しんがり



待降節の間、新年の御名と標語をくり返しあがめ、味わっていたとき、一つの御言葉が閃きました。それはイザヤ書52章の御言葉です。イザヤ書52章は、王であるメシアの帰還が預言されているところですが、主に贖われた者が、罪のバビロンを離れ、神の国を目指して進んで行く様子が次のように描かれています。
「52:11 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ。52:12 しかし、急いで出る必要はない。(あの出エジプトの時のように、慌てなくてもいい)、逃げ去ることもない。(堂々と歩んで行くことができる。なぜ?)あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」
心に閃いたのは、最後の「しんがり」という言葉でした。しんがりとは、最後尾で戦い続ける部隊のことですが、その言葉には「集める」という意味があります。しんがりを守るというのは、最後尾で戦い続けると共に、自軍が散らかしたものをほったらかしにせずに集めることなのです。戦場では、負傷者や遺体を引きずってでも連れ帰らなければならないように、私たちの人生における恥も失敗も傷も、神が全部後始末してくださるというのが、しんがりと言うことの意味です。その最大の業は、イザヤ書53章、イエス・キリストの十字架でした。
私たちのうちに「善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」と私は確信しています。ですから、今ある自分の姿に嘆く必要はありません。焦ることも、逃げ出すこともありません。あなたの救いの始めとなってくださったキリストが、救いのしんがりとなってくださるからです。
イザヤは語りました。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。・・・彼(キリスト)は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちには平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」十字架の上でキリストは「成し遂げられた」と宣言されましたが、この十字架の言葉がある限り、主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。
新しい週報をご覧下さい。表紙は、2月に出版される「十字架の黙想・平成版」の表紙で使われる十字架のモチーフです。そこに短い祈りの言葉が書いてありますので、一緒に読み、私たちの祈りとしましょう。
「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国への道である十字架、私のすべてである十字架。」

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おどろきをもって



ドイツの詩人であり作家でもあるヘルマン・ヘッセが「蝶」という書物の中で、こんなことを書いています。「おどろきをもって始まり、おどろきをもって終わる。・・・おどろきこそ、認識の第一歩であり、同時に畏敬の念をおぼえる第一歩なのです。」彼は、「驚嘆するために私は存在する」と言ったゲーテの言葉を引用し、自然の美や仕組みに驚嘆し、引きつけられることがいかにすばらしいことであるかを説いていきます。
新しい年が明けました。この一年が、「驚きをもって始まり、驚きをもって終わる」、そんな驚きの年となりますように。シバの女王は、ソロモンが「主の神殿でささげる礼拝を見て、息も止まるような思いであった」と書かれていますが、私たちが毎週ささげる礼拝が、驚きと感動にあふれたものとなることを祈ります。

今年の年間標語の御言葉は、ヨハネによる福音書の15章4節、「わたしにつながっていなさい」ですが、「つながる」という言葉は、ヨハネ神学を解く鍵です。ギリシア語では「メノー」という言葉が使われますが、ヨハネはこの言葉を好んで用いています。15章だけでも10回、ヨハネの福音書全体では38回も使われている言葉です。ちなみに、新約聖書全体で112回使われていますが、そのうちヨハネが福音書で38回、手紙で23回、合わせて61回も使っています。ある時は、「泊まる」と訳され、ある時は「つながる」と訳され、ある時は「とどまる」と訳され、父なる神と御子イエスとの密接不可分の関係を、さらには、私たちとキリストとの親しい交わりを表す特別な言葉として用いられるのがメノーです。
ヨハネはイエスと出会った日のことを、こう伝えています。1章38節以下、彼らが・・・「ラビ、どこに泊まられるのですか(メノー)」と言うと、イエスは「来なさい。そうすればわかる」と言われた。彼らはイエスについて行って、どこにイエスが泊まっておられる(メノー)かを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった(メノー)。
リビングバイブルは最後の部分を「それからずっとイエスといっしょにいました」と上手く訳しています。その日から、イエスのもとにとどまることが、彼の生活の一部となりました。ヨハネは、常に主の御胸に寄りかかり、そこを生涯の指定席としたのです。やがて、その日から始まったイエスとの親しい交わりは、ボアネルゲス(雷の子)とあだ名を付けられるほど激しい気性の持ち主であった彼を、最もキリストに似た愛の人へと変えていきました。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」まさに驚きの交わりです。

今週も大切なことを大切に。

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窓辺のあなたに



先週の木曜日の朝、家内が母教会でお世話になった婦人聖職者の先生が天に召されました。私も学生時代から、親しくさ
せていただいていた先生で、いつも声をかけ、励ましてくださった優しい先生でした。先生が、「風のおくりもの」という素敵な詩集を遺しておられます。神様への、教会への、そして家族への愛がいっぱい詰まった詩集です。イブ礼拝でも、クリスマス礼拝でも、先生の詩集からクリスマスの詩を紹介させていただきました。

窓辺のあなたに

窓を開いて
キャロルを聞いてくださる
あなた
つたない賛美に
拍手を送ってくださる
あなた
暖かい励ましを
ありがとう

でも
クリスマスの主役は
飼い葉桶のキリスト

わたしたちのキャロルも
あなたの拍手も
愛の心も
みんな みんな
キリストのもの

どうか
あなたのその暖かい手で
幼子キリストを
迎えてください

わたしたちのために
天の位を棄てて
お降りくださった
キリストを

わたしたちに
新しい歩みと
朽ちない命を
与えてくださる
キリストを

クリスマス、それは神のはかり知れない犠牲と愛が、この世に顕された日。クリスマス、それは父なる神がその独り子を私たちに賜った日。このクリスマスの日を、当たり前の一日とせず、キリストの木、十字架に思いを馳せながら、その有り難さに、驚きと感謝を新たにいたしましょう。そして、主の御名をたたえる新しい歌を、主に向かって歌わせていただきましょう。

今年も一年、ブログを愛読してくださったみなさまに心から感謝します。新しい年が、希望にあふれた一年となりますよう、お祈り申し上げます。元旦礼拝は1月1日(日)朝10時半から。クリスマスに続き、初詣も教会にお越しください。

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クリストス・バウム



クリスマスツリーの始まりはと言うと、諸説ありますが、宗教改革者マルチン・ルターによって始められたとも言われています。彼がミサからの帰り道、森の中を歩いていると、夜空に瞬く星が、森の木々の枝に点っているように見えました。感動したルターは、家に帰るともみの木にたくさんのローソクを飾ってクリスマスを祝ったというのです。
そんなクリスマスツリー発祥の地であるドイツで、クリスマスツリーのことを、むかし「クリストス・バウム」と呼んだそうです。クリストスとはキリストのこと、バウムとは木のこと(バームクーヘンのバーム)、つまりキリストの木という意味です。よく考えて見ると、キリストの生涯は木に関わっていました。キリストはベツレヘムの馬小屋の中で生まれ、木でできた飼い葉桶に寝かされ、父ヨセフの仕事を継いで大工として働き、最後は十字架を背負わされ、カルバリーの丘で十字架に掛けられて死んで行かれました。
ところで、クリスマスのシンボルと思われているクリスマスツリー、実は聖書には出て来きません。ルターの時代に始まるのですから・・・。しかし、クリストス・バウム(キリストの木)こそは、聖書全体の中心メッセージと言っても、まちがいないでしょう。それは私たちの想像する美しく飾られたクリスマスツリーとはちがい、見映えのしない怖ろしい十字架の木です。新約聖書が書かれたギリシア語では、木も十字架もクシュロンという同じ言葉が使われます。聖書が伝える最も大切な木とは、十字架です。神がこの世界に与えてくださった神様のクリスマスツリーとは、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらすイエス・キリストの十字架なのです。キリストの誕生を祝うクリスマスですが、もし私たちがキリストの最後を知らなければ、クリスマスを祝う意味が失われるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

2016年も最後の一週間、今週も大切なことを大切に。

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決議文



神の御座の前に何万という人々が集まっていた。
その集団の前方にいたユダヤ人が怒りにも似た強い語調で叫び声をあげた。「神に俺たちを裁く権利など本当にあるのか?神に俺たちの苦しみがわかるのか。」彼らはシャツをたくしあげ、ナチスの収容所で受けた傷と、入れ墨で書かれた囚人番号を見せた。「俺たちは、殴られたり、迫害されたり、虐待されたりして、死にいたる苦しみを受けてきた。」
別の集団から黒人が、襟を開いて、「これを見てくれ」と叫んだ。黒人であるというだけでリンチにあい、縛り首にされたというロープの跡があった。「俺たちは、奴隷として苦しみを受けてきた。愛する家族と離れ、死が安らぎをもたらすまで、苦役に服さなければならなかった。」
広場には、地上で苦しみを味わった何百というグループが群がっていた。そして、それぞれに神に対して「なぜ地上であんな苦しみにあわせたのか」と口々に責め立てていた。「神なんて、楽なもんだよ。光と安らぎに満ちた天国に住んでてさ。」「どこにも、涙も飢えも危険もありゃしない。」「実際、神に地上の人間が受けている苦しみや痛みがわかるのだろうか。」そこでそれらの集団は、それぞれに地上でもっとも苦しい経験をした人たちをリーダーに選んで告発会議を開いた。そこにはユダヤ人、黒人、インドの最下層の人たち、広島、長崎の人たち、そしてシベリヤの収容場に入れられた人などがリーダーとして選ばれてきた。彼らは告発会議を開き、次のような結論に達した。

決議文。神が、我々人間に対する裁き主、主となるためには、神ご自身が人間の味わった苦しみを、しかも最も厳しい苦しみさえも経験しなければならない。
一つ、神は人間として地上に住むべきだ。しかも、その全能の力を用いて自分を苦しみから守るような事がないよう約束を取り付けるべきだ。
一つ、ユダヤ人として生まれるようにしよう。彼の誕生に疑いがかけられるような方法で生まれさせ、誰が父親なのか世の人にわからないようにしよう。
一つ、彼を正義と真理のチャンピオンにして、世の人々のねたみや憎しみを受けさせ、既成の宗教家たちからもののしられるようにしよう。
一つ、彼に人間が見たことも、聞いたこともないような事柄を教える立場を与え、神を人間に紹介する役目を与えよう。一つ、最愛の人から裏切られる経験をさせよう
一つ、無実の罪で捕らえられるようにしむけ、しかも偏見に満ちた陪審員の前で臆病な裁判官によって裁判を行わせよう。
一つ、ひとりぼっちで取り残され、人々にまったく、捨てられてしまうという辛さを味わわせよう。
一つ、拷問にかけよう。そして、殺されるように仕向けよう。しかも、最もつらい方法で。何にしようか。何にしようか。そうだ十字架だ。・・・

リーダーたちの決定したこの告発決議文が読み上げられた時、そこにいた何万という人々の中からざわめきと納得の声があがった。しかし、ほんの数分後にざわめきは沈黙に変わり、その静寂は長く続いた。もう誰も声をあげず、誰も動こうともしなかった。そこにいた、すべての人々が、はっきり気づいたのだ。神が、すでにこの決議文を実行していたということを・・・。

「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」


いよいよ次の日曜日はクリスマス祝賀礼拝です。午前11時スタート。
第一部は聖歌隊によるキャンドルサービスと聖誕劇。第二部は祝賀会。ぜひお出かけください。

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クリスマス、有り難う。



インターネットで広げられている「日本人なのに”ありがとう”の反対語を知らなかった」という文章があります。

ありがとうの反対語など今まで考えたこともなかった。
教えてもらった答えは・・・「あたりまえ」。
「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」。
「有難(ありがた)し」という意味だ。
あることがむずかしい、まれである。
すなわち、奇跡ということだ。
奇跡の反対は「当然」とか「当たり前」。
我々は、毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしている。
歩けるのが、あたりまえ。目が見え、耳が聞こえるのが、あたりまえ。
手足が動くのが、あたりまえ。毎朝目覚めるのが、あたりまえ。
食事ができるのが、あたりまえ。息ができるのが、あたりまえ。
友達といつも会えるのが、あたりまえ。太陽が毎朝昇るのが、あたりまえ。
うまれてきたのが、あたりまえ。夫(妻)が毎日帰ってくるのが、あたりまえ。
そして…生きているのが、あたりまえ。
・・・今日、誰かと出逢い、話し、笑い、食事をして、仕事ができる。
こんな当たり前だと思うことが、本当は奇跡の連続なのだ。
・・・奇跡の連続に、「ありがとう」を言わずにいられない。

今年もクリスマスが巡ってきました。
クリスマスをあたりまえにしないで、感動と驚きを新たにし、
クリスマスの奇跡を感謝しましょう。
クリスマス、有り難う。


昨日の礼拝ではクリスマスの洗礼式と聖餐式を持ちました。
高校1年の男子が自ら決意してクリスチャンとしての一歩を踏み出しました。
感動と感謝の洗礼式。
夜お母さんから、「今日まで奇跡の連続でした」とのメールが届き、また感謝しました。

今週も大切なことを大切に。

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時々刻々



アメリカの先住民チェロキー族の話しです。チェロキー族では、13歳で男子は成人するそうですが、その日、少年は森の中に連れて行かれ、一人で夜を明かします。少年は真っ暗な森で、暗闇の中、恐怖と戦いながら朝を待つのです。ところが、太陽が昇ると、少年は暗闇の向こうに、一晩中、少年を見守りながら、何かがあったら矢を放とうと弓を構えている父の姿を見るのだそうです。森の中で一夜を過ごす勇気よりも、その父の姿を目に焼き付け、ほんとうの優しさを心に刻みながら、少年は男となるのです。
イザヤ書9章では、イエス・キリストが「永遠の父」と呼ばれていますが、ここで使われている「永遠」という言葉は、「時々刻々」「いつでも」という意味があるそうです。イエス・キリストは、どんな暗闇の中でも、すぐそばにいて、私たちを守ってくださる永遠の父、いつでも父です。このクリスマス、もう一度、神の愛に驚き、放蕩息子が父の家に帰って行ったように、「永遠の父」と呼ばれる独り子の神のもとに私たちも帰りましょう。帰るべき父の家に。

今日は知多方面の家庭集会と信徒訪問に出かけていました。
次の日曜日は、アドベントの第4週目の礼拝。洗礼式と聖餐式が行われます。

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永遠の父と呼ばれるみどりご



「わたしと父とは一つである。」この待降節、ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス・キリストを見るべき目を持って見つめ、「この方こそ人となれた神の子である」と信じさせていただきましょう。そのことを私たちに示されるのは天の父です。イエス・キリストが生まれる700年ほど前、預言者イザヤはやがて来られる救い主の生涯を、まるで見ているかのように鮮やかに預言しました。救い主の誕生については、こう語っています。イザヤ書7章14節、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」9章5節、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」ここにキリストに与えられる称号が、いくつも出てきます。インマヌエル(私たちと共にいる神)、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君。どの称号もキリストにふさわしいものですが、「永遠の父」という呼び名は不思議です。生まれてきたばかりのみどりごが、どうして「永遠の父」と呼ばれるのでしょう。それは、メシアなるひとりのみどりご、イエス・キリストが「永遠の父」を示されるからです。ヨハネは記しました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにおられる独り子である神、この方が神を示されたのである」と。イエス・キリストは、単なる「子」ではなく、「独り子の神」という特別な存在であって、「父のふところにおられる」独り子の神なのです。ヨハネは、「父のふところにおられる」という言葉について、イエスが語られた言葉を紹介しています。「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」と。「わたしと父とは一つである。」これは汲めども尽きることのないキリストの神秘です。私たちが「それを知り、悟るようになる」とは、何という驚きでしょう。

今週も大切なことを大切に。

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聖地巡礼



神殿奉献記念祭は、ユダヤの三大祭のように、エルサレム巡礼が義務づけられた祭りではなく、自分の住む町で祝えばよい祭でしたが、十字架の前年、イエスがこの時期にもエルサレムに留まっていたことを、ヨハネは注意深く記録しています。神殿には、境内を囲む屋根付きのポーチ(回廊)があって、東に面したポーチが「ソロモンの回廊」と呼ばれていました。イエスがそこを歩いていると、ユダヤの宗教指導者たちがイエスを取り囲んで言いました。「いつまで、私たちに気をもませるのか。もし(あなたが)メシアなら、はっきりそう言いなさい。」「お前は何者だ、君の名は?」と。
ところで、このページは、ヨハネによる福音書のちょうど真ん中辺りになりますが、イエスはこの箇所で決定的なひと言を語られます。「わたしと父とは一つである」と。「メシアなら、はっきりそう言いなさい」というユダヤ人の問いに、イエスはご自分がメシアあること、それと同時にそれ以上のものであると答えたのです。これはヨハネ福音書を貫く、ヨハネ福音書の中心です。
先週、今年の新語・流行語が発表され、「神ってる」という言葉が大賞に選ばれましたが、トップテンに選ばれた言葉の中に、「聖地巡礼」というのがありました。何のことかと思ったら、映画やテレビ、ゲームなど、物語の舞台となった場所を訪れることが「聖地巡礼」と呼ばれ、特に今年大ヒットとなった『君の名は。』というアニメ映画の舞台が聖地と呼ばれ、社会現象になったということです。飛騨高山や名古屋駅も、映画に出て来る聖地らしいです。
だれもが「君の名は」と、問いかけなければならない、人間が罪によって忘れてしまった名があるのをご存知ですか。それは神の名です。絶対に忘れてはいけなかった神の名を、人は忘れてしまいました。誰だ、誰だ、「君の名は」と暗闇の中でもがき続けているのが私たちなのです。だから、聖書の神は中でくり返しくり返し、ご自身の名を私たちに語り続けておられるのです。もう二度と、私たちが神の名を忘れてしまうことがないように。「われわれの魂の慕うものは、あなたの名」(イザヤ26:8)です。「命を得させ、御名を呼ばせてください。」
この名を呼ぶとき、私たちの心にも「わたしと父とは一つである」と言われるキリストは生まれ、私たちの心も新しい聖地となるでしょう。

次の日曜日は、アドベントの第3週目の礼拝です。ぜひお出かけください。

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勇者は帰りぬ



ヨハネ福音書はユダヤ人の祭りを軸に描かれています。特に7章から仮庵祭の前後を舞台に、いくつものエピソードが織り込まれてきました。良い羊飼いの譬えも、9章のシロアムの池の奇跡に連続するエピソードとして学んできました。それはキリストが十字架に付けられる前の年の秋のことでしたが、短いインターバルがあって、ある冬の日の出来事が10章の後半には記されています。
「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」少し歴史の話しになります。この祭りは、新約聖書にしか、しかもここにしか出て来ない祭りです。旧約聖書と新約聖書の間には、中間時代と呼ばれる約400年のブランクがあります。この間に起こった出来事がこの祭りの始まりになります。紀元前170年頃、シリアの王アンティオコス4世エピファネスが、エルサレムに攻め上り、都を占領しました。彼は同化政策を敷き、モーセの律法を禁じ、エルサレムの神殿にギリシアの神ゼウスを奉って礼拝を強要しました。それに対し、祭司の子ユダ・マカベウスが独立戦争を起こし、シリア軍との激しい戦闘の末、ついにエルサレムを奪還し、神殿を清めました。この喜びと感謝が、神殿奉献記念祭(ハヌカの祭り)として祝われるようになったのです。ヘンデルの有名なオラトリオ「ユダ・マカベウス」は、この故事を題材にしたもので、「勇者は帰りぬ」のメロディーは、勝利者をたたえる曲として、また賛美歌として親しまれています。
この祭りはユダヤ暦でキスレウの月の25日から8日間祝われますが、ちょうどクリスマス時期の祭りで、今年は、12月25日からの8日間がハヌカの祭りです。ギリシアの神々が奉られた神殿を清めるのに8日間かかったと言われますが、真っ暗な神殿の中を清めるためには、燭台の灯りが必要でした。伝説によると1日分の油しかなかったにも関わらず、8日間灯りが消えることがなかったということで、この祭りには通常の7枝の燭台ではなく、ハヌキヤと呼ばれる9枝の燭台が使われます。

今週も大切なことを大切に。

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