灯火親しむべし



「読書の秋」と言われますが、どうして、秋と読書が結びついたかというと、古代中国の文人・韓愈(かんゆ)が詠んだ「時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒」という詩から来ていると言われています。「降り続く長雨がやんで、空がすっきりと晴れ渡り、郊外の丘の上では、秋を感じさせる涼しさが感じられる。そんな秋の夜長は、明かりをつけて、そのもとで読書をするのに適している季節です」ということですが、この「符読書城南(符 書を城南に読む)」という詩は、韓愈が息子の符(ふ)に、勉学を勧めたものと言われています。
灯火親しむべし。この秋、私たちも聖書に親しみ、このよいほんの言葉の内側に入り込み、私たちの人生を変え、歴史を動かすことさえできる一つの言葉と出会えますように。さあ、聖書に帰りましょう。

聖イエス会では、『あかしびと』の連載でも紹介しましたが、『デボーションガイド』と『日々の御言葉』という、聖書通読の手引きを作っています。只今、来年の『デボーションガイド』の原稿の校閲中です。『デボーションガイド』は3年サイクルで、旧約聖書1回、新約聖書2回を通読できますが、今年で2サイクル目が終了し、来年から3サイクル目に入ります。装いも新たに新シーズンがスタートしますので、ぜひご利用ください。

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聖書に親しむ

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。テモテの手紙二の3章から。

3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

京都の秋期聖会の証しを見た後、今日は『あかしびと』9月号の巻頭のことばから、お勧めをしました。
秋の教区聖会のためにも祈りが積まれています。

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車のハンドル



「早起きクリスチャンの祝福」という本にこんなことが書かれていました。

聖日説教の時間にみことばを聞くだけでは、神様のみことばと私の人生を結びつけることができない。神様は聖書を通して、ご自身のことだけでなく、人間の存在のすべてのことについて語っておられる。ある面では、聖書は神様が造られた「人間」という存在に対する説明書のようなものだ。だから、聖書を理解するということは、私たちの人生に対する総体的な報告書に出会うようなものだ。
人生、どこに向かっていけばいいのかわからない人がいるなら、今からでも聖書を学んでみてほしい。・・・学んでいるうちに、聖書の感動によって神様という存在が胸に迫ってくる瞬間があるだろう。神様のみことばが、車のハンドルのように、人生を導いてくれる瞬間があるだろう。


昨日は、兵庫県の宍粟市にあるペテロ教会でメッセージを語らせていただきました。
祈りの積まれた聖会で、キリストを心に迎えられた方もあり、小さな教会に大きな喜びが与えられました。
与えられた一つ一つの出会いに感謝しています。
今週も大切なことを大切に。

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イエスと一緒にいた者

礼拝メッセージ 「イエスと一緒にいた者」
聖書 使徒言行録1章8節、4章8-13節
京都秋期聖会メッセージから

1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

4:8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
4:13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

今週も礼拝の恵みに感謝します。

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ざわわ



ヨハネによる福音書の学びを礼拝で続けています。14章まで来ましたが、14章から17章までは、ヨハネ福音書の核心というべき部分になります。十字架の前夜、最後の晩餐の席から始まり、ゲッセマネの園へ移動する道すがら、イエスが語られた最後の教えです。今まで隠されていたイエスの胸の内が、聖なる思いが語られることから「御心の至聖所」と呼ばれることもあります。
13章で、イエスは弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合う」という新しい戒めを語られました。その中で、弟子たちがついて来ることのできない所に行くとも語られたことから、この後、弟子のペトロが三度イエスの事を知らないと言うことが予告されました。イエスのいつもとは様子のちがう、ただならぬ物言いに弟子たちは胸騒ぎがしました。そこで語られたのが14章1節の言葉です。「心を騒がせてならない。」
「さとうきび畑」という歌をご存知でしょうか。「ざわわ、ざわわ、ざわわ、広いさとうきび畑は・・・。」作詞・作曲した寺島尚彦さんは1964年、復帰前の沖縄を訪ねてさとうきび畑を歩いていたとき、この畑の下にまだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままであるという話を聞きます。そのとき、頭越しに吹き抜ける風の音を聞き、あの詩が生まれたそうです。11節もある歌詞の中に66回もあの「ざわわ」が出てきます。平成ではいられない心の状態、怒り、不安、いらだち、すすり泣きが、今日、私たちの心にもあるでしょうか。
十字架の時が切迫し、そのことが語り出されると、弟子たちの心は憂いと悲しみに満たされ、動揺し、混乱に陥っていました。不安と恐怖に心が騒いでいたのです。いま弟子たちの心中に渦巻いている、不安と動揺の原因は何なのでしょうか。イエスはその治療法をよく知っていました。それが神、すなわちイエス・キリストへの信頼、信仰です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ここで「そして」と訳されている「カイ」というギリシャ語の接続詞は、「すなわち」と訳す場合があります。すると、「神を信じなさい、すなわち、わたしを信じなさい」となりますが、『我主イエズスキリストの新約聖書』、通称『ラゲ訳』と呼ばれる聖書ではズバリ「神を信ずれば我をも信ぜよ」と訳されています。
これらの言葉を聞き、思い出すのは、イエスがガリラヤの波猛る海で弟子たちを諭された時のことです。イエスと弟子たちが乗っていた舟が突風に見舞われ、今にも沈みそうでした。「イエスは起きあがって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」私たちの心には、「ざわわ、ざわわ」、不安と恐れ、あせり、いらだち、大小さまざまな波が押し寄せているでしょうか。イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちはあの日、こう言いました。「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と。そこで私たちがなすべきことは、ただイエス・キリストを神と信じることです。信頼しきって、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストに近づこうではありませんか。

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井戸よ、湧き上がれ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
民数記21章と創世記26章から。

21:16 彼らはそこからベエル(井戸)に行った。これは、主がモーセに「民を集めよ、彼らに水を与えよう」と言われた井戸である。
21:17 そのことがあったとき、イスラエルはこの歌をうたった。
井戸よ、湧き上がれ
井戸に向かって歌え。

26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。
・・・・・・
26:32 その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。

京都での秋期聖会のメッセージを学ばせていただきました。

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ことばのうちがわへ



10月の『ぶどう樹』を読んでいただけたでしょうか。2017年10月(今月)は、マルチン・ルターによる宗教改革から500年と言うことで、文章を書かせていただきました。短い紙面で、宗教改革のすべてを書くことはできませんので、「その始まり」と言うことで「聖書に帰ろう」と題を付けて短くまとめてみました。冒頭にクリスチャンの詩人で、今年没後90年を迎えている八木重吉さんの詩を引用しています。何度も声に出して読んでみたくなるような詩です。

 この聖書(よいほん)のことばを
 うちがわからみいりたいものだ。
 ひとつひとつのことばを、
 わたしのからだの手や足や、
 鼻は耳やそして眼のようにかんじたい。
 ことばのうちがわへはりこみたい。

今から500年前、ドイツで始まった宗教改革運動も、実にそんな聖書の内側に入り込んだ一人の人によって始められていきました。宗教改革に至るまでの歴史的な背景があったのは事実ですが、きっかけは、真面目に聖書を学び、聖書に帰ろうとしたマルチン・ルターの素朴な一つの問いかけから始まっていたのです。
1517年10月31日、ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に95カ条の提題(公開質問状)を貼り出しましたが、やがてその日が宗教改革記念日と呼ばれるようになるとは、彼自身、想像もしていなかったことでしょう。先週、突然の衆院解散で総選挙、希望、リセット、挑戦と巷にはそんな言葉が飛びかっていますが、かけ声だけでは何も変えることが出来ないことを私たちはもう知っています。ルターの場合、彼が聖書の言葉に捉えられ、その言葉に心を燃やされる体験をしたことが改革の原動力となりました。ルターによる宗教改革とは、単に当時の教会の既成権威に対する抗議(プロテスト)ではなく、聖書を読む運動であったと言えるかも知れません。その運動が歴史を動かしたのです。この秋、私たちも聖書のことばの内側に入り込み、人生を変え、歴史を動かすことさえできる一つの言葉と出会えますように。礼拝で続けているヨハネによる福音書の学びも14章に入ります。毎週、御言葉に期待し、ことばの内側へ入り込みたいと願っています。

『ぶどう樹』は聖イエス会の教会で配布されているパンフレットです。
興味のある方は近くの聖イエス会の教会にお問い合わせください。
今週も大切なことを大切に。

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神を信ずれば我をも信ぜよ

10月のオープン礼拝
礼拝メッセージ 「神を信ずれば我を信ぜよ」
聖書 ヨハネによる福音書14の1-7
ヨハネによる福音書シリーズ(105)

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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エルサレムよ



エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
詩編137の5

今週の祈祷会は、水曜日の特別ゲストを迎えての集会に合流しました。
イスラエルからの大切なお客さまでしたが、
半日ほど名古屋の産業観光施設をご案内し、夜の集会を迎えました。
毎年、聖イエス会の教会を巡られていますが、
その度に新しい感動を受け、自分の人生が豊かにされていると
語っておられました。
お名前のとおり、グッド・フレンドなゲストでした。
写真は教会にプレゼントしてくださったヘブライ語の壁掛け。
詩編137編の言葉です。

次の日曜日は10月のオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。

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10月のオープン礼拝



次の日曜日は10月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
10月のテーマは、ずばり「神を信じること」。
読書の秋、聖書を読んでみませんか。
そして礼拝デビューしてみませんか。ご来会をお待ちしております。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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