御創(みきず)



土曜日の中日春秋から。
「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
間もなく、お待ちかねの十字架の黙想・平成版が届くことになっていますが、
第一日目に聖イグナチオの十字架に向かう祈りという短い祈りが載っています。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版と言ってもオリジナル版の格調を損なわない程度に、
文語の言い回しが残っていますので、ベテランの方にも、
漢字は普通に読めるようになっていますので、
若い方にも末永く愛していただける一冊となっています。
「み傷の中に」も普通の「傷」に書き換えられたところですが、
オリジナル版は「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
キリストの十字架の御創に、私たちが接ぎ木されることによって、
キリストの命が私たちを新しく生まれさせ、新創造する、と。

2月13日、今日は岐阜で祈り会です。
今週も大切なことを大切に。

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あなたの聖霊は私たちを暖めますように

礼拝メッセージ 「あなたの聖霊は私たちを暖めますように」
聖書 ヨハネによる福音書11の17〜27
ヨハネによる福音書シリーズ(79)

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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愛しておられたので



過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」ラザロが危篤との知らせです。その時イエスがいた場所からベタニアまで、急ぎ足で一日ほどの距離でした。マルタとマリアは、イエスがすぐにでも来てくれると期待していましたが、イエスはすぐには出発せず、さらに二日そこに留まっていました。
私たちが使っている新共同訳聖書では、5節の後、6節に移るのに接続詞がありませんが、本来は「それだから」という、少し意味づけを難しくする接続詞がついています。新改訳聖書では、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。そのようわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞いたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」と、接続詞を訳しています。詳訳聖書も、「それゆえ」という接続詞を入れ、現代語訳聖書も「イエスは・・・ラザロを特別に愛しておられたので・・・なお、二日間そこにいて、動こうとはされなかった」と、イエスが彼らを(特にラザロを)愛していたことが、出発を遅らせた理由であったことを説明しています。愛しているのなら、すぐに行くのではと考えてしまいますが、この疑問を解くのが、物語全体の鍵でもある4節の言葉です。実存主義の思想家キルケゴールは、この4節の言葉から、「死に至る病」という著書を著し、絶望について論じましたが、イエスは「この病は死で終わるものではない。神の栄光のため、また神の子が栄光を受けるためである」と語り、その時をじっと待たれたのです。
7節の「それから」と言うのは、二日の後、三日目ということになりますが、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言います。弟子たちは、慌てた様子で、あるいはあきれた様子で、それを阻止しようとしますが、イエスは「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と答えます。弟子たちは、「眠っているだけなら助かるのでは」と言いましたが、イエスは「ラザロは死んだのだ」とラザロの死をはっきりと告げ、さらに言葉を続けられました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」と。
ここにも、愛する友ラザロの危篤を知らされて、なお二日居た場所に留まった理由が語られています。それは弟子たちが信じるようになるためだと・・・。4節には「神の子が栄光を受けるため」とありましたが、イエスがこの出来事を通して、お受けになる栄光とは、そして弟子たちがそれを信じるようになるとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書は、くり返しイエスの栄光について述べていますが、それはイエスが全人類の罪の贖いとして十字架の上で死に、永遠の命が人々に与えられることを指しています。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのイエスの言葉は有名ですが、これはイエスの死と復活によって、人々が永遠の命を受けることを語っています。ですから、ヨハネ福音書は、ラザロの死と復活を、イエスの死と復活と重ね合わせるように、私たちがそれを信じるように導くのです。

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わたしの愛にとどまりなさい

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。ヨハネによる福音書15章から。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。

昨年から、祈祷会では、情報誌の「あかしびと」から、
聖イエス会の様々な働きや証しを紹介するようにしています。
今日は、婦人部のページから救いの証しを読み、喜びを共にしました。
その後、「サーロフの聖セラフィーム」という書籍からお勧め。

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沈黙



昨日2月5日は日本26聖人の記念日でした。キリシタンへの弾圧と迫害の歴史が幕を落としました。そんな時代を背景に、迫害下にある長崎を舞台に描かれたのが、今話題の「サイレンス」、遠藤周作の「沈黙」です。スコセッシ監督が、28年を費やして完成させたハリウッド版の「沈黙」。すでに見に行かれた方が、自分の信仰を探られ、魂を揺さぶられたと話していました。
キリシタンが迫害されていく最中、どうして神は沈黙されたのかというテーマが掘り下げられ、踏み絵を踏んだキリシタンに光を当てた作品は、50年前に出版された当初はカトリック教会、特に九州の教会では禁書とされた、キリスト教のタブーに挑んだ作品でもあります。
島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン禁制の厳しい日本にポルトガルの祭司ロドリゴと言う人物が潜入します。彼は何度も踏み絵を踏んで棄教したキチジロウという人物を赦せないでいまいたが、ロドリゴも最後は、踏み絵を踏んでしまいます。
「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。 その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かって言った。 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
小説の最後のページは、ロドリゴとキチジロウとの会話で終わりますが、主が沈黙の意味を告げられます。「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた」と。

今週も大切なことを大切に。

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愛していた。だから

礼拝メッセージ 「愛していた。だから」
聖書 ヨハネによる福音書11の1〜16
ヨハネによる福音書シリーズ(78)

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 (だから)ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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わが心うばえり



ラザロが危篤でした。二人の姉は「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と、それだけをイエスに伝言しています。ここから、ヨハネが伝える7つのしるしの最後にして最大のしるし、ラザロの復活の物語が始まりますが、奇跡物語に入る前に、イエスが愛されたベタニア村と、そこに住んでいたマルタ、マリア、ラザロの姉弟のことを、まず考えてみましょう。
彼らが住むベタニアとは、エルサレムから3キロほどの場所にありました。ベタニアとは「悩む者の家」という意味です。この姉弟がいつ頃からイエスと親しい関係にあったかはわかりませんが、イエスの最後の一週間、「夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた」と書かれているので、きっと彼らの家から神殿に通っていたのでしょう。イエスにとって、彼らの家は憩いの場であり、お気に入りの隠れ家だったのです。
ルカ福音書の10章には、イエスが突然、彼らの家を訪問された時のことが記されています。イエスがもうすぐ来られると聞いて、マルタはせわしなく動き回っていました。いろいろな訳の聖書を見ると、「てんてこ舞い」の忙しさで、「気が落ち着かず」「とりみだしていた」「忙殺されていた」と訳していました。何からどう手を付けたらよいのかわからない状態で、ついにイライラを募らせ、妹に八つ当たりし、最後には、まるでイエス様が悪いかのように、「主よ、妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、マルタは不満を爆発させてしまいました。彼女は、後でどれだけ恥ずかしい思いをしたことでしょう。でも私はマルタが大好きです。聖書の中で、彼女ほどエプロンの似合う女性はいないと思っています。実際に彼女のしたことは必要なことであって、何一つ無駄ではありませんでした。しかし、順番の選択には問題がありました。もし、彼女が無くてならぬもの、ただひとつ必要なことを知っていたなら、彼女のもてなしそのものが全く別のものになっていたと思うからです。マリアはどうだったでしょう。「マリアは主の足もとに座って(これは弟子の姿)、その話に聞き入っていた」と書かれています。わかりやすく言うなら、マルタとマリア、二人の手には目に見えないお皿がありました。マルタは、たくさんのご馳走でイエスをもてなそうとして、あれもこれもとお皿をてんこ盛りにしていたのです。しかし、マリアはまず空のままのお皿を持って、イエスの足もとに座り、養われることから始めました。みなさんは、彼女がこの後もずっとそこに座り込んでいたと思われるでしょうか。私はそう思いません。彼女はこの後、エプロンを着け、颯爽とイエスとその一行をもてなしたにちがいありません。しかし、彼女はイエスの足もとに座って、その御口から語られる言葉に心をときめかせ、恵みの言葉に養われることを第一に選んだのです。今日、私たちはどんなお皿を持って主の御前に出ているのでしょうか。空の器を持って、主の足もとに留まりましょう。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

大槻牧師が書かれた「聖地賛歌(初版)」の中に、ベタニア村の印象が「わが心うばえり」という題で記されています。その文章の中で、ベタニアのマリアのことが、旧約聖書の雅歌の御言葉を使って紹介されていました。「わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。」この言葉を新共同訳聖書ではこう訳しています。「わたしの花嫁、あなたわたしの心をときめかす。」イエスはベタニアを愛されました。「あなたは私の心をときめかす」と言われるほどに、イエスの心を奪ってしまったのです。現実には、多くのことに思い悩み、心を乱すことがあります。文字通り「悩む者の家」です。それでもイエスはベタニアを愛されました。どうしてでしょう。そこにイエスに心をときめかす人がいたからです。御言葉に聞き入り、み足もとに留まる者がいたからです。

次の日曜日は2月の最初の礼拝です。毎月第一日曜日は、礼拝は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
今年は聖書を読んでみようと思っておられるみなさん、ぜひお出かけください。

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我は始めなり終わりなり

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネの黙示録22章から。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。
最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

先週に続き、京都の新年聖会のメッセージから学ばせていただきました。

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レオネよ、よく聞きなさい



先週紹介した「まことの智にいたるまで」は、アシジの聖フランシスコの晩年の苦悩を描いた作品です。先週は、ルフィーノという弟子の話でしたが、本の終わり頃に、レオネという弟子とフランシスコとのこんな語らいが記されています。レオネが尋ねます。「いったいいつになったら、心の清い者になれるのでしょうか。」(これは、いつになったら、キリストと一つになれるのかと思い悩んでいる私たちの問いかけでもあります。)
フランシスコの答えはこうです。「ああレオネよ、よく聞きなさい。自分の心が清いかどうか、そんなに心配してはいけない。目を神に向けなさい。神をたたえなさい。神が完全に聖なるお方であることを喜びなさい。そのことだけを見て、神に感謝しなさい。そうすれば、清い心を持つことができる。神に向かう時、自分自身のことを振り返ってはならない。どれほど神と一致しているか、などと考えてはいけない。自分自身の不完全さや、罪の深さをあからさまに見て悲しむのは、・・・あまりに感情的だ。・・・心の清い者とは、生ける神を絶えず礼拝している者のことなのだ。そのような人は神の命そのものと深く結ばれ、どんな惨めの中でも、神の永遠の喜びを深く感じることができる。・・・あなたにとっては、神が神でいられることだけで十分なのだ。・・・あなたのなすべきことは、ただ自分のむなしさを知って、そのむなしさをありのままに受け入れることだ。そうするならば、神は一層自由に、あなたの無の中に創造のみわざを続ける場をお持ちになるのだ。」
本のあとがきには、こう書かれています。訳者の言葉です。「私自身、どれほどこの書から多くの光となぐさめを見出したことであろう。原著のもつ高い霊的香気を充分訳出し得ない未熟さもかえりみず、この書を世に送ろうとするのは、『すべての人は聖人に召されている』という福音の理想が、決して現実ばなれしたものではなく、それこそ、平凡な、失敗やつまずきに歩みも滞りがちな日々の営みの中に差し伸べられている、父なる神の愛の招きに外ならないことを、一人でも多くの人に知ってもらいたいからである。」
すべての人は聖人に召されている。失敗やつまずきに歩みも滞りがちな日々の営みの中で、それでも「わたしにつながっていなさい」と招かれるキリストの招きに、感謝し、心ときめかせ、信頼する人でありたいと思います。

今週も大切なことを大切に。

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わたしの心をときめかす

礼拝メッセージ 「わたしの心をときめかす」
聖書 ヨハネによる福音書11の1〜6ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(77)

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

ルカによる福音書
10:41 あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

雅歌
4:9 あなたはわたしの心をときめかす。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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