に生きる希望を与えてくださったのです。
今年、あの渇ききったネゲブ砂漠に、死の世界に、命の川の流れを導き、氾濫させるかのように、主が私たちを罪と不信仰、そして死の力から解き放ち、よみがえらせてくださいますように。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」「それは荒野に水が湧きいで、砂漠に川が流れるからである。」「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」

今日は京都での聖会です。
今週も大切なことを大切に。

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