ほら、聞こえてくるのは



昨日は、福井教会でもたれたチャペルコンサートで聖歌隊が歌わせていただきました。聖歌隊は、この世で歌われている歌ではなく、神を讃える歌を歌います。それが讚美です。しかし、私はこう思います。讚美は、人が神にささげているように見えて、実は、それを歌わせてくださるのは神様なのだから、ほんとうは神様が歌っているのではないだろうか。そんな思いに答えが与えられたのは、ゼファニア書の3章18節をリビングバイブルで読んでいた時でした。こう書かれています。「ほら、聞こえてくるのは、喜びにあふれた聖歌隊の歌声であろうか。いや、あれは神様が、あなたがたのことで、喜びいっぱいに歌っておられる声だ。」聖歌隊が歌っているようで、ほんとうは「神様が・・・歌っておられる」というのです。そこでチャペルコンサートのタイトルを「神様からのラブソング」と付けるようになりました。昨日のコンサートもそうでしたが、メンバーが次々に自分の体験した神の愛の物語を語りながら曲の紹介をします。聖歌隊は歌いながら、神様の歌声を聴きました。聴衆は聖歌隊の歌声をとおして、神様の歌声を聴きました。神様の愛につつまれ、聖歌隊の目に涙が光りました。聴衆席のあちらにもこちらにも泣いている方がいました。神様が歌っていたからです。

今週も大切なことを大切に。

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大きな愛

礼拝メッセージ 「大きな愛」宮本裕美先生
聖書 ルカによる福音書10章25−37節

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

今日の礼拝では、7月に来日したアンコール合唱団のコンサート映像をダイジェストでご覧いただき、
メンバーが届けてくれた感動のことばの数々をシェアしました。
牧師と聖歌隊は福井教会でもたれるチャペルコンサートに出かけていました。

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ナザレのイエス、ユダヤ人の王



イエスを十字架につけるために、ユダヤ人に引き渡したローマ総督ピラトは、自らが書いた罪状書きを、イエスの十字架の上に掛けさせました。そこには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。ユダヤ人の宗教指導者たちは、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書き直してくださいと訴えましたが、ピラトはそれを取り扱いませんでした。
十字架のもとに最後まで立っていた弟子のヨハネは、その罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと証しています。罪状書きには通常、囚人の名前とその罪状が書かれますが、ピラトはイエスの名と彼が名乗った身分をそのままそこに書きました。それは「皇帝のほかに王はありません」と言って、イエスを死に追いやったユダヤ人に対する皮肉も含まれていたでしょうが、それを書かせたのは神ご自身であったとしか思えません。それは神の御心でした。その日、過越祭を祝うために世界中から集まっていた人々がそれを読んだからです。
世界には多くの言語がありますが、イエスの罪状書きに使われた三つの言語は、当時の世界を象徴していました。ヘブライ語は宗教を、ラテン語は法律と政治を、ギリシア語は芸術と思想を世界に教えた言葉です。つまり、それらすべてのものを治める王として、その名が十字架の上に掲げられたと言うことです。こうして、イエスの名はすべての時代の、すべての人々の前に示されたのです。
このように十字架は歴史の事実であり、キリスト教のシンボルです。それは誰でも知っています。しかし、十字架の前に立ち止まって、そこに掲げられている罪状書きの表ではなくて、その後ろにある事実を見ようとする人は多くありません。イエスの罪状書きの後ろ側には、本来そこにつけられるべきであった私の名前と罪状が書かれていたのです。しかし、その上に、イエスの名が掲げられたので、私の罪は赦され、私は救われました。今日も十字架の罪状書きが、私たちの前に掲げられています。あなたにもそれが読めるでしょうか。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」

次の日曜日は、福井教会でもたれるチャペルコンサートに聖歌隊と一緒に出かけます。

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まさに主が共におられる人です

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
サムエル記上16章から。

16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
16:15 サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16:16 王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
16:17 サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
16:18 従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」
16:19 サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
16:20 エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
16:22 サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
16:23 神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

宣教ボランティアから帰って来た神学生が、学びの時間に教わった賛美の人ダビデのお勧めをシェアしてくれました。

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はてしない物語



ドイツの作家ミヒャエル・エンデが書いた、児童向けファンタジー小説『はてしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)』をご存じでしょうか。バスチャンという主人公の少年が、あることから一冊の本の世界に入り込んで行って、滅びかかっていたその世界を救うというワクワクするストーリーです。でも、考えてみれば、イエス・キリストの物語こそ、いつまでも終わらない、終わらせてはならないネバー・エンディング・ストーリー(はてしない物語)なのではないでしょうか。5年に渡って礼拝で学んできたヨハネによる福音書も、いよいよ十字架と復活の場面を残すのみとなりましたが、著者であるヨハネは福音書の最後にこう書いています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。・・・その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」これぞ神の愛のはてしない物語なのです。

次の日曜日、聖歌隊が福井教会でコンサートをさせていただきます。
福井方面のみなさん、ぜひお出かけください。

今週も大切なことを大切に。

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神の愛のはてしない物語

9月のオープン礼拝
礼拝メッセージ 「神の愛のはてしない物語」
聖書 ヨハネによる福音書19章17-22節
ヨハネによる福音書シリーズ(174)

19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

今週も礼拝の恵みに感謝。
来週は聖歌隊が福井教会のコンサートで歌わせていただきます。

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焼き尽くす火

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
列王記上18章、ヘブライ人への手紙12章から。

18:20 そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
18:24 こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。
18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。

12:29 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

エリヤはまず崩された祭壇を修復しています。それは神との関係の回復を意味していますが、カルメル山に起きたイスラエルの歴史を変える宗教改革は、神との関係の回復から始まったのです。主は御自身の火を下す祭壇を探しておられます。そして、今日も、ここに一つの祭壇を見つけられました。壊れていた祭壇とはあなたのことです。さあ、共に祭壇を築き直しましょう。主の火が下る祭壇を。

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9月のオープン礼拝



8月も最後の一週間、次の日曜日は9月のオープン礼拝です。
テーマは「十字架が語る真実」。
毎月第1日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。
日曜の朝10時30分から。


名古屋教会の聖歌隊が、9月8日、福井教会でコンサートをさせていただきます。
お近くの方がいましたら、ぜひお出かけください。
福井教会チャペルコンサート

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燃えるたいまつ

礼拝メッセージ 「燃えるたいまつ」
聖書 イザヤ書62章1節、ヘブル人への手紙12章1-2節(口語訳)

62:1 シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。

12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

8月最後の礼拝は、青年たちによるリバイバル集会でした。
体当たりで感動を込めて語られるメッセージに、一同こころ熱くしました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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十字架の神秘



イエスの逮捕から裁判まで、特にピラトとのやり取りを丁寧に描いたヨハネでしたが、十字架の道行きは意外にあっさりしています。イエスがピラトの官邸を出てゴルゴタと呼ばれる刑場に向かう道すがら、エルサレムの住民と過越祭に来ていた巡礼者たちは、前日とは別人のようになっているイエスの姿に驚き、物見高い人垣を作っていました。イエスは十字架の横木を自ら背負い、最初の数百メートルは、よろけながらも何とか歩くことができましたが、上り坂に差し掛かったときには、どうにも動けなくなってしまいました。
ヨハネ以外の福音書には、ローマ兵がそばに立っていたシモンという名のキレネ人に、イエスの十字架を無理やり押しつけ、ゴルゴタの丘まで運ばせましたことが記録されています。彼は、北アフリカのリビア地方の町キレネから過越祭に上って来ていた巡礼者でした。彼にとっては、命じられるままに、無理に担がされた十字架でしたが、それははかりも知れない神の恵みを伴うものでした。後に、彼と彼の家族の名が、使徒言行録やパウロ書簡に何度も出てくることから、イエスの十字架を分担した彼の人生が全く変えられたことがわかります。シモンにとって、おそらく生涯に一度のエルサレム巡礼の旅、そのゴールはあの荘厳なエルサレムの神殿ではなく、それはゴルゴタの丘であり、十字架のキリストであったのです。
これがヴィア・ドロローサで起こった事実ですが、ヨハネはシモンのことには一切触れず、頑固なまでに主張します。「イエスは、自ら十字架を背負い、・・・ゴルゴタという所へ向かわれた」と。ヨハネはシモンのこともよく知っていました。すぐそばで彼が十字架を背負うのを見ていたのです。それでもです。たとえイエスが力尽き、イエスの代わりに誰かが十字架を背負ったとしても、イエスが私たちのために重い十字架を自ら背負われた事実に変わりはありません。また、シモンの前を歩まれるイエスの背中には、私たちが負うべき十字架が確かに背負わされていたのです。シモンがイエスの十字架を背負ったのではなく、イエスがシモンの十字架を背負っていたのです。これこそ十字架の神秘です。
あの運命の日、ヴィア・ドロローサでの出来事が、シモンの心を永遠にキリストに結びつけたように、私たちも私たちに与えられる十字架を背負わせていただきましょう。だれ一人誇ることのできるものはいません。ただ従いましょう。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りない」のですから。

次の日曜日が、8月最後の礼拝になります。青年たちによる特別集会です。

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