ロゴスを習得する

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書の1章から。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

今日はペンテコステ聖会の恵みをシェアした後、『あかしびと』のロゴス神学院開校70周年の記事を学び、神学院のためにみんなで祈りました。

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慰め主



ペンテコステの恵みに満ちた聖会を導いていただきました。新しく導かれている方々も、御名を呼びたくなるようなメッセージと証しで、祈りを受けながら、涙をぬぐっていました。御名を崇めながら、聖霊が心に深くしみ込みますように。
聖会前、今回の聖会のために祈っていると、聖霊が「慰め主」と呼ばれていることに目が開かれました。私たちが使っている聖書では、「弁護者」と訳され、多くの日本語の聖書で「助け主」と訳されている言葉です。詳訳聖書はさすがに超詳しいです。「しかし、慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉、すなわち、父が私の名によって〈私の代わりに、私を代表し、私に代わって働くために〉つかわされる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教えてくださる。また彼は私があなたたちに語った事をことごとく思い起こさせ〈思い出させ、記憶によみがえらせ〉てくださる。」イエス・キリストが「私の代わりにつかわされる聖霊」と言っているお方は、「慰め主」です。単に、可愛そうだねと言って同情するだけではありません。聖書学者のバークレーによれが、ラテン語の「フォルティス」は落胆している人に再び勇気を与える慰めと言う意味だと解説されていました。慰め主は、助言者であり、助け主であり、執りなす者、弁護者、激励者、援助者ですから、勇気をもたらす慰めが与えられるのです。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍に引き寄せ、抱きかかえてくれる存在という意味です。英語で慰めを「comforter」、掛け布団と呼ぶのはそのためかも知れません。今週も慰め主である聖霊が共にいてくださいます。

今週も大切なことを大切に。

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カナの奇跡 〜わたしはここにいる〜

ペンテコステ聖会
メッセージ 「カナの奇跡 〜わたしはここにいる〜」
聖書 ヨハネによる福音書2の11、イザヤ書48の9

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。
それで、弟子たちはイエスを信じた。

58:9 あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。

午後はヨハネによる福音書の5章から、「ベトザタの池 〜いま水が動いている〜」と題してメッセージが語られました。
今週も礼拝の恵みに、そして聖会の恵みに感謝。

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両手でいただきなさい



カトリックのシスター渡辺和子さんがベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』にこんな文章を記しておられます。
「人は、生きたように死ぬ」ともいいますが、これは必ずしもそうではなく、生涯を弱者のために尽くした人が、理不尽としか思えない死を遂げることもあります。それならば「いい加減に」生きてもいいではないかというのも、一理あります。が、反対に、わからないからこそ、「ていねいに」生きることもできるのです。・・・では、ていねいに生きるとは、どういう生き方なのでしょう。数年前、私は「ひとのいのちも、ものも、両手でいただきなさい」という言葉に出合いました。そしてこれは、私に、ていねいに生きる一つのヒントになりました。誰が考えてもよいもの、ありがたいもの、例えば賞状、卒業証書、花束などを両手でいただくのには、何の抵抗もないでしょう。しかし、自分がほしくないものだと、そうはいきません。拒否したい、突き返したいようなものが差し出された時、果たして、それを受け止めるだけでなく、両手でいただく心になれるのだろうか、と私は、自分に問いかけ続けています。・・・
何事もリハーサルをしておくと、本番も落ち着いていられるように、大きな死のリハーサルとして、小さな死を、生きている間にしておくことができます。小さな死とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」ように、私たちの小さな死は、いのちを生むのです。
自分ファーストな私たちには、どこを探してもそんな崇高な愛は見当たりません。しかし、ペンテコステの朝、一粒の麦となられたキリストの死と復活を通して、弟子たちの上に注がれた聖霊は、今日も信じるすべての人に注がれ、どんな人でも愛の人に変えることができるのです。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。さあ、両手を差し出して受け取りましょう。来てください愛の聖霊、求める者を訪れ、心に満ちてください。

次の日曜日は、ペンテコステ記念の聖会です。慰め主なる聖霊を待ち望みます。

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炎の書

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録28章ほか。

28:23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
28:24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
28:25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、
28:26 語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
28:27 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』
28:28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」†
28:29 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ人たちは大いに論じ合いながら帰って行った。
28:30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
28:31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

今週も『あかしびと21』の最新号を開き、長い間連載されてきた『炎の書』最終回を学び、教会が使徒言行録の29章となれるよう、「教会は使徒行伝のごとく」と祈りました。その後、ペンテコステ聖会を前に、聖霊が「慰め主」と呼ばれることについて、御言葉を開きながら学び(ヨハネによる福音書14章、コリントの信徒への手紙二1章)、聖会のために共に祈りました。

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最古の職業?



先週土曜日の中日春秋から。
旧約聖書の創世記をめぐる、こんなジョークがある。三人の男が言い争っている。医者と建築家と政治家が、自分たちの職業のうち最古の職業はどれかを論じているのだ。「神はアダムの肋骨からイブを作られた。これは手術ではないか」と医者が主張すると、建築家が反論する。「神はまず、混沌からこの世界を構築された。建築こそ一番古い」。「なるほど」と政治家が口を開いた。「ところで、その混沌をつくったのは誰だね?」「誰だね?」と聞かれて、いま真っ先にその顔が浮かぶ政治家が、またしても特大の混沌をつくった。地球温暖化対策の世界的な枠組み「パリ協定」から離脱すると宣言したのだ。・・・
この後、アメリカのトランプ大統領のことが書かれています。自国第一主義(アメリカ・ファースト)を掲げて大統領に選ばれた指導者だけではなく、くり返し忖度の有無が話題になっている日本のトップも、隣国アジアの国々のトップも、次々と新たな混沌を作り出しています。国益を優先する自国第一主義はある意味、当たり前のことでしょうが、大局を見失うと、ただの独りよがりになり、新たな混沌をつくり出すだけです。
イエス・キリストが教えてくださった「一粒の麦」の譬えは、そんな自分勝手な私たちに、自分に死に、他者を生かすという神の国の生き方を、自らがモデルとなりつつ示してくださったものです。共観福音書では、もう少し早い時点で、イエスが受難の予告をされ、その直後に、イエスに従おうとする者の覚悟が語られますが、ヨハネは同じ内容を、十字架の死を目前にしたこのタイミングで、とても印象的に語ります。
一粒の麦の譬えは、自然界の事実です。一粒の麦が地に落ちて発芽する事実を、麦が「死ぬ」と表現することで、これをイエスの死と重ね合わせ、イエスの死が持つ意義を語っています。つまり、イエスが死ぬことによって、多くの人が真実の命に生きるようになるという福音の奥義が、この譬えによって宣言されているのです。

今日は京都でロゴス社の編集会議。
今週も大切なことを大切に。

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一粒の麦(ていねいに生きる)

礼拝メッセージ 「一粒の麦・その2」ていねいに生きる
聖書 ヨハネによる福音書12の20ー26ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(81)

12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

フィリピの信徒への手紙
2:5 汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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真心から神に近づこう



「われらイエスに謁えんことを願う」と言いながら、どうしてギリシア人たちは直接イエスのところに行かなかったのでしょう。いろいろ理由が考えられますが、意外に答えは簡単かもしれません。行かなかったのではなく、行けなかったのです。エルサレムの神殿は、いくつかのエリアがあって、それぞれそこに入るのに条件がありました。神殿の境内の外回りは、異邦人の庭と呼ばれる広いスペースです。その次に婦人の庭、さらに門をくぐってイスラエルの庭、更に境内から本殿に入ると聖所があり、その奥に、至聖所と言われる場所がありました。
改宗したギリシア人が入ることが許されていたのは、異邦人の庭までであって、イエスは婦人の庭かイスラエルの庭におられたのでしょう。彼らは会いたくても、会いに行くことができなかったのです。両者の間には「隔ての壁」があったからです。この「隔ての壁」について、パウロがエフェソの信徒への手紙の2章でこう言っています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
キリストは十字架によって「隔ての壁」を取り除かれました。ここで言われている「隔ての壁」とは、モーセの律法のことです。そのモーセの律法が、キリストの十字架によって、すべて成就したので、だれでも信じるだけで神に近づくことの出来る恵みの時代が訪れたのです。キリストが一粒の麦となって死ぬことによってです。
「キリストはおいでになり、遠くに離れているあなたがた(異邦人)も、また、近くにいる人々(ユダヤ人)にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」
私たちは、一粒の麦となられたイエスの血(十字架)によって聖所に入れると確信しています。一粒の麦となられたイエスは、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」「君よ、われらイエスに謁えんことを願う。」

6月に入りました。次の日曜日は、6月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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6月のオープン礼拝



6月になりました。次の日曜日は6月のオープン礼拝です。
オープン礼拝は教会は初めてと言われる方にも入りやすい礼拝です。
ぜひお出かけください。

日曜の朝10時半。弥富公園東、丘の上の教会。
入場無料、駐車場、こども部屋あり。

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聖霊に満たされなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録の1章、2章から。

1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

今週はペンテコステ前のお勧めとして、『あかしびと』の巻頭のことばから「聖霊に満たされなさい」を学びました。

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