うめきの祈り


イエスが涙を流すのを見、ユダヤ人たちは、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったり、ある人たちは、「盲人の目を開けたこの人も(半年ほど前、シロアムの池で起こったあの奇跡のことです)、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と言ったりしていました。
さて、イエスの涙に前後して、ヨハネがくり返されて使う言葉があります。「憤り」という言葉です。33節には、「イエスは・・・心に憤りを覚え、興奮して」とあり、38節にも、「イエスは、再び憤りを覚えて」とあります。日本語には訳しにくい言葉のようですが、イエスの感情を描く珍しい記事、また表現と言えるでしょう。
ここで「憤り」と訳されている言葉は、馬がいきり立って鼻を鳴らす様子を示す動詞で、不快感や怒りを表す時に用いられる言葉です。英語の聖書では、groaned in the spirit(霊のうめき声)と訳されていますが、同じ言葉が、ローマの信徒への手紙の8章26節にも使われているのは興味深いです。「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
ラザロの死という動かす事の出来ない深い悲しみを前に、祈る言葉も失って泣いている私たちのために、イエスの内なる聖霊が、まるでうめくかのように、イエスを突き動かしておられるのです。ですから、イエスの涙には、うめきの祈りが隠されていたと言えるのではないでしょうか。ローマ書の8章の続きを読めば、うめきの祈りは万事を益に変え、輝かしい勝利へと私たちを導いてくれることが教えられています。
今日も聖霊は、弱い私たちを助けてくださいます。私たちがどう祈ったらよいかわからなくなるときにも、聖霊は言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるからです。聖霊来てください。御名を呼ぶ私たちの所に、聖霊、聖霊来てください。

3月に入りました。次の日曜日は3月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

続きを読む

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

本屋の奥の秘密の本屋



土曜日の中日春秋から。

百二十万冊もの本を取りそろえる巨大な書店・丸善名古屋本店地下一階の文庫・新書売り場の隅に、その扉はある。人ひとり通るのがやっとという小さなドアだが、売り場を担当する熊谷由佳さんも、それが開いているのを見たことがないという。いったい、中に何があるのか。どこかに通じているのか。全国の現役書店員らが書いた『夢の本屋ガイド』によると、そこには「本屋の奥の秘密の本屋」があるらしい。それは小さな小さな書店で、常に中から鍵がかかっている。常連客の紹介がなければ扉が開くことはないが、いったん入れば、馥郁(ふくいく)とした時間が待っている。・・・中略
まさに理想の書店だが、何しろ売り場を担当する熊谷さんですら扉が開いているのを見たことがないのだから、そこは「夢の本屋」なのだろう。しかし考えてみれば、本そのものにも「秘密の扉」はある。何年も積ん読にしたままだった本が突然、扉を開けて招き入れてくれるような瞬間がある。何度も読み返してきた本に「奥の秘密の部屋」を見いだすような瞬間もある。だが、それは自分の手で開こうとしなければ開かない扉だろう。

先週、「十字架の黙想・平成版」が届きましたが、一週間、読んでいただけたでしょうか。前の方が良かったとか、馬鹿なことを言わないで、この新しい本の奥の秘密の部屋を、毎日あなたの手で開いていただきたいと思います。ある牧師は、この本を読んで、神は愛であって、私たちをキリストの似姿に変えようとしていることがわかったと言いました。「読書百遍」と言います。ぜひ、くり返し学んでください。しかし、何よりも毎日聖書を開いて、聖書の奥の秘密の部屋、神様の心の奥にある秘密の世界を学び、体験していただきたいと思います。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

彼をどこに置いたのか。



イエスは涙を流されました。私たちも涙をこぼすことがあります。私たちの心を洗い清めるような大切な涙も、喜びや感動の涙もありますが、心を沈ませ、死に至らせるほどの悲しみと絶望の涙もあるでしょう。その根本的な問題が、ラザロがいなくなったことなのです。イエスは、泣きじゃくるマリアに「ラザロをどこに葬ったのか」と尋ねています。口語訳聖書では「彼をどこに置いたのか」と訳されています。彼とは、ラザロのことですが、ラザロとはヘブライ語でエルアザル(神の助け)という意味です。
今年はマルチン・ルターによる宗教改革から500年の記念の年ですが、彼について有名なエピソードがあります。ある時、彼が意気消沈し、うなだれている様子を見た彼の妻が、喪服を着て家の中を歩いていたというのです。ルターは慌てて、誰かが亡くなったのかと尋ねるのですが、賢い彼の妻はひと言、「あなたの神が亡くなってしまわれました」と答えたそうです。あまりにも落ち込んで、くよくよしているルターに、彼女のひと言は天からの声となり、彼は歴史的な宗教改革を推し進める前に、自らの心の内に宗教改革を経験したという話しです。
彼をどこに置いたのか。ラザロ、神の助けをどこに置いたのか。あなたはあなたの神とその助けをどこに置いてきてしまったのですか?
御言葉が響きます。「誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。」

デボーションガイドの次号の校閲が終わったので、1時間ほど、教会の案内を配って来ました。
風は冷たかったですが、日射しは暖かかったです。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

一番短い節



マルタが家に戻り、妹のマリアに耳打ちして、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と伝えます。ほんとうは大きな声で伝えればよかったと思うのですが、その頃、すでにイエスが来られたことも、イエスのもとに行くことも、あまり公にはできない緊迫した状況が出来上がっていたことを、ヨハネはそれとなく私たちに伝えます。
イエスが呼んでいると聞き、マリアはすぐにイエスのもとに向かいました。ラザロの姉妹を慰めるために来ていた人々は、彼女がラザロの墓に行くのだろうと思い、ついて行きましたが、マリアはイエスを見つけると、その足もとにひれ伏し、姉のマルタが言ったのと同じことを言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうに」と。彼女たちはイエスを信じていましたが、その信仰には限界があったのです。
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』・・・イエスは涙を流された。」
旧新約聖書66巻は1189章、約31173節から成ります(1189章は「いいやく」、31173節は「3つのいい波」と覚えてください)。聖書の章や節は、もともと付けられたいたのではなく、500年ほど前に便宜上付けられたもので、そこに神学的な意味合いがあるわけではありませんが、よく英語の聖書で最も短い節と言われているのが、この35節です。日本語の聖書ではもっと短い節がありますので、探してみてください。この言葉は、聖書で一番短い節かも知れませんが、聖書の中で神の愛の深さを最もよく表している節でもあります。イエス・キリストは涙を知っておられました。ヨハネ福音書は一貫してイエスが神の子であることを証しする書ですが、イエスが疲れ、渇き、涙する姿を描くことをためらいません。彼はイエスが人となれた神の子であることを大胆に証しするのです。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

御創(みきず)



土曜日の中日春秋から。
「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
間もなく、お待ちかねの十字架の黙想・平成版が届くことになっていますが、
第一日目に聖イグナチオの十字架に向かう祈りという短い祈りが載っています。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版と言ってもオリジナル版の格調を損なわない程度に、
文語の言い回しが残っていますので、ベテランの方にも、
漢字は普通に読めるようになっていますので、
若い方にも末永く愛していただける一冊となっています。
「み傷の中に」も普通の「傷」に書き換えられたところですが、
オリジナル版は「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
キリストの十字架の御創に、私たちが接ぎ木されることによって、
キリストの命が私たちを新しく生まれさせ、新創造する、と。

2月13日、今日は岐阜で祈り会です。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

愛しておられたので



過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」ラザロが危篤との知らせです。その時イエスがいた場所からベタニアまで、急ぎ足で一日ほどの距離でした。マルタとマリアは、イエスがすぐにでも来てくれると期待していましたが、イエスはすぐには出発せず、さらに二日そこに留まっていました。
私たちが使っている新共同訳聖書では、5節の後、6節に移るのに接続詞がありませんが、本来は「それだから」という、少し意味づけを難しくする接続詞がついています。新改訳聖書では、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。そのようわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞いたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」と、接続詞を訳しています。詳訳聖書も、「それゆえ」という接続詞を入れ、現代語訳聖書も「イエスは・・・ラザロを特別に愛しておられたので・・・なお、二日間そこにいて、動こうとはされなかった」と、イエスが彼らを(特にラザロを)愛していたことが、出発を遅らせた理由であったことを説明しています。愛しているのなら、すぐに行くのではと考えてしまいますが、この疑問を解くのが、物語全体の鍵でもある4節の言葉です。実存主義の思想家キルケゴールは、この4節の言葉から、「死に至る病」という著書を著し、絶望について論じましたが、イエスは「この病は死で終わるものではない。神の栄光のため、また神の子が栄光を受けるためである」と語り、その時をじっと待たれたのです。
7節の「それから」と言うのは、二日の後、三日目ということになりますが、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言います。弟子たちは、慌てた様子で、あるいはあきれた様子で、それを阻止しようとしますが、イエスは「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と答えます。弟子たちは、「眠っているだけなら助かるのでは」と言いましたが、イエスは「ラザロは死んだのだ」とラザロの死をはっきりと告げ、さらに言葉を続けられました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」と。
ここにも、愛する友ラザロの危篤を知らされて、なお二日居た場所に留まった理由が語られています。それは弟子たちが信じるようになるためだと・・・。4節には「神の子が栄光を受けるため」とありましたが、イエスがこの出来事を通して、お受けになる栄光とは、そして弟子たちがそれを信じるようになるとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書は、くり返しイエスの栄光について述べていますが、それはイエスが全人類の罪の贖いとして十字架の上で死に、永遠の命が人々に与えられることを指しています。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのイエスの言葉は有名ですが、これはイエスの死と復活によって、人々が永遠の命を受けることを語っています。ですから、ヨハネ福音書は、ラザロの死と復活を、イエスの死と復活と重ね合わせるように、私たちがそれを信じるように導くのです。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

沈黙



昨日2月5日は日本26聖人の記念日でした。キリシタンへの弾圧と迫害の歴史が幕を落としました。そんな時代を背景に、迫害下にある長崎を舞台に描かれたのが、今話題の「サイレンス」、遠藤周作の「沈黙」です。スコセッシ監督が、28年を費やして完成させたハリウッド版の「沈黙」。すでに見に行かれた方が、自分の信仰を探られ、魂を揺さぶられたと話していました。
キリシタンが迫害されていく最中、どうして神は沈黙されたのかというテーマが掘り下げられ、踏み絵を踏んだキリシタンに光を当てた作品は、50年前に出版された当初はカトリック教会、特に九州の教会では禁書とされた、キリスト教のタブーに挑んだ作品でもあります。
島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン禁制の厳しい日本にポルトガルの祭司ロドリゴと言う人物が潜入します。彼は何度も踏み絵を踏んで棄教したキチジロウという人物を赦せないでいまいたが、ロドリゴも最後は、踏み絵を踏んでしまいます。
「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。 その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かって言った。 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
小説の最後のページは、ロドリゴとキチジロウとの会話で終わりますが、主が沈黙の意味を告げられます。「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた」と。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

わが心うばえり



ラザロが危篤でした。二人の姉は「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、それだけをイエスに伝言しています。ここから、ヨハネが伝える7つのしるしの最後にして最大のしるし、ラザロの復活の物語が始まりますが、奇跡物語に入る前に、イエスが愛されたベタニア村と、そこに住んでいたマルタ、マリア、ラザロの姉弟のことを、まず考えてみましょう。
彼らが住むベタニアとは、エルサレムから3キロほどの場所にありました。ベタニアとは「悩む者の家」という意味です。この姉弟がいつ頃からイエスと親しい関係にあったかはわかりませんが、イエスの最後の一週間、「夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた」と書かれているので、きっと彼らの家から神殿に通っていたのでしょう。イエスにとって、彼らの家は憩いの場であり、お気に入りの隠れ家だったのです。
ルカ福音書の10章には、イエスが突然、彼らの家を訪問された時のことが記されています。イエスがもうすぐ来られると聞いて、マルタはせわしなく動き回っていました。いろいろな訳の聖書を見ると、「てんてこ舞い」の忙しさで、「気が落ち着かず」「とりみだしていた」「忙殺されていた」と訳していました。何からどう手を付けたらよいのかわからない状態で、ついにイライラを募らせ、妹に八つ当たりし、最後には、まるでイエス様が悪いかのように、「主よ、妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、マルタは不満を爆発させてしまいました。彼女は、後でどれだけ恥ずかしい思いをしたことでしょう。でも私はマルタが大好きです。聖書の中で、彼女ほどエプロンの似合う女性はいないと思っています。実際に彼女のしたことは必要なことであって、何一つ無駄ではありませんでした。しかし、順番の選択には問題がありました。もし、彼女が無くてならぬもの、ただひとつ必要なことを知っていたなら、彼女のもてなしそのものが全く別のものになっていたと思うからです。マリアはどうだったでしょう。「マリアは主の足もとに座って(これは弟子の姿)、その話に聞き入っていた」と書かれています。わかりやすく言うなら、マルタとマリア、二人の手には目に見えないお皿がありました。マルタは、たくさんのご馳走でイエスをもてなそうとして、あれもこれもとお皿をてんこ盛りにしていたのです。しかし、マリアはまず空のままのお皿を持って、イエスの足もとに座り、養われることから始めました。みなさんは、彼女がこの後もずっとそこに座り込んでいたと思われるでしょうか。私はそう思いません。彼女はこの後、エプロンを着け、颯爽とイエスとその一行をもてなしたにちがいありません。しかし、彼女はイエスの足もとに座って、その御口から語られる言葉に心をときめかせ、恵みの言葉に養われることを第一に選んだのです。今日、私たちはどんなお皿を持って主の御前に出ているのでしょうか。空の器を持って、主の足もとに留まりましょう。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

大槻牧師が書かれた「聖地賛歌(初版)」の中に、ベタニア村の印象が「わが心うばえり」という題で記されています。その文章の中で、ベタニアのマリアのことが、旧約聖書の雅歌の御言葉を使って紹介されていました。「わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。」この言葉を新共同訳聖書ではこう訳しています。「わたしの花嫁、あなたわたしの心をときめかす。」イエスはベタニアを愛されました。「あなたは私の心をときめかす」と言われるほどに、イエスの心を奪ってしまったのです。現実には、多くのことに思い悩み、心を乱すことがあります。文字通り「悩む者の家」です。それでもイエスはベタニアを愛されました。どうしてでしょう。そこにイエスに心をときめかす人がいたからです。御言葉に聞き入り、み足もとに留まる者がいたからです。

次の日曜日は2月の最初の礼拝です。毎月第一日曜日は、礼拝は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
今年は聖書を読んでみようと思っておられるみなさん、ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

レオネよ、よく聞きなさい



先週紹介した「まことの智にいたるまで」は、アシジの聖フランシスコの晩年の苦悩を描いた作品です。先週は、ルフィーノという弟子の話でしたが、本の終わり頃に、レオネという弟子とフランシスコとのこんな語らいが記されています。レオネが尋ねます。「いったいいつになったら、心の清い者になれるのでしょうか。」(これは、いつになったら、キリストと一つになれるのかと思い悩んでいる私たちの問いかけでもあります。)
フランシスコの答えはこうです。「ああレオネよ、よく聞きなさい。自分の心が清いかどうか、そんなに心配してはいけない。目を神に向けなさい。神をたたえなさい。神が完全に聖なるお方であることを喜びなさい。そのことだけを見て、神に感謝しなさい。そうすれば、清い心を持つことができる。神に向かう時、自分自身のことを振り返ってはならない。どれほど神と一致しているか、などと考えてはいけない。自分自身の不完全さや、罪の深さをあからさまに見て悲しむのは、・・・あまりに感情的だ。・・・心の清い者とは、生ける神を絶えず礼拝している者のことなのだ。そのような人は神の命そのものと深く結ばれ、どんな惨めの中でも、神の永遠の喜びを深く感じることができる。・・・あなたにとっては、神が神でいられることだけで十分なのだ。・・・あなたのなすべきことは、ただ自分のむなしさを知って、そのむなしさをありのままに受け入れることだ。そうするならば、神は一層自由に、あなたの無の中に創造のみわざを続ける場をお持ちになるのだ。」
本のあとがきには、こう書かれています。訳者の言葉です。「私自身、どれほどこの書から多くの光となぐさめを見出したことであろう。原著のもつ高い霊的香気を充分訳出し得ない未熟さもかえりみず、この書を世に送ろうとするのは、『すべての人は聖人に召されている』という福音の理想が、決して現実ばなれしたものではなく、それこそ、平凡な、失敗やつまずきに歩みも滞りがちな日々の営みの中に差し伸べられている、父なる神の愛の招きに外ならないことを、一人でも多くの人に知ってもらいたいからである。」
すべての人は聖人に召されている。失敗やつまずきに歩みも滞りがちな日々の営みの中で、それでも「わたしにつながっていなさい」と招かれるキリストの招きに、感謝し、心ときめかせ、信頼する人でありたいと思います。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

わかるか、ルフィーノ



「あの高い所に着くように急ごう」。高校1年の秋に、初めて京都の聖会に出席し、そこで聞いたメッセージです。副題があって、「十字架生活と御名の連祷」と付けられていました。アシジの聖フランシスコの晩年の苦悩を描いた「まことの智にいたるまで」という本の中から、一つのエピソードが、そのまま語られた印象的な集会でした。
フランシスコの精神(何も持たずに)を理解できない、後から加えられた人々が「改革が必要だ」と言い始める中、フランシスコは「福音は直される必要はない」と言い残し、自分の手で修復した懐かしいサンタ・マリア聖堂に向かっていました。その時に語られるのがこの一節です。「あの高い所へ着くように急ごう。あそこには、福音の真の住居がある。あの山では空気はもっと澄んでいるし、人々はもっと神に近くいる。」
しかし、そこにもまた、悲しい出来事が待ち受けていました。最初からの兄弟であったルフィーノの離反です。フランシスコは、十字架のもとで主の御声を聞いてやって来たすべてのことが音を立てて崩れていくように思え、失望落胆します。そのような状態で、その年の受難週、聖金曜日を迎えます。かつてから、聖金曜日にはあそこで十字架の黙想をしようと決めていた場所に行き、詩編の中から、主が十字架の上で語れた言葉を味わっていました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」これは、すべてのものから見捨てられ、御父からさえも見捨てられ、天涯孤独の身となられたキリストの比類のない言葉です。彼は、十字架の言葉の中で、キリストと固く結ばれていくのを感じました。それはキリストの十字架にあやかる恵みでした。十字架という原点を抜きにして、キリストとの一致はあり得ません。私たちも祈りましょう。「私の救いの原因である十字架、私を清め神化する十字架、天国への道である十字架、私のすべてである十字架。私の神よ、私のすべてよ」と。
その時です。だれかが後ろから、フランシスコの袖を引っ張りました。ルフィーノです。ルフィーノが帰って来たのです。やがてフランシスコとルフィーノとの親しい語らいが始まります。ルフィーノが言います。「私は主のために自分を捨てたと思い込んでいました。でもそうではありませんでした。謙遜になろうと卑しい仕事も進んでしました。でもそれは義務からだったのです。そこに喜びはありませんでした。やがてこのような生き方が嫌になり、あなたのもとから離れて行ったのです。・・・私は自分の道が間違っていることに気づきました。福音とは違う精神に導かれていたのです。仕事が変わって世間を捨てたと信じ込んでいましたが、魂が変わっていませんでした。それがわかった瞬間、私の考えはひっくり返ったのです。私を照らした光が空しく消えてしまわないうちに、私はここに戻って来ました。その時から、光はますます輝いてきました。平安もまたそうでした。私は今、籠から解き放たれた小鳥のように自由です。」
祈りの時間を告げる鐘が鳴ったので、二人は立ち上がりましたが、フランシスコはルフィーノの腕をつかみ、「言っておかなければならないことがある」と言って、話し始めました。「主のお助けによって、お前は自分自身を乗り越えた。だが今後、10回も、20回も、100回も自分自身を乗り越えていかなくてはならないだろう。」ルフィーノは言います。「霊父様、私は恐れます。もうこんな戦いを、戦う勇気はありません。」フランシスコは答えます。「戦えばそこに到達できるというものではない。神を礼拝しながら、そこに到達するのだ。神がおられる。それで十分なのだ。わかるか、ルフィーノ。」
これが高校1年生の秋、私の心に刻まれた信仰生活の原点です。「私は物事に迷うと、そもそも自分は何でこれをやっているのかと、自分の原点に戻ろうとします。そうすると、今の自分がすべきことが見えてくるんです。」イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に、ご自分の原点に帰って行かれた。私たちも絶えず原点に戻り、いまの自分がなすべきことを確かめましょう。


comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me