信じさせるためです



ラザロの墓の前に置いてあった石が取りのけられると、イエスは天を仰いで祈り始められました。きっとそこにいた多くの人は、石を動かすことやその後どうなるかに気を奪われていたにちがいありません。しかし、ヨハネはそこで祈られるイエスの声を聞き逃さなかったのです。この後、「ラザロ、出て来なさい」という言葉は、わざわざ「大声で叫ばれた」とことわっていますので、その前の祈りは、誰にも聞こえないような小さな声であったかもしれません。でもヨハネはその声をキャッチしました。
イエスは何と祈られたでしょうか。パンの奇跡の時もそうでしたが、まだ何も起こらない先に、イエスは天を仰ぎ、感謝にあふれた信仰の祈りをささげています。祈りには、お願い事の多い請求書的な祈りと、先取りの感謝と言われる領収書的な祈りがあると言われますが、イエスと父なる神との交わりに見る祈りは、先取りの感謝の祈りです。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」地上的な望みが断たれ、もはや万事休すと言うときに、イエスは天を仰ぎ(これは信頼の姿勢です)、すでにそれを受け取ったかのように過去形で祈られます。この後に続く途轍もない奇跡は、この途轍もない祈りから始まっていたのです。
そして、この祈りの中で、この奇跡の目的が明らかにされています。「わたしがこう言うのは・・・あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」11章の初めから始まったラザロの物語、随分長い記事でしたが、最後ラザロの復活の場面はこの後、たった2節で終わり、その後、復活に続く物語へと話題を移していきます。正直、あっさりし過ぎている感じがするかも知れませんが、ヨハネの焦点は、このイエスの祈り、その一言に集中していました。「彼らに信じさせるためです。」

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出ておいでよ



三浦綾子さんの小説『氷点』の主人公、陽子という名は、綾子さんの実の妹の名前を使っていると言われます。陽子さんは綾子さんが13歳のときに、6歳で亡くなっていますが、綾子さんは近所の暗がりに行って、「幽霊でもいいから会いたいよ。陽子ちゃん、出ておいでよ」と言うほど、妹さんの死を悲しんだそうです。
三浦綾子記念文学館特別研究員の森下先生が、この「出ておいでよ」こそ、三浦文学の原点かも知れないと話されている文章を読みました。森下先生は、取材で、綾子さんが教師時代の教え子に会われたそうですが、その方が登校拒否で学校を休んでいると、綾子さんが家に大福餅を持って来てくれて、「学校に出ておいで」と優しく声をかけてくれたという話しをされたそうです。また、綾子さんは自宅で家庭集会を開いていたそうですが、ご近所の方をお誘いするのに、いつも「一人で家にいないで、家庭集会に出ておいでよ」と言っていたそうです。
『氷点』の最後は、陽子が雪の積もる見本林へ行き、睡眠薬を飲んで命を絶とうとする場面ですが、三浦綾子さんは、睡眠薬を飲んで昏睡状態になった陽子を、三日三晩眠らせますが、そこで陽子を可愛がっていた、陽子の母・夏枝の友人、辰子に「ねるだけ、ねむったら早く起きるのよ(まるで「出ておいてでよ」と呼びかけているよう)、全くちがった人生が待っているんだもの」と言わせているのも意味深な感じがします。そして、『続・氷点』では、目を覚ました陽子が、最後、夕日を浴びた流氷が燃えるように見える光景をとおして、キリストの十字架が描かれていきます。と思えば、「出ておいでよ」が三浦文学の原点というのも当を得ているのかも知れませ。
実は聖書も同じようなところがあります。聖書のはじめ、創世記には、「光あれ(光よ、出て来なさい)」と書かれており、罪を犯した人間に対して、神が「どこにいるのか(出て来なさい)」と呼びかけています。そして聖書の終わり、黙示録には、「聖なる都エルサレムが、花嫁のように用意を整えて・・・天から下って来る(出て来る)のを見た」と新しいエルサレムが現れる光景が描かれ、そして、天使が「ここへ来なさい(出て来なさい)。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」と呼びかけるのです。いのちである神の前に出て来ること、これこそ聖書の一貫したメッセージと言えるのではないでしょうか。

今週も大切なことを大切に。

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226許しの往復書簡



私たちは頭ではわかっていても、体がついていかないことがあります。2月の最後の日曜日は26日でした。昨年の暮れに帰天されたノートルダム清心女学院の理事長、渡辺和子先生は、昭和の大クーデターと言われる226事件で陸軍教育総監であった父・錠太郎氏を亡くしておられます。81年前のことです。先生の本の中に、あるテレビ局から、226事件の追悼番組をするので出演してほしいと依頼があった時の話しがあります。どうしてもと頼まれてテレビ局に行きましたが、そこにお父さまを殺した側の元兵士が来ていたそうです。聞かされていませんでした。常々、「お父さまを殺した人を憎んでいますか?」と聞かれると、「あの方たちにはあの方たちの大義名分がおありだったのですから、憎んではいません」と答えていたそうですが、その日、その方と二人きりになり、出されたコーヒーを口元まで運んでも、飲むことが出来なかったとき、自分は、本当は心から許していないのかも知れない、頭では「汝の敵を愛せよ」とわかっているつもりだったが、体が言うことを聞いてくれないということに気づいたのだと言います。
先生が召された後、一つのエピソードが新聞に掲載されました。226事件から50年経った年、お父さまを襲った青年将校たちの法事に参列してほしいと頼まれて、先生はその法事に参列し弔意を表したそうです。すると、青年将校の一人(先生のお父さまのとどめを刺したと言われる安田という兵士)の実の弟さんが、その様子を見、感動し泣きながら、「私の方が先にお父さまのお墓を参らなければならないのに、申し訳ありません」と頭を下げたそうです。その後、安田さんと渡辺和子先生の交流が始まりました。手紙のやり取りが続き、家族をまじえて食事もしました。5年後、安田さんは洗礼を受け、クリスチャンとなられたという話しです。「226許しの往復書簡」と見出しが付けられ、「何という驚くべき許しでしょう」と一般の新聞に報じられました。

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静水に映る月を見よ



岡山にあるノートルダム清心女学院のキャンパスに、水鏡と呼ばれる円形の水のオブジェがあります。昨年の暮れに亡くなられた学院の理事、渡辺和子先生は、明魂という詩から、「月歪むにあらず、水歪むなり」と教えたそうです。水面が揺れていると、そこに映る月も歪んで見えます。同じように、私たちの心が揺れていると、物事が歪んで見えるのです。詩は「静水に映る月を見よ」と続きますが、今週も、心静かに神の御言葉を待ち望み、そこに映る神のみ姿を見させていただきたいと思います。
1月の終わりから、ヨハネ福音書の11章、イエスの友ラザロの死と復活の物語を学んでいますが、昨日は、3月のオープン礼拝ということで、これまで学んできたことの復習も兼ねて、キリストの生涯を描いた映画から、ラザロの復活のシーンを見ていただきました。ラザロの墓前でなされ、イエス・キリストによるいのちの授業です。
ラザロの死に涙し、憤りを覚えられたイエスの姿が巧みに描かれていたり、ラザロの墓がまるで動かし得ない巨大な岩山のように描かれていたり、ラザロの復活がエルサレムに伝えられている様子がハレルヤコーラスと共に、生き生きと描かれていたり、感動でした。もちろん、聖書通りでないところもあります。石を動かす場面がその一つです。聖書によれば、ラザロの墓の前に立たれたイエスは、石を取りのけるように命じています。そこで姉のマルタが、死後四日もたっているので臭いますと、イエスの言葉を拒否するのですが、イエスは言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。
この言葉は、マルタに語られているように思えますが、実はこの福音書を読んでいる私たちに向けて語られたものです。覚えているでしょうか。まず4節、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と、言っておいたではないか。さらに、25節、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と、言っておいたではないか。
このように語られた上で、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と、これを読む私たちに、「このことを信じるか」と問われているのです。これは私たちの人生を変えるパワーク・クエスチョンです。映画の中でも、「このことを信じるかね?マルタ。」「あなたはどうだね?マリア」と、一人一人に尋ねられていました。イエスは、あなたにも語られています。「わたしはよみがえりであり、命である。あなたはそれを信じるかね?」

今週も大切なことを大切に。

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うめきの祈り


イエスが涙を流すのを見、ユダヤ人たちは、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言ったり、ある人たちは、「盲人の目を開けたこの人も(半年ほど前、シロアムの池で起こったあの奇跡のことです)、ラザロを死なないようにはできなかったのか」と言ったりしていました。
さて、イエスの涙に前後して、ヨハネがくり返されて使う言葉があります。「憤り」という言葉です。33節には、「イエスは・・・心に憤りを覚え、興奮して」とあり、38節にも、「イエスは、再び憤りを覚えて」とあります。日本語には訳しにくい言葉のようですが、イエスの感情を描く珍しい記事、また表現と言えるでしょう。
ここで「憤り」と訳されている言葉は、馬がいきり立って鼻を鳴らす様子を示す動詞で、不快感や怒りを表す時に用いられる言葉です。英語の聖書では、groaned in the spirit(霊のうめき声)と訳されていますが、同じ言葉が、ローマの信徒への手紙の8章26節にも使われているのは興味深いです。「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
ラザロの死という動かす事の出来ない深い悲しみを前に、祈る言葉も失って泣いている私たちのために、イエスの内なる聖霊が、まるでうめくかのように、イエスを突き動かしておられるのです。ですから、イエスの涙には、うめきの祈りが隠されていたと言えるのではないでしょうか。ローマ書の8章の続きを読めば、うめきの祈りは万事を益に変え、輝かしい勝利へと私たちを導いてくれることが教えられています。
今日も聖霊は、弱い私たちを助けてくださいます。私たちがどう祈ったらよいかわからなくなるときにも、聖霊は言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成してくださるからです。聖霊来てください。御名を呼ぶ私たちの所に、聖霊、聖霊来てください。

3月に入りました。次の日曜日は3月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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本屋の奥の秘密の本屋



土曜日の中日春秋から。

百二十万冊もの本を取りそろえる巨大な書店・丸善名古屋本店地下一階の文庫・新書売り場の隅に、その扉はある。人ひとり通るのがやっとという小さなドアだが、売り場を担当する熊谷由佳さんも、それが開いているのを見たことがないという。いったい、中に何があるのか。どこかに通じているのか。全国の現役書店員らが書いた『夢の本屋ガイド』によると、そこには「本屋の奥の秘密の本屋」があるらしい。それは小さな小さな書店で、常に中から鍵がかかっている。常連客の紹介がなければ扉が開くことはないが、いったん入れば、馥郁(ふくいく)とした時間が待っている。・・・中略
まさに理想の書店だが、何しろ売り場を担当する熊谷さんですら扉が開いているのを見たことがないのだから、そこは「夢の本屋」なのだろう。しかし考えてみれば、本そのものにも「秘密の扉」はある。何年も積ん読にしたままだった本が突然、扉を開けて招き入れてくれるような瞬間がある。何度も読み返してきた本に「奥の秘密の部屋」を見いだすような瞬間もある。だが、それは自分の手で開こうとしなければ開かない扉だろう。

先週、「十字架の黙想・平成版」が届きましたが、一週間、読んでいただけたでしょうか。前の方が良かったとか、馬鹿なことを言わないで、この新しい本の奥の秘密の部屋を、毎日あなたの手で開いていただきたいと思います。ある牧師は、この本を読んで、神は愛であって、私たちをキリストの似姿に変えようとしていることがわかったと言いました。「読書百遍」と言います。ぜひ、くり返し学んでください。しかし、何よりも毎日聖書を開いて、聖書の奥の秘密の部屋、神様の心の奥にある秘密の世界を学び、体験していただきたいと思います。

今週も大切なことを大切に。

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彼をどこに置いたのか。



イエスは涙を流されました。私たちも涙をこぼすことがあります。私たちの心を洗い清めるような大切な涙も、喜びや感動の涙もありますが、心を沈ませ、死に至らせるほどの悲しみと絶望の涙もあるでしょう。その根本的な問題が、ラザロがいなくなったことなのです。イエスは、泣きじゃくるマリアに「ラザロをどこに葬ったのか」と尋ねています。口語訳聖書では「彼をどこに置いたのか」と訳されています。彼とは、ラザロのことですが、ラザロとはヘブライ語でエルアザル(神の助け)という意味です。
今年はマルチン・ルターによる宗教改革から500年の記念の年ですが、彼について有名なエピソードがあります。ある時、彼が意気消沈し、うなだれている様子を見た彼の妻が、喪服を着て家の中を歩いていたというのです。ルターは慌てて、誰かが亡くなったのかと尋ねるのですが、賢い彼の妻はひと言、「あなたの神が亡くなってしまわれました」と答えたそうです。あまりにも落ち込んで、くよくよしているルターに、彼女のひと言は天からの声となり、彼は歴史的な宗教改革を推し進める前に、自らの心の内に宗教改革を経験したという話しです。
彼をどこに置いたのか。ラザロ、神の助けをどこに置いたのか。あなたはあなたの神とその助けをどこに置いてきてしまったのですか?
御言葉が響きます。「誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。」

デボーションガイドの次号の校閲が終わったので、1時間ほど、教会の案内を配って来ました。
風は冷たかったですが、日射しは暖かかったです。

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一番短い節



マルタが家に戻り、妹のマリアに耳打ちして、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と伝えます。ほんとうは大きな声で伝えればよかったと思うのですが、その頃、すでにイエスが来られたことも、イエスのもとに行くことも、あまり公にはできない緊迫した状況が出来上がっていたことを、ヨハネはそれとなく私たちに伝えます。
イエスが呼んでいると聞き、マリアはすぐにイエスのもとに向かいました。ラザロの姉妹を慰めるために来ていた人々は、彼女がラザロの墓に行くのだろうと思い、ついて行きましたが、マリアはイエスを見つけると、その足もとにひれ伏し、姉のマルタが言ったのと同じことを言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうに」と。彼女たちはイエスを信じていましたが、その信仰には限界があったのです。
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』・・・イエスは涙を流された。」
旧新約聖書66巻は1189章、約31173節から成ります(1189章は「いいやく」、31173節は「3つのいい波」と覚えてください)。聖書の章や節は、もともと付けられたいたのではなく、500年ほど前に便宜上付けられたもので、そこに神学的な意味合いがあるわけではありませんが、よく英語の聖書で最も短い節と言われているのが、この35節です。日本語の聖書ではもっと短い節がありますので、探してみてください。この言葉は、聖書で一番短い節かも知れませんが、聖書の中で神の愛の深さを最もよく表している節でもあります。イエス・キリストは涙を知っておられました。ヨハネ福音書は一貫してイエスが神の子であることを証しする書ですが、イエスが疲れ、渇き、涙する姿を描くことをためらいません。彼はイエスが人となれた神の子であることを大胆に証しするのです。

今週も大切なことを大切に。

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御創(みきず)



土曜日の中日春秋から。
「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
間もなく、お待ちかねの十字架の黙想・平成版が届くことになっていますが、
第一日目に聖イグナチオの十字架に向かう祈りという短い祈りが載っています。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版と言ってもオリジナル版の格調を損なわない程度に、
文語の言い回しが残っていますので、ベテランの方にも、
漢字は普通に読めるようになっていますので、
若い方にも末永く愛していただける一冊となっています。
「み傷の中に」も普通の「傷」に書き換えられたところですが、
オリジナル版は「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
キリストの十字架の御創に、私たちが接ぎ木されることによって、
キリストの命が私たちを新しく生まれさせ、新創造する、と。

2月13日、今日は岐阜で祈り会です。
今週も大切なことを大切に。

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愛しておられたので



過越祭が近づいた頃、エルサレムを離れていたイエスのもとに、ベタニア村のマルタとマリアの姉妹から使いがやって来て言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」ラザロが危篤との知らせです。その時イエスがいた場所からベタニアまで、急ぎ足で一日ほどの距離でした。マルタとマリアは、イエスがすぐにでも来てくれると期待していましたが、イエスはすぐには出発せず、さらに二日そこに留まっていました。
私たちが使っている新共同訳聖書では、5節の後、6節に移るのに接続詞がありませんが、本来は「それだから」という、少し意味づけを難しくする接続詞がついています。新改訳聖書では、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。そのようわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞いたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」と、接続詞を訳しています。詳訳聖書も、「それゆえ」という接続詞を入れ、現代語訳聖書も「イエスは・・・ラザロを特別に愛しておられたので・・・なお、二日間そこにいて、動こうとはされなかった」と、イエスが彼らを(特にラザロを)愛していたことが、出発を遅らせた理由であったことを説明しています。愛しているのなら、すぐに行くのではと考えてしまいますが、この疑問を解くのが、物語全体の鍵でもある4節の言葉です。実存主義の思想家キルケゴールは、この4節の言葉から、「死に至る病」という著書を著し、絶望について論じましたが、イエスは「この病は死で終わるものではない。神の栄光のため、また神の子が栄光を受けるためである」と語り、その時をじっと待たれたのです。
7節の「それから」と言うのは、二日の後、三日目ということになりますが、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言います。弟子たちは、慌てた様子で、あるいはあきれた様子で、それを阻止しようとしますが、イエスは「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と答えます。弟子たちは、「眠っているだけなら助かるのでは」と言いましたが、イエスは「ラザロは死んだのだ」とラザロの死をはっきりと告げ、さらに言葉を続けられました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」と。
ここにも、愛する友ラザロの危篤を知らされて、なお二日居た場所に留まった理由が語られています。それは弟子たちが信じるようになるためだと・・・。4節には「神の子が栄光を受けるため」とありましたが、イエスがこの出来事を通して、お受けになる栄光とは、そして弟子たちがそれを信じるようになるとはどういうことでしょうか。ヨハネ福音書は、くり返しイエスの栄光について述べていますが、それはイエスが全人類の罪の贖いとして十字架の上で死に、永遠の命が人々に与えられることを指しています。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とのイエスの言葉は有名ですが、これはイエスの死と復活によって、人々が永遠の命を受けることを語っています。ですから、ヨハネ福音書は、ラザロの死と復活を、イエスの死と復活と重ね合わせるように、私たちがそれを信じるように導くのです。

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