クリスチャンの仕事



「クリスチャンの仕事は祈ることである」とマルチン・ルターは言いました。ユダヤ人の子どもたちはみな仕事を身に付けなければなりません。イエス・キリストも二つの仕事を身に付けられました。大工の仕事と祈りの仕事です。そのうちの一つは地上のことのために役に立ちました。もう一方は、聖なる、崇高な目的のために役立ちました。イエスはユダヤ人の習慣に自らを当てはめ、少年のときには大工の仕事をされました。また主は、幼いときから神の法則に自らを当てはめ、祈りの仕事をされました。それは最後まで続きました。
キリストはクリスチャンの模範です。すべてのクリスチャンは主に倣うべきです。すべての説教者は主のようであるべきです。祈りの仕事を学ばなければなりません。祈りの仕事をよく学ぶ者は、クリスチャンとしての熟練の秘訣を学び取り、神の仕事において恥じることのない有能な働き手、主と共にある働き手となります。
「絶えず祈りなさい」ということばは、今の時代の説教者に対する呼びかけです。もし説教者が、思想を祈りの雰囲気によっって装い、膝を折って説教を準備するならば、神の御霊の恵みが地上に注がれるだろうと思います。
ーーー『祈りは奉仕を生かす』E.M.バウンズ

今週は、霊的生活を立て直すための祈りのセミナーに参加させていただき、たくさんの恵みをいただきました。
バウンズの本は、どれもすごいです。祈りの人となれますように。

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7月のオープン礼拝



明日から7月、次の日曜日は7月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は、教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
7月のテーマは「十字架に帰ろう」。
シリーズ『ヨハネによる福音書』の続き、キリスト教の中心である十字架の真実について学びます。
ぜひ普段着のままでお出かけください。

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祈りと御言葉の奉仕に

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録の6章から。

6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。

月曜日から昨日まで参加させていただいていたセミナーの恵みを少しだけシェアしました。
あまりに大きな恵みと光をいただいたので消化不良気味ですが、
教えられたことを味わい深めながら、実践したいと思います。

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御創



昨日、今年の上半期最後の礼拝は、岐阜教会でメッセージを語らせていただきました。
以前、ブログでも紹介しましたが、新聞のコラムで読んだ「創」の話しから始めました。

「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
『十字架の黙想』の第1日に記されている聖イグナチオの「十字架に向かう祈り」を思い出します。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版では常用漢字の「傷」になりましたが、
文語版では「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
だれでもキリストの十字架の御創に接ぎ木されるなら、その人は新創造された者。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しい。

今日から京都でもたれるセミナーに参加します。
今週も大切なことを大切に。

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イエスに近寄り、ひれ伏して

礼拝メッセージ 「イエスに近寄り、ひれ伏して」宮本裕美師
聖書 マタイによる福音書8の1〜4

8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

本日、牧師は岐阜教会の聖会でした。
今週も礼拝の恵みに感謝します。

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尊い一粒の麦よ



聖イエス会の情報誌『あかしびと』で、「すばらしいクリスチャンたち」という連載が続いていますが、まもなく届く7月号に、今年は没後80年と言うことで、重利清子ちゃんのことが紹介されています。
「今年(2017年)は、重利清子ちゃん没後80周年にあたります。神を見、『平安』という言葉を遺して天に召された清子ちゃんの存在は、聖イエス会にとって『恩寵』そのものであるといえます」と書き出される文章を読みながら、聖イエス会に重利清子ちゃんを与えてくださった神に感謝の思いを新たにしました。
1929(昭和4)年、中国の瀋陽(当時の満州・奉天)で生まれた清子ちゃんは、生まれつき体が弱く、右足が不自由で、学校の行き帰りにはいつもいじめにあい、8歳にして、すでに生きることの苦しみと悲しみを味わっていましたが、教会に導かれ、聖書を通して、神の愛を知りました。1937(昭和12)年12月、風邪がもとで、床に伏していた清子ちゃんは、祈りの中で突然こう言って顔を輝かせました。「もうだいじょうぶ。清子はエス様を見たからうれしい!」と。その3日後の12月12日、「平安、平安、平安」と、3度くり返して、清子ちゃんは8歳と10カ月の生涯を終えて、愛し慕ったキリストのもとへ召されていきました。
清子ちゃんの言葉とその姿は、聖イエス会の創立者である大槻牧師を、神との出会いに導きました。そして今、御名による神との出会いの体験は、イエスを神の子メシアと信じる、私たち一人一人にも与えられているのです。大槻牧師は、清子ちゃんの葬儀に「一粒の麦」という告別説教を語り、最後にこう言っています。
「私たちは何のために選ばれ、召されたのか。それは『一粒の麦』となるためである。・・・私たちは、なぜ神の栄光を充分に現すことができないのか。それは、徹底的に自己を十字架につけて、全く死に切っていないからである。自分を捨て、十字架を負い、主に従うこれ以外に、神の栄光を拝する道は絶対にないのである。
清子ちゃんは、一粒の麦として散ったのである。・・・尊い、尊い一粒の麦よ! すでに種は地にまかれた。清子ちゃんは、清きが故に、良き種として選ばれ、神の栄光のためにまかれたのである。主は必ず、この尊い選ばれた一粒の麦を祝し、豊かな収穫を、リバイバルを与えてくださると、信じて疑わない。ああ、一粒の麦は地に落ちた。やがて春が来ると、この一粒の麦は芽を出し、多くの果を結ぶであろう。」

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マリアは良い方を選んだ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書の10章から。

10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

今日はマリア会主任セミナーの学びと恵みから、御言葉をシェアしていただきました。
夏に向かって、御言葉に立ち、小さなことを具体的に祈りましょう。

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ゲッセマネの祈りと主の祈り



「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されます。
この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されていないのですが、ヨハネはその代わりに、「一粒の麦」の譬えに続けて、心を騒がせ、苦悶するキリストの姿をここに描きます。
十字架の前夜、ゲッセマネの園で、血の汗を流し、もだえ、七転八倒の苦しみを経験されたイエスは、全人類の罪が盛られた杯を前に、「この杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、同時に「私の願いのままにではなく、御心のままになさってください」と祈りました。キリストは、最初の人アダムの罪から始まり、カインの殺人罪、そして、最後の人の最後の罪に至るまで、全人類の(私の、あなたの)過去、現在、そしてこれから犯すであろう罪まで、すべての罪を背負い、一粒の麦となって死んでくださったのです。
私たちは、「御心がなりますように」と祈るようにしばしば教えられますが、それは「御名の栄光を現してください」との祈りでもあるのです。そして、それはイエスが教えてくださったあの「主の祈り」そのままです。「父よ、御名が崇められますように。御心が行われますように。」このキリストの心を心とできますように。

今日は地区の先生方の集まりが持たれました。ちょうど台湾の卓枝安牧師が亡くなられて50日目、卓牧師のことを親しく聞かせていただく時が与えられ感謝でした。

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一粒の麦(ヨハネ福音書のゲッセマネ)

礼拝メッセージ 「一粒の麦・その3」ヨハネ福音書のゲッセマネ
聖書 ヨハネによる福音書12の27ー31
ヨハネによる福音書シリーズ(82)

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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化学反応



アメリカのNASAでも働いていた韓国の科学者でキム・ヨンギルという方の証しを読みました。
彼は無神論者でしたが、神について知りたいと思い、聖書を開きヨハネによる福音書から読み始めました。最初のつまずきが、カナの婚礼の奇跡でした。彼の分析では、化学方程式がH20からC2H5OHエタノールに一瞬にして変わったということだが、元素を変化させるためには核融合が必要で、それは常温では起こり得ない。その後も、科学者目線での分析を続けますが、奥様やNASAで働く多くのクリスチャンたちの祈りによって、ついに彼も神のシントロピーを体験し、キリストを信じます。(シントロピーとはエントロピーの反対で、無秩序な状態から秩序ある状態への転換を言います。)それこそ水がぶどう酒に換えられるにも優る奇跡でした。聖会の恵みを噛みしめています。常温では起こりえない核融合、御言葉による化学反応が、私のうちにも起こりますように。

先日、聖会に来ていただいた竹内牧師は京都府の北部・綾部市にある教会の牧師ですが、次の日曜日はそちらの教会で、チェンバロコンサートが催されます。お近くの方がありましたら、ぜひお出かけください。

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