わたしにつながっていなさい

礼拝メッセージ DVD「わたしにつながっていなさい」
聖書 ヨハネによる福音書15章から、ガラテヤの信徒への手紙5の22-23

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

今週も礼拝の恵みに感謝します。

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信じさせるためです



ラザロの墓の前に置いてあった石が取りのけられると、イエスは天を仰いで祈り始められました。きっとそこにいた多くの人は、石を動かすことやその後どうなるかに気を奪われていたにちがいありません。しかし、ヨハネはそこで祈られるイエスの声を聞き逃さなかったのです。この後、「ラザロ、出て来なさい」という言葉は、わざわざ「大声で叫ばれた」とことわっていますので、その前の祈りは、誰にも聞こえないような小さな声であったかもしれません。でもヨハネはその声をキャッチしました。
イエスは何と祈られたでしょうか。パンの奇跡の時もそうでしたが、まだ何も起こらない先に、イエスは天を仰ぎ、感謝にあふれた信仰の祈りをささげています。祈りには、お願い事の多い請求書的な祈りと、先取りの感謝と言われる領収書的な祈りがあると言われますが、イエスと父なる神との交わりに見る祈りは、先取りの感謝の祈りです。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」地上的な望みが断たれ、もはや万事休すと言うときに、イエスは天を仰ぎ(これは信頼の姿勢です)、すでにそれを受け取ったかのように過去形で祈られます。この後に続く途轍もない奇跡は、この途轍もない祈りから始まっていたのです。
そして、この祈りの中で、この奇跡の目的が明らかにされています。「わたしがこう言うのは・・・あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11章の初めから始まったラザロの物語、随分長い記事でしたが、最後ラザロの復活の場面はこの後、たった2節で終わり、その後、復活に続く物語へと話題を移していきます。正直、あっさりし過ぎている感じがするかも知れませんが、ヨハネの焦点は、このイエスの祈り、その一言に集中していました。「彼らに信じさせるためです。」

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認識力と受容力

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
エフェソの信徒への手紙6章10節、詳訳聖書で。

6:10 最後に言います、主にあって強くありなさい〈彼との結合によって力づけられなさい〉。
彼からあなたがたの力〈彼の無限の力が供給するところの力〉をくみ出しなさい。

春の京都聖会を前に心を備えました。

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出ておいでよ



三浦綾子さんの小説『氷点』の主人公、陽子という名は、綾子さんの実の妹の名前を使っていると言われます。陽子さんは綾子さんが13歳のときに、6歳で亡くなっていますが、綾子さんは近所の暗がりに行って、「幽霊でもいいから会いたいよ。陽子ちゃん、出ておいでよ」と言うほど、妹さんの死を悲しんだそうです。
三浦綾子記念文学館特別研究員の森下先生が、この「出ておいでよ」こそ、三浦文学の原点かも知れないと話されている文章を読みました。森下先生は、取材で、綾子さんが教師時代の教え子に会われたそうですが、その方が登校拒否で学校を休んでいると、綾子さんが家に大福餅を持って来てくれて、「学校に出ておいで」と優しく声をかけてくれたという話しをされたそうです。また、綾子さんは自宅で家庭集会を開いていたそうですが、ご近所の方をお誘いするのに、いつも「一人で家にいないで、家庭集会に出ておいでよ」と言っていたそうです。
『氷点』の最後は、陽子が雪の積もる見本林へ行き、睡眠薬を飲んで命を絶とうとする場面ですが、三浦綾子さんは、睡眠薬を飲んで昏睡状態になった陽子を、三日三晩眠らせますが、そこで陽子を可愛がっていた、陽子の母・夏枝の友人、辰子に「ねるだけ、ねむったら早く起きるのよ(まるで「出ておいてでよ」と呼びかけているよう)、全くちがった人生が待っているんだもの」と言わせているのも意味深な感じがします。そして、『続・氷点』では、目を覚ました陽子が、最後、夕日を浴びた流氷が燃えるように見える光景をとおして、キリストの十字架が描かれていきます。と思えば、「出ておいでよ」が三浦文学の原点というのも当を得ているのかも知れませ。
実は聖書も同じようなところがあります。聖書のはじめ、創世記には、「光あれ(光よ、出て来なさい)」と書かれており、罪を犯した人間に対して、神が「どこにいるのか(出て来なさい)」と呼びかけています。そして聖書の終わり、黙示録には、「聖なる都エルサレムが、花嫁のように用意を整えて・・・天から下って来る(出て来る)のを見た」と新しいエルサレムが現れる光景が描かれ、そして、天使が「ここへ来なさい(出て来なさい)。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」と呼びかけるのです。いのちである神の前に出て来ること、これこそ聖書の一貫したメッセージと言えるのではないでしょうか。

今週も大切なことを大切に。

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ラザロ、出て来なさい

礼拝メッセージ 「ラザロ、出て来なさい・前編」いのちの授業(2)
聖書 ヨハネによる福音書11の38〜44
ヨハネによる福音書シリーズ(83)

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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226許しの往復書簡



私たちは頭ではわかっていても、体がついていかないことがあります。2月の最後の日曜日は26日でした。昨年の暮れに帰天されたノートルダム清心女学院の理事長、渡辺和子先生は、昭和の大クーデターと言われる226事件で陸軍教育総監であった父・錠太郎氏を亡くしておられます。81年前のことです。先生の本の中に、あるテレビ局から、226事件の追悼番組をするので出演してほしいと依頼があった時の話しがあります。どうしてもと頼まれてテレビ局に行きましたが、そこにお父さまを殺した側の元兵士が来ていたそうです。聞かされていませんでした。常々、「お父さまを殺した人を憎んでいますか?」と聞かれると、「あの方たちにはあの方たちの大義名分がおありだったのですから、憎んではいません」と答えていたそうですが、その日、その方と二人きりになり、出されたコーヒーを口元まで運んでも、飲むことが出来なかったとき、自分は、本当は心から許していないのかも知れない、頭では「汝の敵を愛せよ」とわかっているつもりだったが、体が言うことを聞いてくれないということに気づいたのだと言います。
先生が召された後、一つのエピソードが新聞に掲載されました。226事件から50年経った年、お父さまを襲った青年将校たちの法事に参列してほしいと頼まれて、先生はその法事に参列し弔意を表したそうです。すると、青年将校の一人(先生のお父さまのとどめを刺したと言われる安田という兵士)の実の弟さんが、その様子を見、感動し泣きながら、「私の方が先にお父さまのお墓を参らなければならないのに、申し訳ありません」と頭を下げたそうです。その後、安田さんと渡辺和子先生の交流が始まりました。手紙のやり取りが続き、家族をまじえて食事もしました。5年後、安田さんは洗礼を受け、クリスチャンとなられたという話しです。「226許しの往復書簡」と見出しが付けられ、「何という驚くべき許しでしょう」と一般の新聞に報じられました。

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この時のためにこそ

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。エステル記4章から。

4:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。
4:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送った。
4:16 「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」

今日は、東日本大震災から6年、被災地のために祈ると共に、85年前の3月11日を覚えて、大槻筆子先生の回心と献身の証しをわかちあいました。ユダヤ暦では、プリムの祭りの前の断食日が始まる日ですが、エステル記を開き、「この時のためにこそ、私たちはキリストの花嫁とされた」と御言葉からチャレンジを受けました。

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静水に映る月を見よ



岡山にあるノートルダム清心女学院のキャンパスに、水鏡と呼ばれる円形の水のオブジェがあります。昨年の暮れに亡くなられた学院の理事、渡辺和子先生は、明魂という詩から、「月歪むにあらず、水歪むなり」と教えたそうです。水面が揺れていると、そこに映る月も歪んで見えます。同じように、私たちの心が揺れていると、物事が歪んで見えるのです。詩は「静水に映る月を見よ」と続きますが、今週も、心静かに神の御言葉を待ち望み、そこに映る神のみ姿を見させていただきたいと思います。
1月の終わりから、ヨハネ福音書の11章、イエスの友ラザロの死と復活の物語を学んでいますが、昨日は、3月のオープン礼拝ということで、これまで学んできたことの復習も兼ねて、キリストの生涯を描いた映画から、ラザロの復活のシーンを見ていただきました。ラザロの墓前でなされ、イエス・キリストによるいのちの授業です。
ラザロの死に涙し、憤りを覚えられたイエスの姿が巧みに描かれていたり、ラザロの墓がまるで動かし得ない巨大な岩山のように描かれていたり、ラザロの復活がエルサレムに伝えられている様子がハレルヤコーラスと共に、生き生きと描かれていたり、感動でした。もちろん、聖書通りでないところもあります。石を動かす場面がその一つです。聖書によれば、ラザロの墓の前に立たれたイエスは、石を取りのけるように命じています。そこで姉のマルタが、死後四日もたっているので臭いますと、イエスの言葉を拒否するのですが、イエスは言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。
この言葉は、マルタに語られているように思えますが、実はこの福音書を読んでいる私たちに向けて語られたものです。覚えているでしょうか。まず4節、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と、言っておいたではないか。さらに、25節、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、言っておいたではないか。
このように語られた上で、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と、これを読む私たちに、「このことを信じるか」と問われているのです。これは私たちの人生を変えるパワーク・クエスチョンです。映画の中でも、「このことを信じるかね?マルタ。」「あなたはどうだね?マリア」と、一人一人に尋ねられていました。イエスは、あなたにも語られています。「わたしはよみがえりであり、命である。あなたはそれを信じるかね?」

今週も大切なことを大切に。

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許しの往復書簡

3月のオープン礼拝
メッセージ 「許しの往復書簡」いのちの授業(1)
聖書 ヨハネによる福音書11の38-44ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(82)

11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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うめきの祈り


イエスが涙を流すのを見、ユダヤ人たちは、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったり、ある人たちは、「盲人の目を開けたこの人も(半年ほど前、シロアムの池で起こったあの奇跡のことです)、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と言ったりしていました。
さて、イエスの涙に前後して、ヨハネがくり返されて使う言葉があります。「憤り」という言葉です。33節には、「イエスは・・・心に憤りを覚え、興奮して」とあり、38節にも、「イエスは、再び憤りを覚えて」とあります。日本語には訳しにくい言葉のようですが、イエスの感情を描く珍しい記事、また表現と言えるでしょう。
ここで「憤り」と訳されている言葉は、馬がいきり立って鼻を鳴らす様子を示す動詞で、不快感や怒りを表す時に用いられる言葉です。英語の聖書では、groaned in the spirit(霊のうめき声)と訳されていますが、同じ言葉が、ローマの信徒への手紙の8章26節にも使われているのは興味深いです。「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
ラザロの死という動かす事の出来ない深い悲しみを前に、祈る言葉も失って泣いている私たちのために、イエスの内なる聖霊が、まるでうめくかのように、イエスを突き動かしておられるのです。ですから、イエスの涙には、うめきの祈りが隠されていたと言えるのではないでしょうか。ローマ書の8章の続きを読めば、うめきの祈りは万事を益に変え、輝かしい勝利へと私たちを導いてくれることが教えられています。
今日も聖霊は、弱い私たちを助けてくださいます。私たちがどう祈ったらよいかわからなくなるときにも、聖霊は言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるからです。聖霊来てください。御名を呼ぶ私たちの所に、聖霊、聖霊来てください。

3月に入りました。次の日曜日は3月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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