実を結ばない枝は



キリストが語れたぶどうの木と枝の話し、よく読むと枝には2種類あることがわかります。実を結ばない枝と実を結ぶ枝です。そして、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われています。聖書の中で、こういう言葉に出会うと、正直戸惑い、恐れを感じます。こういう言葉に出会って、悔い改めに導かれることも大切ですが、イエスの言葉の真意はどこにあったのでしょう。
大切なことは、前提として「わたしにつながっているわたしの枝」と呼ばれていることです。ここで「取り除かれる」と訳されているギリシア語の「アイロウ」の正確な意味は、「持ち上げる」「取り上げる」です。当時、パレスチナでぶどう栽培は、ぶどう棚を使ったものではなく、地面を這わせるスタイルのものだったようです。それは乾燥地帯であるパレスチナで、ぶどうの木に夜露や朝露を吸収させるためでした。今でも、そのようなぶどう畑を見ることができるそうですが、枝に実を結ばせるためには、枝と地面との間に適度な空間を作る必要がありました。そこで農夫は、大きめの石を地面に敷いて、その上に枝を這わせたのです。そうすることで、光と風、水分が行き届いて、枝は甘い実を結ぶようになるというのです。愛である神は、ぶどうの木につながっている枝を見捨てるようなお方ではありません。私につながっている枝で実を結ばないものがあれば、農夫である父は身を屈めてそれを持ち上げてくださるのです。信仰が地面を這うように落ち込むことがあっても、神は必ずあなたを引き上げてくださいます。だから、恐れないで、キリストにつながり続けていればよいのです。今はまだ実を結べていなくても。

今日は聖金曜日、次の日曜日がイースター(復活祭)です。
イースター礼拝(4月のオープン礼拝)は4月1日(日)朝10時半から。
弥富公園東、丘の上の教会へ。

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4月のオープン礼拝



次の日曜日は4月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
教会暦では今週が受難週、次の日曜日がイースター(復活祭)になります。
よみがえられた主をともに賛美し礼拝いたしましょう。

4月から新生活を始める方のために祝福を祈ります。
礼拝に続き、納骨堂では春の召天者記念礼拝がもたれます。
教会学校では春のおたのしみ会も計画されています。
ぜひお出かけください。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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内におられるキリストを宣べ伝える

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。ヨハネによる福音書の9章から。

9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

今週は受難週、祈祷会も前半は主のご苦難を偲ぶ黙想会、後半はdvdによる京都聖会の報告集会としました。

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まことのぶどうの木



ヨハネ福音書の15章に入ります。十字架の前夜、過越の食事となる最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが続きます。14章の最後の所で、食事をした大広間のある家を出てゲッセマネの園に向かって歩み始めた一行でしたが、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに話を続けられました。月夜に、ぶどう園が目に入ったのかも知れません。譬えの名手であるイエスは、ここで有名なぶどうの木の譬えを話されたのです。
「わたしはぶどうの木、しかもまことのぶどうの木である。」なぜキリストは「まことの」ぶどうの木なのでしょう。今年も桜の季節ですが、桜が日本を象徴する木であるように、聖書の国イスラエルを象徴するのはぶどうの木です。イザヤ書5章7節、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」、エレミヤ書2章21節、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えた」、詩編80編9節、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し・・・これを植えられました」など、旧約聖書にはくり返し、イスラエルがぶどうの木また畑として描かれています。
しかし、ほとんどの場合、それらの描写はイスラエルの罪と裁きの記事へと続きます。神はイスラエルを良いぶどうとして植え、大切に手入れし、甘いぶどうが実るのを期待しましたが、実ったのは酸いぶどうでした。イスラエルは、不信仰と不従順によって、神の期待には応えることができなかったのです。その結果、神のぶどう畑は荒れ果ててしまいました。そこで、イエスは「まことの」ぶどうの木として、イスラエルの罪を贖い、神の御心を成就するために来られたのです。ですから、キリストの言葉には、だれでも「まことの」ぶどうの木である私につながっていれば、神の期待に応えて、豊かな実を結ぶことができるようになるという、神の深い愛が示されているのです。

今週も大切なことを大切に。

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まことのぶどうの木

棕櫚の聖日(受難週)聖餐式
礼拝メッセージ 「まことのぶどうの木」
聖書 ヨハネによる福音書15の1-5
ヨハネによる福音書シリーズ(117)

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

エマオ出版訳
15:1 わたしはぶどうの木、しかもまことのぶどうの木です。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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十字架とキリスト像



教会暦では次の日曜日が棕櫚の聖日で、その日からキリストの最後の一週間(受難週)が始まります。こんな話しを読みました。
2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んで行ったそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父は「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから」と語ったそうです。
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。キリストは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

3月25日(日)棕櫚の聖日の礼拝・聖餐式。
4月1日(日)4月のオープン礼拝はイースター礼拝。進級式。礼拝に続き春の召天者記念礼拝。
教会学校のお楽しみ会も計画されています。

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イエスは宮にはいられた

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
マタイによる福音書21章から。

21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:12 それから、イエスは宮にはいられた。(21節は口語訳)

次の日曜日は棕櫚の聖日、受難週に入ります。今日は今年の標語や聖会のメッセージから新しい光をいただいて、「イエスは宮に入られた」のメッセージを学び直しました。

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任命

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。
ヨハネによる福音書15の16

春の京都聖会を終え、再び任命をいただいて名古屋に戻ってきました。
多くの実を結ぶために。

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洗足と未見の我

礼拝メッセージ 「洗足と未見の我」
聖書 ヨハネによる福音書13の3〜11ほか

13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

今日は先生方が留守のため、前奏から後奏まで、昨年の礼拝の映像を通して礼拝を守りました。
新しい方も参加され、今週も礼拝の恵みに感謝。

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コード・アダム



イエスは弟子たちとの最後の晩餐を終え、ゲッセマネに向かおうとされています。イエスは訴えるように言われました。「この世は、わたしが父を愛し、その御旨のままに行うことを知るべきである。さあ、立ちなさい、出かけよう。」ここでイエスが「知るべきである」と語気を強めて語っておられる「その御旨のままに」という、その御旨とは何であったのでしょうか。
「コード・アダム」という言葉をご存知ですか。アメリカのショッピングモールで時々流れる店内放送です。「従業員ならびにご来店のみなさま、コード・アダムが発令されました。」1981年のこと、アダム・ウォルシュ君という6歳の男の子が誘拐され、数週間後、遺体で見つかりました。この全米を震かんさせたショッキングな事件をきっかけにウォールマートが迷子のアナウンスに使い始めたのがコード・アダムです。このアナウンスが流れるとすべての業務が停止します。従業員もお客さんも一緒になって、迷子の捜索を始めるそうです。やがて迷子が見つかると次のアナウンスが流れます。「キャンセル・コード・アダム。」迷子が無事見つかりました。皆さまのご協力に感謝しますというアナウンスです。そして、すばらしいのは、このアナウンスがあると、店中に拍手が鳴り響くことです。
神を信じることなく、永遠の滅びに向かって歩んでいる人たちのために、あの日以来、天国ではコード・アダムが発令され続けています。そう、あの日、エデンの園でアダムが失われて以来、今日まで。イエスはいなくなったアダムを見つけ救うために世に来られたのです。

今日から京都で春の聖会です。

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